第10話:大聖堂の月
「審査の外」の中身を、レナールは地図の上で説明した。
「品評会の審査員は五人。買えます。ですが王都の民は十五万人。──十五万人は、ゴーティエ氏にも買えません」
「世論、ですのね」
「ええ。良い物ほど、良い場所で光らせて見せる。うちの商いの原則です。そして王都でいちばん人の集まる場所と夜が、十日後にあります」
彼の指が、地図の中央で止まった。中央大聖堂。
「献灯祭……」
年に一度、王都中の民が大聖堂に集まり、灯りを奉げて祈る夜だ。
「大聖堂は連合の規格の外です。教会納めの灯りに検印は要らない──資材のときと同じで、条文どおりです。あの夜、大聖堂の灯りをすべて月光灯に替える。審査員五人ではなく、王都の全員に品評していただきます」
「勝算は、いかほど?」
「灯りの出来には満点を。問題は入り口です。献灯祭の灯りを差配できるのは大司教様おひとり。無名の工房の話をあの方の耳まで運べるのは──」
心当たりは、一人しかいなかった。
王妹フェリシア殿下は、三日後に会ってくださった。
拝謁の間で、殿下は私たちの願いを最後まで黙って聞き、品評会の顛末のところで扇を一度だけ鳴らした。
「──つまらない審査ね」
感想は、それだけだった。それから殿下は、私の手の火傷の痕をちらりと見た。
「あの夜会の月を大聖堂いっぱいで見られるなら、口を利いてあげてもいい。大司教は私の話なら聞くわ。ただし」
扇の先が、ぴたりと私たちに向いた。
「勘違いをしないこと。私は善意では動かないの。面白いものが見たい、それだけよ。──これは貸し。いずれ高くつけて、返してもらうわ」
「利息のご相談は、ぜひ当工房の帳簿係へ」
「まあ。言うのね、この夫婦」
殿下は少しだけ笑って、話は決まった。
準備の十日は、嵐のようだった。そのさなかに規格審査が予定どおり行われ、月光灯は正式に『規格外品』となった。王都での販売も貸出も差し止め。通知書をレナールは帳簿に挟み、「領収書です。あとで利息をつけて返します」とだけ言った。
そしてもうひとつ。私たちは、掘り当ててしまった。
献灯祭では、奉納する灯りの作り手を大聖堂の献灯記録に記す習わしがある。書式を確かめに古い記録をめくっていたレナールが、ある頁で手を止めた。
「エステル様。二十年前の献灯祭──奉納者の欄に、エレーヌ・ラヴォワの名があります」
駆け寄って、覗き込んだ。母の名が、几帳面な聖堂文字で残っていた。あの年、母の灯りは、この大聖堂に灯っていたのだ。
「連合に写しを取らせた同じ年の審査記録が、これです。出品番号は残っているのに──名前の行だけ、削り取られている」
紙の上に、細い刃の跡があった。二十年前の誰かが、母の名を、わざわざ刃物で消したのだ。教会は覚えているのに、ギルドは消した。
「レナール様。今夜の意匠に、ひとつだけ注文を足してもよろしくて? 千粒の月の奉納者の欄に──母の名前を、私と並べて書かせてくださいまし」
レナールは何も訊かなかった。ただ、帳簿を二度叩いた。
その献灯記録の頁を、私はガストンにも見せた。親方は母の名の上に、窯だこだらけの指をしばらく置いて、それから「……搬入の段取りに戻る」と、窯場へ大股で歩いていった。目元のことは、見なかったことにした。職人は窯の前で泣かないのだ。
献灯祭の夜が、来た。
日暮れとともに大聖堂の千の燭台から蝋燭が下げられ、満月灯と朧月灯が掛けられていく。主祭壇の上、天井の闇の中には、千粒の月の枝環が吊り上げられた。
鐘が鳴る。広場を埋めた群衆が、扉から流れ込む。
──点灯。
石の大伽藍に、銀色の月夜が降った。
最初に変わったのは、人の顔だった。魔石の白い光は人の顔を蝋のように照らすけれど、月光灯の銀は、頬に血の色を残す。隣に立つ人の顔が、みんな少しだけやさしく見える。灯りの仕事とはつまりそういう仕事なのだと、私は母の膝の上で習った。
柱の影が、やわらかく淡い。夜だというのに、硝子窓が色を失わない。満月と朧月が身廊の両側で交互に灯り、祭壇の真上では千粒の月が、粒から粒へ光を映し合いながら、静かに満ちていく。
誰も、しばらく声を出さなかった。それから祈りより先に、ため息が伽藍を満たした。
「月夜だ」「祭壇の上、月が群れてるよ」「どこの灯りだ、あれは」
群衆の中に、工房の皆の顔があった。ミレットが隣の見知らぬお婆さんに「あれ、あたしの磨いた玉なんです」と囁いて、「まあ」と手を握られている。ガストンは腕を組んだまま天井を見上げて、一度だけ、大きく息を吐いた。
大司教様は祭壇の前で振り仰いだまま、長いこと動かなかった。やがて老いた声が、伽藍によく通った。
「五十年この祭壇で灯りを見てきたが……これは、祈りと同じ色をしておる」
来賓席に、ゴーティエの顔があった。血色のいい笑顔が、そこだけ絵の具を忘れたように白い。
大司教様は来賓席へ向き直り、世間話の声で続けた。
「時に議長どの。この灯り、連合の品評会では『規格外』であったそうな。──のう。規格とは、神の家の月より偉いものかね」
伽藍中の目が、ゴーティエに集まった。
群衆のどこかから、遠慮のない声が飛んだ。「規格外で結構!」「うちにもその規格外をくれ!」。笑いが波になり、拍手になった。王妹殿下が扇を開き、涼しい声を添える。
「連合の規約には『特例』という言葉があるそうよ。ねえ、議長」
ゴーティエは、立ち上がった。一拍の間。それから彼は、それはそれは鷹揚に一礼した。
「──民の声は、王都の声。月光灯は連合の特例規格として、認定いたしましょう」
拍手の中で、彼は最後まで微笑んでいた。ただ、退出する間際にこちらへ寄越した目には、怒りも悔しさも、何もなかった。感情のない目のまま口だけで笑って、彼は去った。
あの目は、覚えておこう。負けた顔より、よほど怖い。
「レナール様。本日の決算を」
「収入──特例規格、差し止めの解除、王都中の評判、殿下への借りがひとつ。支出──ゴーティエ氏の面子。差し引き、当工房開闢以来の黒字です」
私たちは、同時に笑った。頭上では千粒の月が、献灯記録に並んだ母と私の名前の上で、満ちていた。
祝いの酒は工房で、ということになり、帰りは皆で貴族街の外れを歩いた。ミレットは誰にもらったのか花冠を三つも重ねて被り、ガストンは初対面の老職人と肩を組んで歌っていた。あの親方が、歌うのだ。
その角で、見てしまった。ひときわ立派な門構えの屋敷に、見覚えのある姿が吸い込まれていく。粘る目の、私の元婚約者。
「……ユーグ様?」
門柱の紋章を、レナールが静かに読んだ。
「ゴーティエ邸、ですね」
大聖堂の月夜、いかがでしたか。敵はまだ退場していません。次に工房へ届くのは「大きすぎる注文」──甘い契約書には、棘があります。
ブックマークと☆評価は、殿下への借りと違って利息なしで喜びます。




