第12話:夫の家族
名簿の一件から三日目の朝、工房にまた上等な封書が届いた。
封蝋の紋は、天秤と帆船。デュラン商会のものだ。
「晩餐のご招待です。『弟夫婦の栄達を、ぜひ本家で祝したい』と」
読み上げるレナールの声は、督促状を読む声より平坦だった。
「……行きますの?」
「行きます。証書を買い集めている当人が、卓の向こうに座ってくれるのです。敵情視察として、これ以上の席はありません」
「晩餐を敵情視察と言い切る夫で、わたくし鼻が高いわ」
「褒め言葉として帳簿に付けておきます。……ひとつだけ、先に申し上げておくと」
彼は封書を几帳面に畳んだ。
「本家の食卓は、冷えます。料理ではなく、席が。──どうか、驚かれませんよう」
デュラン商会本家は、王都の一等地にあった。ラヴォワの屋敷が丸ごと三つは入る構えで、廊下の大理石は冬の池みたいに冷たく光っていた。使用人は多く、そして誰も、レナールと目を合わせなかった。
「十年ぶりに敷居を跨ぎましたが、絨毯が新しくなっていますね」
レナールは、他人の店を検分する声で言った。十年。数字だけが、この家と彼との距離を教えてくれる。
長い長い食卓の、いちばん遠い席に、その人はいた。
「よく来てくれた、レナール。──それに、噂の奥方も」
ルドガー・デュラン。三十半ば。仕立ての良い上着に、仕立ての良い笑顔。声は柔らかく、物腰は丁重で、目だけが値札を読んでいた。
「献灯祭の話は、商会にも届いているよ。大聖堂に月を灯したそうだね。大したものだ」
「恐れ入ります、兄上様。当主様はご一緒ではありませんの?」
「父は療養中でね。商会の実務は、もう私が預かっている。──いや、しかし」
彼は杯を掲げて、心底愉快そうに笑った。
「まさか、あのレナールが『物作り』で身を立てるとはね。商会の誰も想像していなかった。数字しか取り柄のない子でしたから」
褒め言葉の形をした引っ搔き傷だった。レナールは表情を変えずに杯を受けた。
「工房はどうだね。職人というのは、気難しいだろう」
「ええ。ですが、帳簿より正直です」
「はは。相変わらず、可愛げのない答えだ」
「レナール様は、商会ではどんなお子でしたの」
私が訊くと、ルドガーは待っていたように頷いた。
「利発でしたよ。利発すぎた。十四で番頭たちの帳簿の粗を見つけては、父の前で並べ立てる。可愛げというものを知らない子でね」
「帳簿の粗を正すのは、悪いことですの?」
「商会は人で回っているのですよ、奥方。番頭の顔を潰す正しさに、居場所はない。──十六の冬に、父が決めました。商会に置くには、才が……いや」
彼は言い直して、綺麗に微笑んだ。
「秩序が、合わなかった。あれは商会のための、正しい判断でした」
言い直す前の言葉を、私は聞き逃さなかった。才が。──妬ましかったのでしょう、と言ってやりたいのを、スープと一緒に飲み込む。
「ええ。合理的な判断です。私も同意見ですよ、兄さん」
レナールは静かにそう言った。
また出た。合理的。この人がその言葉を使うのは、傷に絆創膏を貼るときだけだ。
卓の下で、彼の指が──叩くべき帳簿もないのに──二度、動きかけて、止まったのを、私は見てしまった。
銀の皿が三度替わった。どの料理も手が込んでいて、どれも冷めていた。厨房が悪いのではない。この食卓は、皿が届くまでの距離が長すぎるのだ。
「時に、工房は景気が良いそうだね」
ルドガーは給仕を下がらせ、本題の顔になった。
「実は商会でも、貴工房の出資証書を少々、預からせてもらっている。小口の持ち主に散らばったままでは、危ないだろう? 保全だよ」
「九十二口。保全にしては、熱心なお集めぶりだ」
「調べは早いな。さすがだ」彼は悪びれもしなかった。「なら、話は早い。単刀直入に言おう。──工房を、商会に納めなさい」
燭台の火が揺れた。
「悪いようにはしない。職人は雇い続けるし、月光灯の看板も残そう。レナール、お前は帳場に戻ればいい。お前の数字は、使いようによっては金になる。──弟には、親の工房より似合いの場所がある。私の下の、番頭の席だ」
レナールは、何も言わなかった。
表情も変わらなかった。ただ、卓の下の手が、今度は動きもしなかった。動かし方を忘れたみたいに。
私は、隣の横顔を見た。
この人は初夜に、愛の在庫はないと言った。その同じ口で、私の図面を天才と呼び、ミレットの給金を上げ、夜明けの窯の前で私に上着を寄越した。その人がいま、生まれた家の食卓で、在庫の数え方ごと値切られている。
──ようございます。相場の話なら、わたくしの領分ですわ。
だから、私が口を開いた。
「兄上様。ひとつ、よろしいかしら」
「どうぞ、奥方」
「あなた、先ほどから値踏みがお上手ですのね。工房の値、証書の値、それから──わたくしの夫の値」
私は膝の上で手を重ねたまま、にっこり笑った。侯爵家仕込みの、いちばん冷たいやつを。
「けれど、わたくしの共同代表を、値踏みなさらないで。この人の値は、この半年でずいぶん上がりましたのよ。負債三千枚の工房を黒字にして、ギルドの審査をひっくり返して、王都に新しい月を灯した値です。──あなたの帳場の番頭の席では、桁が足りませんわ」
ルドガーの笑顔が、初めて一瞬、固まった。
「……弟が羨ましいよ。威勢のいい後ろ盾だ」
「後ろ盾ではありません」レナールが言った。「共同代表です」
声が重なりはしなかったけれど、言った中身は同じだった。ルドガーは私たちを順に見比べて、何かを勘定し直すみたいに、細く息を吐いた。
「そうかい」ルドガーは杯を置いた。「気の強い商売敵は、嫌いではないよ。だが商いは数だ、レナール。数の勘定なら、お前がいちばんよく知っているはずだがね」
晩餐は、それで終わった。最後まで、料理の味はひとつも思い出せなかった。
帰りの馬車の中、レナールは長いこと黙っていた。
「……エステル様」
「なんですの」
「先ほどは──」
彼は言いかけて、窓の外を見て、それから諦めたように、ふ、と息だけで笑った。
作り物ではない、素の顔だった。初夜から今日まで、一度も見たことのない顔だった。
「あの家の食卓で、私のために怒った人は、あなたが初めてです」
「あら。怒ってなどいませんわ。相場の話をしただけ」
「では相場のお礼に、あなたの配当の料率を上乗せ──」
「数字で誤魔化さないの」
「……善処します」
善処する気のない声だった。
私は膝の上の外套の房飾りを、意味もなく編んでいた。あとで数えたら、九本も編んであった。誰のせいかは、考えないことにする。
馬車が本家の門を出るとき、入れ替わりに一台の馬車が敷地へ入っていった。
磨き上げた扉に、見間違えようもない紋──ダルモン家のもの。二年前まで、嫌というほど見た紋だった。
「……兄さんの晩餐は、今夜は二部制のようですね」
レナールの声が、冬の大理石と同じ温度になった。
晩餐の帰りに見た、あの紋の意味は次話で。元婚約者ユーグ、再登場です。
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