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契約結婚の初夜、旦那様は花束ではなく帳簿を持ってきました 〜愛のない政略夫婦、傾いた灯り工房を二人で立て直します〜  作者: 雪乃フィオナ


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第24話:公正な手続きの顔

 最初の矢は、届け出から十日目に飛んできた。


『提出書類、不備につき差し戻し。写しの部数不足、綴じ紐の色が規定外、代表者印の位置が枠外』


「綴じ紐の、色」


 私は差し戻しの通知を、三度読んだ。うちの書類は青紐で綴じてあった。規定は紺だという。青と紺の間のどこかに、王国の威信が懸かっているらしい。


「怒ってはいけません、エステル様。これは怒らせるための書式です」


 レナールは涼しい顔で、棚から書類の束を三つ下ろした。同じ書類が、紺紐で、もう二組。


「……いつの間に」


「差し戻しは想定済みです。全書類は三部ずつ作ってあります。紐は紺も黒も用意してあります。印の位置は規定の写しごと突き合わせて、余白まで測ってあります」


「レナール様って、たまに怖いわ」


「褒め言葉として帳簿に付けておきます。それから今後、調達局への提出はすべて私と共に。窓口で受領印をその場でいただき、控えに割印を残します。──『受け取っていない』と言わせないためです」


 差し替えの書類は、翌朝一番に窓口へ出した。受付の官吏は紐の色を検め、印の位置を物差しで測り、粗探しの種が尽きたところで、渋々受領印を捺した。レナールはその場で控えに割印を求め、官吏の顔がほんの少し歪んだ。歪んだ、ということは、効いているということだ。


 二の矢は、五日後。『提出期限を三日繰り上げる』という通達だった。締切前日に、日付を遡って届いた。


 これには工房中が青ざめた──のだが。通達を回し読みしたガストンが、腕まくりを始めたのが一番怖かった。


「殴り込みか? 殴り込みだな?」


「殴るなら書式で、ですわ親方。拳は割印より弱いの」


「問題ありません。うちの書類は、とうに出し終えています。受領印と割印つきで」


 レナールは控えの束を、こつ、と叩いた。通達の紙一枚が、急に間の抜けた顔に見えた。


「期限の繰り上げは、まだ出していない工房を落とすための網です。網が届く前に岸に上がっておけば、濡れもしません」


「……バルニエ工房は、濡れませんの?」


「濡れません。繰り上げを知っていた側ですから」


 三の矢は、紙ですらなかった。ガストンが職人の寄り合いで拾ってきた噂だ。


「バルニエの窯場が、もうふた月も前から大灯の試作を焼いてるとよ。総重量も据付の寸法も、今度の仕様書とぴったり同じやつをだ。──仕様書が配られる、前からだぞ」


「事前に漏れていた、ということですわね。……メルシエ局長」


「証しはまだありません。ですが、ふた月前の材木と真鍮の仕入れは、帳簿と問屋に必ず残ります。数字は嘘をつきません。憶えておきましょう」


 こつ、こつ。帳簿が二度鳴る。この人は怒らない。怒る代わりに、全部書き留める。


 その夜は、納入計画の作り直しだった。写し三部、条文五十余りとの突き合わせ。充実した備品の蝋燭二本で、円卓に二人。


「エステル様。納入計画の三枚目、灯架の基数が『百三十』になっています」


「え? ……あら、本当」


「二枚目の魔石の数も、十粒ずれています。……珍しい。あなたが数字を写し間違えるのは」


「…………蝋燭が、暗いのですわ」


「蝋燭は、二本あります」


「……では、芯が湿気ていますのよ」


「その言い訳は初めて伺いました。帳簿に付けておきます」


 覚えられてしまった。私は新しい紙を引き寄せて、書き損じの理由からは、全力で目を逸らした。割印を押すとき、彼の手と私の手がぶつかって、印がほんの少し斜めになった。斜めのまま、直さなかった。


 書類は三日後、受理された。差し戻しの理由は、もう見つからなかったらしい。


 そして四の矢が来る前に、思わぬところから盾が届いた。王妹殿下からの、呼び出しである。


 拝謁の間で、フェリシア殿下は開口一番こう仰った。


「実演審査、私も観るわ」


「……よろしいのですか。選定は調達局の管轄では」


「観覧は王族の自由よ。大聖堂の月を大広間いっぱいで見られる機会を、逃すと思って? 私は面白いものが見たいの。それだけ」


 扇が、ゆるく開いた。


「それにあの大広間、私が子供の頃からずっと、眩しいだけなのよね。バルニエの大灯は立派よ。立派で、眩しくて──それだけ。夜会で三刻もあの下にいると、頭の芯が痛くなるの」


 目利きは、本物だ。この方は灯りの値段ではなく、灯りの下で過ごす時間の話をしている。


 扇の先が、ぴた、と私たちを向いた。


「それにね。面白いものは、暗い部屋で消されるのがいちばん詰まらないの。──私が観ている審査で、詰まらない手品をする度胸のある役人が、この王宮に何人いるかしらね」


 殿下は全部ご存じだった。善意では動かない、と仰るこの方の私欲が、今は王都でいちばん頼りになる。


「殿下の観覧料は、いかほど」


「高いわよ。実演で退屈させたら、利息をつけて取り立てるから」


 帰り道、レナールがぽつりと言った。


「観覧の目がひとつ増えるだけで、審査は密室でなくなります。……ありがたい私欲です」


「あなたの言う『打てる手は打っています』の中に、殿下は入っていましたの?」


「いえ。これは殿下ご自身の投資です。──うちは、投資していただける工房になった。それだけのことです」


 その足で、私たちは調達局の書庫に寄った。入札参加者には、過去の納入記録の閲覧が許される。実演の前例、灯架の図面、歴代の御用達の仕様。


 書庫は、紙の匂いのする洞窟だった。天井まで届く棚に、王宮が百年買い続けてきた物たちの記録が眠っている。レナールは水を得た魚である。「前例は最良の教科書です。三代前の実演の次第書が──ああ、あった」と、砂金でも見つけた声を出していた。


 彼が前例を書き写す間、私は──別の棚の前に立っていた。


 王宮納入台帳。年度ごとの、分厚い綴りの列。


 探したのは、二十年前だ。母の灯りは、大聖堂の献灯記録に残っていた。品評会では会場中をどよめかせた。なら王宮には?


 伝説の意匠師と呼ばれた人だ。一度くらい、名前が残っていないだろうか。残っているなら、指の先だけでも触れておきたかった。それだけの、小さな寄り道のつもりだった。


 指が、棚の上を滑って、止まった。


 十九年前の綴り。二十一年前の綴り。その間が──ない。


 棚の目録には、確かに行がある。『二十年前 納入記録 一巻』。けれど棚のその場所だけ、綴りの背が一冊分、暗く欠けていた。


「……レナール様」


 振り返った彼に、私は棚の穴を指した。声が、思ったより低く出た。


「二十年前だけ、記録がありませんの」


目録に行はあるのに、綴りがない。次話、削られた名前の二十年前に踏み込みます。

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