第26話:なぜ、そこまで
証人、というのはもちろん、ガストンのことだった。
翌朝、窯場の隅で切り出すと、親方は火掻き棒を持ったまま、長いこと黙った。
「……二十年前の話を、紙にして、理事会に出すってのか。俺の名前で」
「無理にとは申しません。ですが親方の他に、あの年を語れる人がいないのです」
「──少し、時間をくれ」
それだけ言って、親方は窯の前に戻ってしまった。あの広い背中が、あんなに重く見えたのは初めてだった。職人が連合を訴える。それがどういうことか、私にはまだ、本当の重さでは分かっていないのだと思う。
待つ間も、入札の仕度は待ってくれない。そして──その仕度の傍らで、私はひとつ、妙なことに気づき始めていた。
レナールの熱量が、おかしいのだ。
仕様書への対案、実演の段取り、書類の清書。そこまでは分かる。入札に勝つための支出だ。けれどこの人は、その合間を縫って、二十年前ばかり掘っている。
官報は、審査役の一覧の載ったあの一枚では足りないと、古書肆を五軒回って二十年前の綴りを金貨十二枚で買い集めた。調達局を退職した老官吏を、休みの日に三人も訪ね歩いた。夜中に目を覚ますと、事務室の灯りの下で、母の画帳と献灯記録の写しを突き合わせている。
三人目の老官吏から帰った晩など、ひどかった。外套は埃だらけ、夕食は抜き。それなのに机に着くなり書き付けを始めるものだから、私は台所から温め直した鍋を運ぶ羽目になった。
「収穫は、ありまして?」
「二十年前の候補選定の下見に、連合から使いが二度出た記録の裏が取れました。それから──」匙を持ったまま、この人は書き付けを続けようとした。「エレーヌ様の灯りを、当時の調達局の古株が『あれが本命だった』と」
「レナール様。匙は食事に、ペンは書き物に使うものですのよ」
「……両立の工程を、検討します」
検討しなくていい。私は匙のほうを彼の右手に握らせ直した。指が触れて、お互い、匙の話を続ける振りがうまくできなかった。
「レナール様。……その調べもの、入札の役に立ちますの?」
「立ちます。二十年前の構図は、今回の構図と同じですから。敵の前例を知るのは有効な投資です」
答えは、いつもの商談の声だった。筋も通っている。……通っているのに、勘定が合わない。
入札に要るのは、実演の勝利だ。母の名誉が回復されても、審査の票は一票も動かない。官報に金貨十二枚、老官吏の聞き込みに休日を三日。この人の帳簿の流儀なら、真っ先に削られる費目のはずだった。
数字の男が、数字にならないものに、こんなに注ぎ込む。
──なぜ?
総会前夜の、雨の作業場を思い出す。『計算の、しかたが分からない』と言った、あの掠れた声。あのときの分からない勘定と、この採算の合わない支出は、同じ帳簿のどこかに、載っているのではないか。
その答えの尻尾を、私は思わぬ場所で見ることになる。
「エステル様。明日、半日だけ外に出ます。実演の参考に、見ていただきたい灯りがあるので」
「灯り? どちらの」
「河岸の礼拝堂です。──調べがつきました。エレーヌ様の月光灯で、いまも灯り続けているものが、王都に一基だけあります」
息を、呑んだ。母の灯りの、現物。二十年前の月が、まだ生きている。
聖オディール礼拝堂は、河港に近い倉庫街の外れにあった。煤けた石壁の、小さな古いお堂だ。行き交うのは荷役夫と船乗りばかりで、貴族街からは、王都でいちばん遠い匂いがする。
驚いたのは、レナールの足取りだった。入り組んだ倉庫街の路地を、この人は一度も道を尋ねず、曲がり角ごとに迷いなく曲がった。地図も出さずに。
「……お詳しいのね、この界隈」
「商会の倉庫が、昔この辺りに。──着きました」
扉を押すと、蝋と古い石の匂いがした。狭い堂内に、長椅子が六列。その祭壇の脇に──それは、灯っていた。
古い、古い月光灯だった。硝子は今のうちの品より厚く、重ねは二段きり。台座の真鍮は磨かれて角が丸くなり、吊り鎖は途中で一度、継ぎ直されている。それなのに。
銀色だった。二十年、昼も夜も灯り続けてきた月が、狭いお堂の天井に、やわらかい光の輪を広げていた。石壁の煤さえ、その光の下では夜空の色に見えた。
私は近づいて、しばらく声が出なかった。
重ねは二段。今のうちの月より素朴で、そのぶん、光に迷いがない。硝子の内側にごく浅い波を打たせてあって、魔石の光がその波を通るたび、月の面がゆっくり息をするように揺れる。
長椅子に座る人の顔がいちばん優しく見える高さに、吊り位置が計算されている。祈る人のための、祈る人だけのための設計だった。
これが、王都をどよめかせた人の、まだ誰にも潰される前の月。
「まあ……綺麗」
堂守の老婆が、蝋燭の芯を切りながら、こともなげに言った。
「もう二十年以上になりますかね。魔石だけ替えて、灯し続けとります。夜通し点けておくのが、ここの決まりでね。──倉庫街は夜が暗いから。昔から、行き場のない子がよく、あの灯りの下で寝とりましたよ」
老婆は懐かしそうに、長椅子の端を撫でた。
「不思議とね、あの灯りの下だと、子供が泣き止むんですよ。……そうそう、何年か前にはね、そうやって寝とった子のひとりが立派な身なりで戻ってきて、名も言わずに、魔石代を十年分も置いていきなすった。おかげでこの貧乏堂も、灯りだけは絶やさずに済んどります」
「まあ。……奇特な方ですのね」
「ほんとにねえ」
レナールは、灯架の鎖の継ぎ目を検分していた。こちらに、背を向けたままで。
私は台座の裏を、そっと検めた。指先に、彫りが触れる。E・L。……母さん。あなたの月は、こんな場所で、二十年も夜番をしていたのね。
振り返って、私は言葉を失くした。
レナールが、灯りを見上げていた。
帳簿を見る目ではなかった。図面を見る目でも、商品を検める目でもなかった。強いて言うなら──長い旅から帰ってきた人が、家の窓の灯りを見る目、だった。
「レナール様は……この礼拝堂に、いらしたことが?」
「いえ。初めてです」
即答だった。この人にしては、半拍だけ、早い即答だった。
帰り道、彼は実演の話しかしなかった。重ねの厚みが、鎖の継ぎが、二十年の耐久の実証が、と。私は相槌を打ちながら、隣の横顔を盗み見ていた。
なぜ、そこまで。
喉元まで出かかった問いを、私は呑み込んだ。まだ出すときではない。商談と同じだ。急かせば、この人はまた「合理的」な包み紙で本音を包んでしまう。
工房に戻ると、夕闇の門の前に、ガストンが立っていた。腕を組んで、私たちを待っていた。
「──決めたぜ」
親方は、二十年ぶんの息を、ゆっくり吐いた。
「公証人を呼べ、若旦那。二十年前の話、俺の口から、全部紙に残す。……先生の弔い合戦、仕上げまで付き合うのが筋ってもんだ」
次話、二十年目の証人が口を開きます。あの夜、エレーヌの工房に誰が来て、何を言ったのか。
ブックマークと☆評価、礼拝堂の灯りの魔石代になります。




