第14話:契約解消のご提案
総会を明日に控えた夜、王都は冷たい雨だった。
工房の皆には、総会のことは最小限しか伝えていない。それでもガストンは帰り際、一度だけ言った。「窯は俺が守る。上のことは、上のふたりで決めてこい」──職人頭の全幅の信頼は、今夜ばかりは少し重かった。
事務室の円卓には、委任状の束と、票読みの紙が一枚。数字は、もう三日前から動いていない。
「こちらに付くと確かめられた証書が、六十四口。兄が九十二口。残る四十四口は──日和見です」
「日和見のほとんどは、王都の小商人でしょう。デュラン商会と縁を切って商いを続けられる人は、いない」
「ええ。過半の百一口まで、兄はあと九口。……数字の上では、詰みに近い」
「モンフォール伯爵にお願いして、貴族筋から声を掛けていただくのは?」
「……打てる手は、打っています」
彼はそれ以上、言わなかった。数字にできない手を口にしないのは、この人の癖だ。
雨が屋根を叩いていた。窯の火は落とされ、工房は静かだった。
レナールはしばらく黙っていた。それから、抽斗から一枚の書面を出して、私の前に置いた。
円卓越しに差し出される書面には、いい思い出がある。初夜の契約書。決算の報告。今度のそれの表題は、こうだった。
『婚姻契約 解消協議書(案)』
指先から、音が消えた気がした。
「……ご冗談でしたら、笑うところを教えてくださいな」
「ご相談ではなく、ご提案です」
彼の声は、いつもの商談の声だった。それが、いちばん堪えた。
「明日の総会は、負ける公算が高い。負ければ、兄とゴーティエは仕上げに醜聞を撒くでしょう。『没落令嬢が商家の金で道楽をし、工房を潰した』──筋書きはもう読めています。狙われるのは工房ではなく、あなたの家名だ」
「それで?」
「いま婚姻を解消すれば、あなたはデュランの外の人です。泥は届かない。意匠はあなたの才ですからすべてあなたに残し、配当も清算してお渡しします。あなたに損のない──合理的なご提案です」
「……署名の欄が、ふたつありますのね」
「共同代表の契約と、同じ書式にしました。あなたが署名しない限り、効力はありません」
「では一生、効力はありませんわ」──と、言えたらどんなによかったか。実際の私は書面を手にしたまま、何も言えずにいた。
合理的。
その言葉だけは、聞き逃せなかった。それはあなたが、自分の傷に絆創膏を貼るときの言葉でしょう。どうして今、私に貼るの。
「……レナール様の損得は、どうなりますの」
「私は工房と残ります。負けても、失うのは代表の座だけです」
「答えになっていませんわ。あなたの、損得は」
彼は答えなかった。雨の音だけが、長く続いた。
私は書面を持って、立ち上がった。何か言うべきだったのに、喉の奥が冷たくて、言葉が出てこなかった。そのまま階段を下りた。
夜の作業場は、暗くて広かった。一番窯の前で足が止まる。残り火の匂いがした。三ヶ月で黒字にした窯。三十一回目で雲を出した窯。先代より無茶だと、親方が初めて笑った場所。
嫁いできた日、ここは埃と借金の匂いがした。今は、焼けた硝子と松脂の匂いがする。この匂いに変わるまでの半年余りを──無傷と引き換えに、手放せと言うのだ、あの人は。
無傷で降りろと、あの人は言う。きっと正しい。頭のどこかで算盤が、彼は正しいと言い続けている。それなのに指先ばかりが冷えていくのは、無傷という言葉が、こんなにも寒いからだ。
白い結婚。形式の夫婦。家名と資本の取引相手。最初からそうだったし、今もそのはずで──それなら、どうして。
どうして私は、あの書面の表題を見た瞬間、負債三千枚の頁を見た夜より、ずっと深いところが冷えたのだろう。
階段が鳴った。振り向かなかった。足音は少し離れた作業台の前で止まって、それきり動かなくなった。窯の前の私と、作業台の彼。背中合わせのまま、雨だけが喋っていた。
どれほどそうしていたのか。雨音の向こうで、彼がぽつりと言った。
「……第三条から第六条までは、完璧な契約でした」
「あら。第七条だけ、欠陥品ですの」
「第七条は」彼は少し黙った。「書いたときの私が、いちばん何も分かっていなかった」
どういう意味か、訊けばよかったのかもしれない。けれど先に、訊きたいことが別にあった。
「……ひとつ、伺います」
先に踏み込んだのは、私だった。
「あなたは初夜に、愛は約束できないと仰った。在庫がないからと。わたくし、あの正直さを買って署名しましたのよ。──それなのに今夜のご提案は、在庫にない優しさで書いてある。仕入れ先を、教えていただける?」
背中の向こうで、息を呑む気配がした。
「……計算していません」
やがて、雨よりも小さな声がした。
「この件だけは、まだ。……計算の、しかたが分からない」
数字の男が、計算を投げた。
なぜ、この人は。家名と資本の取引相手にすぎない私を、自分の帳尻を放り出してまで、守ろうとするのだろう。──その勘定の元がどこにあるのか、私はまだ知らない。知らないままにしておくのは、今夜が最後にしたいと思った。
私は振り返って、彼の隣まで歩いて、作業台に例の書面を置いた。
「このご提案、買い取りません」
「エステル様──」
「第七条を、お忘れ? 『工房が王室御用達の栄を賜りし暁には、本婚姻の解消を協議するものとする』。解消の協議には条件がありますのよ。あなたがご自分で書いた契約書に」
「……あれは、あなたを縛らないための」
「あら。では今は、条項どおり縛らせていただきますわ。御用達はまだ遠くて、負債もまだ金貨二千四百枚」
私は息を吸った。ちゃんと、商談の顔で言えますように。
「──解消の条件は黒字でしょう。私はまだ、あなたと稼ぎ足りません」
長い沈黙があった。
それから、こつ、こつ、と二度、作業台が鳴った。叩くべき帳簿もないのに、彼の指が鳴らした音だった。
「……撤回します」掠れた声だった。「今のご提案は、当工房の帳簿から抹消です」
「最初から、そうなさい」
それで、仲直りというわけでもなかった。票読みの数字は一桁も変わらないし、雨も止まない。私たちは結局、明け方まで、それぞれの机で別々の紙に向かっていた。彼は帳簿に、私は図面に。
それでも一度だけ、顔を上げたとき、向こうも顔を上げた。どちらも何も言わずに、また手元に戻った。それで充分だった。
総会の朝。雨は上がっていた。
工房の前には、職人が全員並んでいた。ガストンは「行ってこい」とだけ言い、ミレットは泣きそうな顔で月光灯を掲げた。
「験担ぎです! お二人が帰ってくるまで、点けておきますから!」
朝の光の中でも、あの銀色はちゃんと見えた。
ギルド会館の大扉の前で、私たちは並んで立ち止まった。
「勝算は」
「数字の上では、五分もありません」
「……正直ね」
「ですが、数字は嘘をつかないだけで、すべてを言うわけでもない。──行きましょう、共同代表」
二人で同時に、扉を押した。
夜が明ければ、出資者総会。共同代表ふたりの反撃戦、どうかお見逃しなく。
ブックマークと☆評価、雨夜の灯りのように励みになります。




