表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
契約結婚の初夜、旦那様は花束ではなく帳簿を持ってきました 〜愛のない政略夫婦、傾いた灯り工房を二人で立て直します〜  作者: 雪乃フィオナ


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
13/14

第13話:元婚約者の正体

 晩餐から四日。工房は表向き、いつも通りに回っていた。窯は唸り、注文は増え、ミレットの「今日いちばんの照りです!」が響く。


 その平和の薄皮一枚下で、私とレナールは駆け回っていた。出資証書の持ち主を一軒ずつ訪ね、味方になってくれと頭を下げ、断られ、また次へ。


 招かれざる客は、そんな昼下がりに来た。


「やあ、エステル嬢。……いや、失礼。今は工房の『代表夫人』でしたか」


 ユーグ・ダルモン。二年前、私を「働く令嬢など恥だ」と捨てた元婚約者は、相変わらず上等な服を着ていた。──ただ、袖口が少し、草臥れていた。前は絶対に許さなかったはずの、そういう草臥れ方だった。


「本日は、デュラン商会の代理人として参りました」


「まあ。どうぞお構いなく」


「ああ、構わなくて結構。すぐに済む話ですから──君たちが賢明なら、だが」


 勧めてもいない椅子に、彼は腰を下ろした。そして事務室の円卓に、委任状を滑らせた。署名はルドガー・デュラン。


「ご用件は」とレナール。声に霜が降りている。


「勧告ですよ。近く、出資者総会が開かれる。議題は──まあ、お察しでしょう。恥をかく前に、代表の座を退かれてはいかがかというね。僕は君に、最後の親切を言いに来たんだ、エステル嬢」


 扉の外で、ガストンが何かをへし折る音がした。たぶん箒である。箒であってほしい。


「ご親切ついでに伺いますけれど。退いたわたくしどもには、何か良いことでも?」


「ルドガー殿は寛大だ。工房を明け渡せば、醜聞は流さないと約束してくださっている。没落令嬢の道楽経営──社交界が好みそうな話だとは、思わないか?」


「あら。道楽では、負債三千枚は返せませんことよ」


「へ、減らず口を……。いいか、総会の数はもう決まっているんだ。賢い者は、沈む船から早く降りるものだよ」


 あとから思えば──それは彼が人生でただ一度だけ、身をもって学んだ処世訓なのだった。


「親切、ですの」私は微笑んだ。「ところでユーグ様。代理人のお仕事、実入りはよろしいの?」


「……は?」


「だって、伯爵家のご子息が、商会の使い走りだなんて。よほど実入りがよろしいのでしょうと思って」


 ユーグの顔が、見る間に赤くなった。


「し、失礼な! 僕はゴーティエ議長のご厚意で、この大役を──議長は仰ったのだ、君のような若者にこそ次の時代を担ってほしいと」


「その割に」レナールが委任状の端を指した。「報酬は成功払いのようですね。末尾にそうある。商会はあなたに、前金を一枚も出す気がない」


「な……」


「議長のご厚意も、兄の信用も、その一行に綺麗に載っています。数字は嘘をつきませんので」


 ユーグの赤い顔から、今度は色が抜けていった。私はその顔を眺めて──ふと、昔のよしみで、ひとつだけ訊いてみたくなった。


「ユーグ様。二年前──あなたはどうして、わたくしを捨てましたの」


「な、なんだ、今さら。未練か?」


「いいえ。答え合わせですの」


「ふ、ふん……働く令嬢など、恥だからだ! 決まっている!」


「嘘。あなた、あの頃わたくしの持参金の額を、三度もお尋ねになりましたわ」


 沈黙が落ちた。


 ユーグの口が、開いて、閉じて、それから──堰が切れた。


「……仕方が、なかったのだ!」


 声が裏返っていた。


「ラヴォワは没落して、持参金も出ない! うちは、ダルモンは……っ」


 言いかけて、彼は自分の口を押さえた。遅い。


「……お家が、傾いていらしたのね。二年前から」


 彼はもう、取り繕えなかった。ゴーティエ様が、と小さな声が漏れた。


「議長が、仰ったのだ。沈む船からは早く降りるのが賢い、もっと持参金の出る縁談を世話してやろうと……あ、あれは、家のための正しい判断で……」


「その縁談は、まとまりましたの?」


 答えの代わりに、草臥れた袖口が見えた。それが答えだった。


 この二年、私はこの人に言ってやりたい台詞を、たぶん百通りは考えてきた。図面の裏に書いては、燃やした。その百通りのどれもが、今は少しも要らなかった。


 私は、怒ろうとして──やめた。


 目の前にいるのは、二年前に私を刺した張本人で、社交界の真ん中で私を笑った人だ。ずっと、憎いはずだった。


 けれど今そこにいるのは、家の負債を隠して、老人の入れ知恵で婚約者を乗り換えて、その縁談にも逃げられて、他人の委任状がなければ工房の戸も叩けなくなった人だった。


「ユーグ様。二年前のあなたのひとことは、確かにわたくしを刺しましたわ」


 私は静かに立ち上がって、扉を示した。


「でも、今日のあなたのお言葉は、最初から最後まで、あなたご自身しか刺していません。──お可哀想に。お帰りは、あちらですわ」


「な……こ、後悔するぞ! 総会で吠え面をかくのはそっちだ!」


 捨て台詞の声だけは、二年前と同じ大きさだった。優位を失うほど声が大きくなるのも、変わっていなかった。


 扉が閉まると、ミレットが猛烈な勢いで床を磨き始めた。「汚れが付いた気がするので!」とのことである。ガストンは折れた箒を無言で燃料の山に足した。


「聞かせたくねえ台詞ばかり吐いてったな、あの若造」と、親方は唸った。「よく我慢したよ、エステルさん」


「我慢では、ありませんの。ただ……」


 ただ、途中から、怒る相手を見失っただけだ。


「……レナール様。いつの間に、そこに?」


 気づけば彼は、私とユーグの間に半歩、立っていた。思い返せば、たぶん最初からずっとだ。


「帳簿の位置を直していただけです」


 円卓に、帳簿はなかった。私は指摘しないでおいた。


「これで、裏の絵は全部見えました」レナールは窓の外へ目をやった。「ゴーティエが知恵を貸し、兄が金を出し、あの人が走る。──駒の並びとしては、雑です。雑ですが」


「数は、向こうにある」


「ええ。今のところは」


「証書のほうは、今日も二軒に断られましたわ。皆さん、口を揃えて仰るの。『月光灯は好きだが、デュラン商会は敵に回せない』と」


「まっとうな算盤です。責められません。──ですから、こちらもそろそろ、まっとうでない算盤を弾く頃合いです」


 彼はそう言って、何かの書付の束を上着の内に仕舞った。何の書付かは、教えてくれなかった。


「悪いお顔をなさってるわ、共同代表」


「お互い様です、共同代表」


 その「今のところ」の終わりは、夕刻に来た。


 公証人の使いが、正式な書状を届けてきたのだ。


『出資者総会 招集通知。発起人、ルドガー・デュラン。期日、十日後』


 そして議題の欄には、たった一行。


『代表交代の件』


 読み終えたレナールが──いつもは紙の皺ひとつ許さない指で──通知の端を、ゆっくりと握り潰していった。


「証拠書類ですのよ、それ」


 私が手を重ねると、指は止まった。紙は助かった。


 彼の指の冷たさだけが、掌に残った。


総会まで十日。次話、追い詰められたレナールが、まさかの「ご提案」を口にします。どうか覚悟してお進みください。

ブックマークと☆評価で、二人の背中を押していただけると励みになります。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ