第25話:削られた名前
その夜、事務室の円卓は、帳簿ではなく紙の山だった。
書庫からの帰り道、私たちはほとんど口を利かなかった。あの棚の穴が、馬車の中まで付いてきていた。
目録に行だけを残して消えた一冊。紙は燃えることも、濡れて破れることもある。けれど目録に行が残ったまま消えるのは──誰かが、抜いたときだけだ。
夜半、階段を上がってきたミレットが、湯気の立つ鍋を円卓の端に置いた。
「差し入れです。……今夜は、寝ないやつですね?」
「ええ。寝ないやつ」
「なら、二人分置いていきます」
あの子はそれだけ言って、何も訊かずに下りていった。うちの見習いは、空気の読み方だけは親方級である。
私たちは持っているものを、全部並べた。
一枚目。連合の審査記録の写し──二十年前の品評会。出品番号は残っているのに、名前の行だけが細い刃で削り取られている紙。大聖堂で見つけた、あれだ。
二枚目。大聖堂の献灯記録の写し。同じ年の奉納者の欄に、几帳面な聖堂文字で『エレーヌ・ラヴォワ』。教会は覚えていて、ギルドは消した。
三枚目。連合名鑑。母の名は、ある年を境に忽然と消えている。綴じ直しの跡だけを残して。
四枚目は紙ですらない。今日の書庫の、あの棚の穴だ。
そして卓の端には、倉庫から出てきた母の重ね型と、擦り切れた画帳。
「順番に、組み立てましょう」
レナールが、書き付け用の紙を広げた。
「まず書庫で確かめた前後の巻です。二十一年前の納入台帳に、こうありました。『大広間灯具、老朽につき更新の儀、候補選定を連合に諮る』。──二十年前、王宮は大広間の灯りを新しくするつもりだった。今回とまったく同じ話が、二十年前にもあったのです」
「それで、十九年前の巻には」
「『灯具更新は見送り。既存灯の補修のみ』。……候補選定は、始まったのに、消えた。間の一年の記録ごと」
「その同じ年に」私は献灯記録の写しに指を置いた。「母の月光灯が大聖堂に灯って、会場中をどよめかせた品評会があって──『規格外』の三文字で、握り潰された」
「繋げます」レナールの筆が、紙の上を走った。「二十年前。王宮の灯具更新が持ち上がる。連合に候補選定が諮られる。その年の品評会で、エレーヌ・ラヴォワの魔導灯が誰の目にも明らかな一番になる。順当なら、候補の筆頭は革新の意匠──重ねの灯りだった」
「けれど、それでは困る人たちがいた」
「大広間の大灯を三代納めてきた、老舗と。その縁戚の、当時の審査主任」
レナールは古びた紙を一枚、山の中から抜いた。今日の帰りに古書肆で買った、二十年前の連合の官報だ。品評会の告示の末尾、審査役の一覧。
『審査主任 ゴーティエ』
分かっていたはずなのに、活字で見ると、胃の底が冷えた。
「主任の権限で『規格外』の判定を打ち、審査記録から名を削り、名鑑から消した。革新の意匠が候補から消えれば、更新そのものが流れて、大広間は古い灯りのまま──つまり、次の補修も、その次も、変わらず縁戚の工房に落ちる」
「母ひとりの名前を消すだけで、二十年分の商いが守れた、というわけですのね」
自分の声が、他人のもののように平坦だった。
「安い買い物です。相手の帳簿の上では」レナールの声も、平坦だった。「名前ひとつ。刃を一度走らせるだけ。仕入れ値はただで、儲けは二十年分の独占。……私が知る限り、王都でいちばん質の悪い商いです」
ふ、と思い出す。十歳の、母の葬儀の日。
黒い服の親戚たちは、棺の母より、残された家財の話をしていた。その中の誰かが、棺の向こうで言ったのだ。『女に意匠は無理だったのだ。分を越えるから、ああなる』──と。
誰も、言い返さなかった。父も。十歳の私も。それどころか家庭教師は帰り道、私の画帳を取り上げてこう言った。「お嬢様は、ああなってはいけませんよ」と。
あの言葉を、私は十二年、疑えなかった。母は負けたのだと、どこかで思っていた。世界のどこかに正しい秤があって、母の月はそこに載って、届かなかったのだと。
違った。届いていた。届いた先で、秤ごと隠されただけだ。
母は負けてすらいなかった。戦わせて、もらえなかったのだ。
「……エステル様。手が」
言われて、気づいた。書き付けを取ろうとした私の手の下で、図面用の鉛筆が、紙に濃く短い線を何本も刻んでいた。線が、全部震えて曲がっている。私の線は、曲がったことなどないのに。
レナールは何も言わずに、新しい紙を一枚、そっと私の手の下に差し入れた。それから、続きを事務の声で言った。この人なりの、絆創膏だった。
私は一度だけ、深く息をした。怒鳴るのは簡単だ。けれど怒鳴った声は、二十年前には届かない。届かせたいなら、声ではないもので行くしかない。──規格のほうを書き換えに参ります、と親方に言ったあの夜から、私の戦い方は決まっている。
「続けてくださいな、レナール様。手は、もう曲がりませんわ」
「整理します。構図は見えました。ですが──今あるものは、全部『状況』です」
「状況、と仰いますと」
「削り跡は、誰が削ったかを語りません。抜けた綴りは、誰が抜いたかを語らない。官報は、ゴーティエ氏が審査主任だったことしか証さない。……法と理事会の前に出すには、輪郭だけで、芯がない。今のまま出せば、二十年前と同じやり口で潰されます。『憶測』の、たった二文字で」
「数字は嘘をつきません、でしょう? この紙の山も、嘘はついていませんわ」
「ええ。ただ、黙ってもいる。……紙は、そこに『何が起きたか』までは書いてくれない。判定の前に何があったのか。あの年、母君の工房に、誰が来て、何を言ったのか。それを語れるのは、紙ではありません」
「では、どうしますの。二十年前ですのよ。当時の審査員は皆、あちらの『古い友人』ですし、母の工房の人たちは散り散りで──」
言いかけて、私は止まった。
散り散り。……本当に?
母の口癖と同じ言葉を使う人が、母の重ね型を二十年守ってきた人が、母の話をするとき今でも「先生」と呼ぶ人が──ひとり、いる。毎朝、私に窯の火加減を教えてくれる声で。
レナールは顔を上げた。私の目を見て、頷いた。
「人です。──二十年前のその現場に、いた人」
彼は、窓の外を見た。硝子の向こう、中庭を挟んだ窯場に、夜番の火がひとつ、低く灯っている。あの火を、今夜守っているのが誰か、私はもう知っていた。
「うちの工房に」
二十年目の証人は、いちばん近くにいました。次話は証言の前に──「なぜ、そこまで」の違和感の答え合わせが、少しだけ始まります。
ブックマークと☆評価が、削られた名前を掘り起こす手になります。




