第17話:火傷の値段
その報せは、雨の朝に届いた。
届けてくれたのは、モンフォール伯爵家の家令だった。夜会の貸出の打ち合わせに来たその口で、彼は言いにくそうに切り出した。
「昨夜、織物商ボネ家で……灯りから、火が出たそうです」
ボネ家の夫人が、居間の吊り灯に触れて、手に火傷を負った。灯りの笠は焦げ、火は窓掛けの布に燃え移りかけて、使用人が叩き消したという。
作業場が、しんとなった。ミレットの手から磨き布が落ちて、ガストンが窯の前で振り返った。
「……うちの月が、人を焼いただと?」
「うちの月では、ありません」
レナールの声は静かだった。静かなまま、続けた。
「灯りは、月の灯です。座金を抜かれた魔石の座が、ひと月の使用で熱を溜め、留め金具ごと焼けた。──私たちが円卓で見抜いた、あのまずい造りです」
あの日、指先をぶつけながら二人で指さした欠陥が、そのまま人の手を焼いたのだ。分かっていたのに、間に合わなかった。その一点だけで、朝食が喉を通らなくなった。
けれど王都の噂は、こう走った。
「──月光灯で、火が出たらしい」
月の灯と月光灯。似せて売った名前の泥は、雨の日の轍みたいに、区別なく跳ねる。噂の足は荷馬車より速く、三日で、順番待ちの取り消しが二十七件来た。金貨にして九十枚あまり。夜会への貸出の停止が四家。入札の届け出を出した、その直後の時期を、狙いすましたように。
「取り消しの理由の欄は、二十七件とも同じです。『危険な灯りは屋敷に置けない』」
レナールの読み上げは、いっそ冷たいほど事務的だった。ただ、頁をめくる指が、いつもより一枚ずつ重かった。
「窯は、どうする」ガストンが低く訊いた。「注文が消えてんのに、焼き続けるのか」
「焼いてください。受注残二百六十基は、一基も消えていません。消えたのは、まだ焼いていない未来の注文だけです」
「……言い方ってもんがあるだろうによ」
親方はぶつくさ言いながら、それでも窯に戻った。職人は、手を動かしている間だけは沈まずに済む。それを一番よく知っている背中だった。
午後、私たちはボネ家へ見舞いに伺った。
夫人は右手に包帯を巻いて、それでも気丈に応対してくださった。居間の隅には、焦げた月の灯が下ろされたままだった。笠の付け根が飴色に焼け、留め金具が黒く煤けている。あの安物の鋳物が、熱の逃げ場をなくした痕だった。
「わたくし、あの銀色の月が本当に好きで……大聖堂の夜も、広場から拝見しましたのよ。人の顔が、みんな少しやさしく見えて。うちにもいつかと思って、お店で、少しでも安いものをと、あちらを」
夫人は包帯の手を、膝の上で隠すようにした。
「ごめんなさいね、奥様。恨み言を言う筋ではないの。ただ……今は、灯りを点けるのが、怖いのです。日が暮れると、蝋燭だけで過ごしていますの」
灯りが、怖い。
灯り屋が人に言わせてはいけない言葉の、いちばん最初のものだと思う。灯りは人の顔をやさしくするための仕事──母の膝の上で習ったその話が、胸の奥で硬い音を立てた。
レナールは見舞いの包みを差し出した。工房からの見舞金だった。
「あの、でも、おたくの品では」
「うちの品ではありません。ですが、うちの月の名で売られた火です。せめてこれだけは、受け取っていただきたい」
帰り際、私は約束をひとつ置いてきた。いつか灯りが怖くなくなった日に点けていただく月を、必ずお持ちします、と。夫人は少しだけ笑って、「その日が来るといいのだけれど」と言った。来させるのだ。来るのを待つのではなく。
その足で、私たちはジスラン雑貨商会へ向かった。回収の要求のためだ。
ジスランは帳場に座ったまま、算盤を弾く手も止めなかった。
「回収? ご冗談を。売った品は客のもんだ。火の始末は、使う者の始末でございましょう」
「座金を抜いた座が熱を溜める。造りの欠陥です。あなたは知っていて売っている」
「証拠でも? ……ま、仮にそうだとしてもですよ。一晩じゅう点けっぱなしにするほうが悪い。──買った客の目が悪い。それだけの話でございますよ」
目が悪い。あの夫人の、包帯の手と、怖いという言葉に、この男はその値札をつけた。
「損害は、計上できます」
レナールが、一歩前に出た。
「取り消し二十七件も、貸出の停止も、悪評も、数字です。数字なら、いずれ利息をつけて取り返せる。ですが──」
声が、上がりかけた。帳場の机に置かれた彼の手が、卓を叩く寸前で握り込まれる。
「あなたが座金一枚で削ったのは、原価ではない。灯りを好きだという人の気持ちと、それを描いた意匠師の名誉だ。その二つには、値の付けようが──」
「レナール様」
私は、彼の袖をそっと引いた。指の下で、腕が硬かった。この人が商談の声を崩すところを、私は初めて見た。
「おお、怖い」ジスランが揉み手のまま笑う。「数字の旦那が人情噺とは。うちは客の入り用に応えてるだけでございますよ。……お帰りはあちらで」
帰りの馬車の中、彼はずっと窓の外を見ていて、私はずっと、袖を引いた指先の熱を持て余していた。
雨は上がっていたのに、王都の往来はどこか薄暗く見えた。月の灯の看板の前を通るとき、若い夫婦が値札を覗き込んでいるのが見えて、声を掛けたい衝動を呑み込んだ。店先で一軒ずつ止めて回れるほど、王都は狭くない。
その晩、私はお茶を淹れて、彼の碗に二度も注ぎすぎた。茶葉のせいでも、薬缶のせいでもないことだけは、確かだった。
「……取り乱しました。先ほどは」
夜の帳場で、彼はぽつりと言った。もういつもの声だった。
「悔しくありませんの」
「悔しさは、帳簿に載りません」頁をめくる。「載らないものに、今夜は少々、手を焼いています」
「わたくしはね、悔しいというより、怖くなりましたの。うちがどれだけ良い月を焼いても、お客さまの手元で偽物が焼ける限り、うちの月ごと怖がられる。……この勝負、良い物を作るだけでは、勝てませんわ」
「ええ。その見立てに、全額賭けます」
彼は、苦情の束と、焦げた月の灯の写し描きと、二十七件の取り消し票を、円卓に並べ直した。それから登録第七一二号の証書を、その隣に置いた。
「法で追います。意匠の侵害も、事故の責任も、登録局に申し立てる。ですが法は、明日の店先の客を守ってはくれません。いま王都の客は、本物と偽物の区別がつかないまま、月そのものを怖がり始めている」
「ええ」
「ならば、話は簡単です」
彼は顔を上げた。目に、いつもの検算の光が戻っていた。
「──偽物と本物を、誰にでも見分けられるようにすればいい」
窓の外、雨雲の切れ間に月が出ていた。その一言は、雲の裏の月みたいに、はっきりと光って聞こえた。
「誰にでも見分けられるようにすればいい」──次話、法と市場の二正面作戦が始まります。
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