第13話:元婚約者の正体
晩餐から四日。工房は表向き、いつも通りに回っていた。窯は唸り、注文は増え、ミレットの「今日いちばんの照りです!」が響く。
その平和の薄皮一枚下で、私とレナールは駆け回っていた。出資証書の持ち主を一軒ずつ訪ね、味方になってくれと頭を下げ、断られ、また次へ。
招かれざる客は、そんな昼下がりに来た。
「やあ、エステル嬢。……いや、失礼。今は工房の『代表夫人』でしたか」
ユーグ・ダルモン。二年前、私を「働く令嬢など恥だ」と捨てた元婚約者は、相変わらず上等な服を着ていた。──ただ、袖口が少し、草臥れていた。前は絶対に許さなかったはずの、そういう草臥れ方だった。
「本日は、デュラン商会の代理人として参りました」
「まあ。どうぞお構いなく」
「ああ、構わなくて結構。すぐに済む話ですから──君たちが賢明なら、だが」
勧めてもいない椅子に、彼は腰を下ろした。そして事務室の円卓に、委任状を滑らせた。署名はルドガー・デュラン。
「ご用件は」とレナール。声に霜が降りている。
「勧告ですよ。近く、出資者総会が開かれる。議題は──まあ、お察しでしょう。恥をかく前に、代表の座を退かれてはいかがかというね。僕は君に、最後の親切を言いに来たんだ、エステル嬢」
扉の外で、ガストンが何かをへし折る音がした。たぶん箒である。箒であってほしい。
「ご親切ついでに伺いますけれど。退いたわたくしどもには、何か良いことでも?」
「ルドガー殿は寛大だ。工房を明け渡せば、醜聞は流さないと約束してくださっている。没落令嬢の道楽経営──社交界が好みそうな話だとは、思わないか?」
「あら。道楽では、負債三千枚は返せませんことよ」
「へ、減らず口を……。いいか、総会の数はもう決まっているんだ。賢い者は、沈む船から早く降りるものだよ」
あとから思えば──それは彼が人生でただ一度だけ、身をもって学んだ処世訓なのだった。
「親切、ですの」私は微笑んだ。「ところでユーグ様。代理人のお仕事、実入りはよろしいの?」
「……は?」
「だって、伯爵家のご子息が、商会の使い走りだなんて。よほど実入りがよろしいのでしょうと思って」
ユーグの顔が、見る間に赤くなった。
「し、失礼な! 僕はゴーティエ議長のご厚意で、この大役を──議長は仰ったのだ、君のような若者にこそ次の時代を担ってほしいと」
「その割に」レナールが委任状の端を指した。「報酬は成功払いのようですね。末尾にそうある。商会はあなたに、前金を一枚も出す気がない」
「な……」
「議長のご厚意も、兄の信用も、その一行に綺麗に載っています。数字は嘘をつきませんので」
ユーグの赤い顔から、今度は色が抜けていった。私はその顔を眺めて──ふと、昔のよしみで、ひとつだけ訊いてみたくなった。
「ユーグ様。二年前──あなたはどうして、わたくしを捨てましたの」
「な、なんだ、今さら。未練か?」
「いいえ。答え合わせですの」
「ふ、ふん……働く令嬢など、恥だからだ! 決まっている!」
「嘘。あなた、あの頃わたくしの持参金の額を、三度もお尋ねになりましたわ」
沈黙が落ちた。
ユーグの口が、開いて、閉じて、それから──堰が切れた。
「……仕方が、なかったのだ!」
声が裏返っていた。
「ラヴォワは没落して、持参金も出ない! うちは、ダルモンは……っ」
言いかけて、彼は自分の口を押さえた。遅い。
「……お家が、傾いていらしたのね。二年前から」
彼はもう、取り繕えなかった。ゴーティエ様が、と小さな声が漏れた。
「議長が、仰ったのだ。沈む船からは早く降りるのが賢い、もっと持参金の出る縁談を世話してやろうと……あ、あれは、家のための正しい判断で……」
「その縁談は、まとまりましたの?」
答えの代わりに、草臥れた袖口が見えた。それが答えだった。
この二年、私はこの人に言ってやりたい台詞を、たぶん百通りは考えてきた。図面の裏に書いては、燃やした。その百通りのどれもが、今は少しも要らなかった。
私は、怒ろうとして──やめた。
目の前にいるのは、二年前に私を刺した張本人で、社交界の真ん中で私を笑った人だ。ずっと、憎いはずだった。
けれど今そこにいるのは、家の負債を隠して、老人の入れ知恵で婚約者を乗り換えて、その縁談にも逃げられて、他人の委任状がなければ工房の戸も叩けなくなった人だった。
「ユーグ様。二年前のあなたのひとことは、確かにわたくしを刺しましたわ」
私は静かに立ち上がって、扉を示した。
「でも、今日のあなたのお言葉は、最初から最後まで、あなたご自身しか刺していません。──お可哀想に。お帰りは、あちらですわ」
「な……こ、後悔するぞ! 総会で吠え面をかくのはそっちだ!」
捨て台詞の声だけは、二年前と同じ大きさだった。優位を失うほど声が大きくなるのも、変わっていなかった。
扉が閉まると、ミレットが猛烈な勢いで床を磨き始めた。「汚れが付いた気がするので!」とのことである。ガストンは折れた箒を無言で燃料の山に足した。
「聞かせたくねえ台詞ばかり吐いてったな、あの若造」と、親方は唸った。「よく我慢したよ、エステルさん」
「我慢では、ありませんの。ただ……」
ただ、途中から、怒る相手を見失っただけだ。
「……レナール様。いつの間に、そこに?」
気づけば彼は、私とユーグの間に半歩、立っていた。思い返せば、たぶん最初からずっとだ。
「帳簿の位置を直していただけです」
円卓に、帳簿はなかった。私は指摘しないでおいた。
「これで、裏の絵は全部見えました」レナールは窓の外へ目をやった。「ゴーティエが知恵を貸し、兄が金を出し、あの人が走る。──駒の並びとしては、雑です。雑ですが」
「数は、向こうにある」
「ええ。今のところは」
「証書のほうは、今日も二軒に断られましたわ。皆さん、口を揃えて仰るの。『月光灯は好きだが、デュラン商会は敵に回せない』と」
「まっとうな算盤です。責められません。──ですから、こちらもそろそろ、まっとうでない算盤を弾く頃合いです」
彼はそう言って、何かの書付の束を上着の内に仕舞った。何の書付かは、教えてくれなかった。
「悪いお顔をなさってるわ、共同代表」
「お互い様です、共同代表」
その「今のところ」の終わりは、夕刻に来た。
公証人の使いが、正式な書状を届けてきたのだ。
『出資者総会 招集通知。発起人、ルドガー・デュラン。期日、十日後』
そして議題の欄には、たった一行。
『代表交代の件』
読み終えたレナールが──いつもは紙の皺ひとつ許さない指で──通知の端を、ゆっくりと握り潰していった。
「証拠書類ですのよ、それ」
私が手を重ねると、指は止まった。紙は助かった。
彼の指の冷たさだけが、掌に残った。
総会まで十日。次話、追い詰められたレナールが、まさかの「ご提案」を口にします。どうか覚悟してお進みください。
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