第20話:工房の中の影
月印の初荷を出す、三日前のことだった。
仕入れ商のダロー爺さんが、渋い顔で工房に来た。資材の注文はいつも通り。ただ、帰り際に声を落とした。
「若旦那、奥方。妙な触れを聞いた。ジスランの店が、問屋筋に先触れを撒いてる──『近く出す新型の月の灯には、月の紋が入る』とよ」
背中が、すっと冷えた。
初荷は、まだ工房の中にある。月印のことは、外へ一言も出していない。知っているのは、あの披露の夜、作業場にいた者だけだ。
レナールは騒がなかった。騒ぐ代わりに、その日のうちに帳場へこもって、夜には答えを一枚の紙にしていた。
「漏れた中身を、見極めました。触れは『紋が入る』まで。『どこに』『どう入るか』『影に浮かぶ』には、ひとつも触れていません。仕様書は金庫から動いていない──今朝、封蝋ごと確かめました」
「つまり、漏れたのは」
「披露の夜の、言葉だけです。あの場にいた誰かが、見聞きしたことを、そのまま外へ運んでいる」
「……工房の中に、ジスランへの通り道がある、と」
「ええ。そして通り道は、まだ紋の作り方を知りません。だからあちらは『紋が入る』としか触れられない。──次に欲しがるのは、型そのものです」
翌日から、工房の空気が変わった。
箝口を敷き直し、型置き場に錠を増やした。それだけのことなのに、道具の貸し借りの声が減り、冗談が減り、誰かが帳場に呼ばれるたび、作業場がしんとなった。
三日目には、若い職人の磨き刀が一本見当たらなくなっただけで、作業場の温度が二度は下がった。刀は結局、当人の道具箱の底から出てきた。出てきたのに、誰もうまく笑えなかった。疑いというものは、火の気のないところでも、こうやって焦げ跡を作る。
ミレットは空気を変えようと、昼餉の席で「今日いちばんの照りです!」をいつもの倍の声で言って、いつもの半分も笑いが返らず、しゅんとしていた。あの子の声が空回りする作業場を、私は初めて見た。
ガストンは窯の前で、煙管を三度も噛み潰した。
「うちの窯場に、鼠だと? 冗談も休み休み言え。……と、言いてえがな」
親方は職人一人一人の名を、胸の中で数えているようだった。数える顔が、いちばん苦しそうだった。二十年この工房の窯を守ってきた人に、仲間を数え直させている。それが何より腹立たしかった。
夜の帳場で、私は白状した。
「私、皆の顔がまともに見られませんの。目が合うたび、この人かしら、と思ってしまう。……疑うことのほうが、偽物より工房を壊しますわ」
「では、疑うのはやめましょう」
レナールは、事もなげに言った。
「疑いは、感情です。感情は帳簿に載らないし、当てにもならない。──確かめるだけにします。私は紙を見ます。出入りと、金の流れと、時刻を。エステル様は」
「人を、見ますわ」
「ご名答です。手分けしましょう、共同代表」
妙な話だけれど、その言い方で、息が楽になった。疑うのではなく、確かめる。この人はいつも、私が持て余した感情に、勘定科目をつけてくれる。
人を見る係の私は、翌日、作業場を普段どおりに回った。普段どおりの顔で、普段どおりに声を掛けて。テオの磨き台の前でも、足を止めた。
「精が出るわね、テオ」
「……はい。夫人」
テオ。半年前に入った、流れの職人だ。二十六。無口で、腕は確かで、給金日のたび、封も切らずに為替にしてどこかへ送っている。手元の笠は綺麗に磨けていた。ただ、私が月印の玉の箱を抱えていることに気づいた瞬間、その目が一度だけ、箱と私の顔を往復した。
目が悪いのではない。目が、良すぎるのだ。何かを、ずっと測っている目だった。
先に来たのは、けれど、ミレットのほうだった。
磨き場の裏に私を引っ張っていって、彼女は消え入りそうな声で言った。
「あの、夫人。告げ口とかじゃ、なくて……磨きの話、なんですけど」
「ええ」
「テオさんの磨きが、この四日、迷ってます。手が三度止まって、二度戻るんです。あんな磨きをするのは、心が迷ってる人だけです。それと……夜中に、型置き場の前に立ってるの、二回見ました。触ってないんです。ただ、立ってるだけ。長いこと」
「……あなた、夜中まで磨いていたの」
「そ、そこは聞かなかったことにしてください。……あたし、テオさんに磨きを褒められたことがあるんです。『お前の目は、いい目だ』って。あの人の目も、いい目です。だから疑いたくない。……疑いたくないから、夫人に言いました。あたしが黙って見張るより、そのほうが、ちゃんとしてるから」
「──ミレット。あなた、いい職人になるわ」
紙を見る係の答えも、翌日には出た。
「テオさんの前の工房の紹介状は、本物です。三年前に工房ごと潰れている。給金の送り先は、王都の外れの薬種問屋。毎月、金貨二枚半」
「薬種問屋……」
「仕送りでしょう。病人が身内にいる。責められる筋のものではありません」
「ええ。立っているだけでは、罪ではありませんわ」
「罪ではありません。ですが、四日迷う程度には、何かを抱えています。──だから今夜も、確かめるだけです」
その夜、ガストンが夜番を買って出た。ミレットも磨き場に残った。「磨きの目は、夜も利きますから」と言い張って。私とレナールは帳場の灯りを落として、二階で息を潜めた。
待つ時間は、長かった。暗い窓辺で、私は小声で訊いた。
「もし、誰も来なかったら?」
「明日も待ちます。何日でも。──来ないのが、いちばん良い決算ですから」
「……あなた、テオに来てほしくないのね」
「帳簿係に、感情は載せません」彼はしばらく黙って、それから付け足した。「ですが。あの人の検品の目は、良い目です。良い目の職人が鼠になる工房は、どこかで帳尻の合わない無理を人に呑ませている。……そうでないことを、確かめたいだけです」
誰も来なければいい。全員が、内心そう祈っていたと思う。祈りながら錠を増やすのが、経営というものの、いちばん寒いところだ。
月のない夜だった。
夜半過ぎ、型置き場に、小さな灯りがひとつ入った。
棚から満月灯の型が下ろされる。蝋の板が、型の面に押し当てられる。ゆっくり、音を立てないように。写しを剥がした手が、一度止まり、震え、それでも麻の袋に写しを落とした。
暗がりから、ガストンの声がした。低く、静かに。
「──テオ。その袋ん中身を、言ってみろ」
振り向いたテオの顔を、ミレットの掲げた燭台が照らした。
それは、逃げる者の顔ではなかった。とうとう捕まった、と安堵しているような──今にも泣き出す寸前の、顔だった。
押さえた現場と、泣き出しそうな顔。ただ、この痩せた職人ひとりに、工房の急所を狙い撃つ知恵はありません。テオの糸を引いていた手は、まだ暗がりの中です。次話、テオが抱えていた「借金」の話をします。
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