第21話:職人テオの借金
深夜の作業場に、燭台をふたつ点けた。
円卓の上には、蝋の写しの入った麻袋。囲むのは、私とレナール、ガストン。それから部屋の隅に、帰れと言っても帰らないミレットが正座している。「あたしが見つけたんだから、最後まで見ます」だそうだ。
テオは椅子を勧めても座らず、立ったまま、訥々と話した。
妹の名は、リゼット。十九。三年前から胸を患っていて、薬は月に金貨二枚半かかる。両親は早くに亡くなって、兄妹二人きり。
前にいた工房が潰れて給金が途切れたとき、薬代のために金貸しから金貨三十枚を借りた。
「利子だけ払って、三年です。元金は、一枚も減ってません。それでも薬さえ続けば、と思ってました。……その証文が、半年前──金貸しごと、ジスランに買われました」
「工房に入ったのも、ジスランの差し金か」
ガストンの声は、低かった。テオは首を横に振った。
「いえ。ここへは、自分の足で来ました。デュランの工房は腕で人を採ると聞いて……腕で食い直すつもりだった。半年、本当にただの職人でした。ここの窯は、いい窯です」
「見つかったのは、いつだ」
「ふた月前です。使いが来て、店に呼ばれて。『デュランの工房にいるそうだな』って。証文を目の前で振られて──『型を写せ。嫌なら証文を親類縁者に回して、妹の薬を止める』と。薬種問屋にも、もう話は通してあると」
「披露の夜の話を漏らしたのは」
「……俺です。あの晩のうちに使いが来て、何か変わったことはないかと。『紋が入る』と、それだけ言いました。それ以上は、どうしても言えなかった。……型は、まだ渡してません。今夜が、最初で。何度も、型置き場まで行っては、戻って」
ミレットが二度見たという「立っているだけの夜」は、それだったのだ。
沈黙が落ちた。ガストンが、椅子を鳴らして立ち上がった。
殴るのか、と思った。テオも目をつぶった。
親方はテオの前に立つと、その両手首を掴んで、燭台の灯りにかざした。硝子職人の手を、検品する手つきだった。
「……この四日、お前の磨きは、ずっと謝ってやがった。手ってのは正直だ。裏切りに慣れた手は、あんな磨き方はしねえ」
それから親方は私たちを振り返って、職人頭の顔で言った。
「代表。こいつを切るのは簡単だ。だが職人一人を、金貸しと悪徳商人の餌に投げてやるのは、俺の沽券に関わる。腕は本物だ。──俺が預かる」
レナールは、とっくに帳簿を開いていた。もう何かを書きつけている。
「奇遇ですね、親方。数字も、同じ答えです」
「あん?」
「テオさんを警吏に突き出せば、ジスランは証文を握ったまま、次の通り道を探すだけ。妹君の薬は止まり、うちは腕のいい職人を一人失い、工房の皆は後味の悪さを抱えて窯に向かう。損が、三つ」
彼は頁をこちらに向けた。
「逆に、うちがその証文を金貨三十枚で買い取れば──脅しの根が消える。職人が残る。そして」
彼は顔を上げて、薄く笑った。この人がこの笑い方をするのは、算盤が悪巧みに届いたときだけだ。
「敵がせっかく掘った通り道は、こちらの手に残ります。得が、三つ」
「「──買い取りましょう」」
私とレナールの声が、綺麗に重なった。ガストンが「夫婦そろって即決かよ」と呆れ、隅のミレットが「よ、よかったぁ……」と潰れた声を出した。
テオだけが、ついていけずに固まっていた。
「な……なんで、です。俺は、売ろうとした。この工房を」
「まだ、売っていませんわ。四日迷って、袋は一度も工房の敷居を跨いでいない。それに」
私は麻袋を、円卓の真ん中へ押し出した。
「あなたにはこれから、この工房でいちばん大事な納品をしていただきますの」
段取りは、その夜のうちに決まった。
証文は工房が即金で買い取る。原資は今月の納めの実入りから。返済は給金から、無理のない割で。「利息は」と俯いたまま訊いたテオに、レナールは眉も動かさず答えた。
「うちの帳簿に、人から取る利息の科目はありません。あなたの罪の帳尻は、これで合っています。以後は、腕で払ってください」
「リゼットさんのお薬は、当面の分を工房で前貸ししますわ。療養のことは、うちの出入りのお医者さまにも診ていただきましょう」
「……なんで、そこまで」
「工房は、職人の腕でできていますのよ。腕は、身内の心配をしながらでは鈍りますの。これは温情ではなく、投資ですわ」
言ってから、あら、と思った。言い回しが、すっかり誰かさんに似てきている。当の誰かさんは素知らぬ顔で帳簿をめくっていたが、口の端がわずかに緩んでいたのを、私は見た。
身柄はガストン預かり。そして──納品物は、私が三日で仕上げた。
偽の、型面だ。
見た目は満月灯の型そのもの。けれどこの型で焼けば、紋は笠の外側の彫りにしか出ない。玉の中には、何も入らない。点しても、影には何ひとつ浮かばない。
「ジスランには、確かめようがありませんわ。『点けて、影を見る』──その見方そのものが、まだあちらには分かっていないんですもの」
「悪い顔になってますぜ、奥方」と、ガストンが笑った。失礼な。共同代表の顔と言ってほしい。
三日のあいだ、型面の検品はテオ自身にやらせた。本物の型を毎日扱う手が「これなら疑われない」と言える出来でなければ、渡せないからだ。
テオは二度、駄目を出した。「面の摩れ方が新しすぎます。半年使った型は、湯口の角がもっと丸い」──言われたとおりに直すたび、この工房は良い職人を拾ったのだと思った。
拾ったというなら、拾われたのはこちらも同じかもしれない。敵が掘った通り道の入り口で、うちはいま、腕の良い門番を雇い直したのだ。
受け渡しの前夜、磨き場でテオとミレットが並んでいるのを見た。ミレットが自分の練習玉をひとつ、テオの道具箱にことんと置いて、「お守りです。……磨き、また見てくださいね」と言っていた。テオは長いこと黙って、それから「……いい目だ、やっぱり」と、それだけ言った。
受け渡しは、三日後の夜に行われた。
戻ったテオの報告を、私たちは帳場で聞いた。
「受け取って、上機嫌でした。銀貨まで握らされました。……それで、妙なことをひとつ。懐に型をしまいながら、独り言みたいに──『これで、うるせえ旦那もやっと黙る。入札より前に潰せ、潰せと、朝晩まくし立てられて敵わねえ』と」
「……旦那?」
「ジスランの上に、誰か、います」テオは首を振った。「あれは、安売りの喧嘩をしてる男の顔じゃねえです。誰かに頼まれて、期日に追われてる顔です。……ああいう顔は、借金してた俺には、分かります」
入札より前に、潰せ。
安い月の後ろに、別の顔が透けて見えた夜だった。
偽の型は、敵の手の中へ。次話、新型「月の灯」販売初日──偽物の月が、落ちます。
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