壊れていく足場
精神科の紹介を経てあてがわれたカウンセリングルームは、病院の奥まった一角にあった。
静かな室内に置かれた二つの椅子と、小さなローテーブル。そこに座っていた臨床心理士の佐伯は、これまでの大人たちのような過剰な同情も、腫れ物に触るようなぎこちなさも見せなかった。
「揺花里さん、こんにちは。私は心理士の佐伯です。ここでは、あなたが話したいと思ったことだけを、あなたのペースで話して構いません。話したくないことは話さなくていいですし、ただ静かに過ごす時間にしても大丈夫ですよ」
佐伯はまず、守秘義務と「この場はあなたのための安全な時間である」というカウンセリングの枠組み(構造化)を淡々と、けれど穏やかに説明した。指示も説得もしない態度に、揺花里は少しだけ肩の力を抜いた。
初回から数回のセッションにわたり、佐伯は徹底して『傾聴』に徹した。
「あの部屋で、私は自分の意志で彼と対話をしていました。病気でも、支配されていたわけでもありません」
「そう考えているのですね。周囲から病気や被害者として扱われることに、強い孤独や不快感を抱いてきたのですね」
佐伯は揺花里の言葉を一切否定せず、評価も判定もせず、ただ彼女がどのような感情と論理を持ってそこに立っているのかを、そのまま言葉にして返した。誰一人として自分の言葉を聞こうとしなかった世界で、自分の語る文脈がそのまま受け止められる体験は、揺花里の凍りついた心をゆっくりと解かしていった。
◇
数回目のセッションの際、佐伯は温かいハーブティーのカップを置くと、椅子に深く腰掛けた。
「揺花里さん。前回のセッションのあと、何か変化や思い浮かんだことはありましたか?」
質問はいつも簡潔で、そこには誘導も、探るような色もなかった。
「……先生は、不思議です」
揺花里は自分の膝の上で重ねた手に視線を落としたまま、ぽつりと言った。
「うちの親や祖父母は、私を抱きしめて『辛かったね』と泣きます。でもあれは、私を見ているんじゃなくて『傷ついた可哀想な子供』という自分の想像を見ているだけです。保健室の先生は傷つけないように微笑んでくれるけれど、私の言葉が聞こえないふりをする。精神科の医師は、私をカルテのデータとして処理する……」
揺花里は顔を上げ、佐伯の静かな眼差しを正面から見つめた。
「でも、佐伯先生は違います。私を哀れみもしないし、腫れ物扱いも処理もしない。ただ……私という人間がここに投げた言葉を、投げた形のまま、そこに置いてくれる。私を子供扱いして言葉を奪わない、初めての大人です」
その言葉を聞き、佐伯は否定も謙遜もせず、ただ静かに耳を傾けていた。そして、プロの心理士としての境界線を保ったまま言葉を返した。
「揺花里さん。そう言ってもらえるのは嬉しいけれど、私はあなたの味方でも、救世主でもありません。私はただ、あなたが自分自身の心と向き合うための『安全な鏡』でいるだけです」
「……鏡?」
「ええ。鏡は、映ったものを『間違っている』と責めたり『可哀想だ』と歪めたりしませんでしょう? 私はあなたが差し出した思考や感情を、そのままあなたに映し返す。あなたが自分自身の力で自分の心を見つめ直し、言葉を取り戻していくための道具に過ぎないのよ」
(この人は、私を救おうとしない。私の代わりに答えを出そうともしない。だからこそ、信じられる)
他者から与えられる「同情」や「処理」に絶望していた揺花里にとって、佐伯は「自分の思考を誰にも奪われず、一個の人間として尊重されながら自分自身を解剖できる、唯一の鏡」となった。
◇
だが、揺花里が佐伯を「歪みのない鏡」として全面的に信頼し、心の拠り所にしたその瞬間、プロの技術としての『問い直し』が始まった。
「揺花里さん。あなたが彼と交わした対話が真実であったと感じているのは、大切な実感です。……その上でね、少しだけ違う可能性を考えてみたことはあるかしら」
佐伯の声はどこまでも穏やかで、だからこそ容赦がなかった。
「彼があなたと密室で対話を重ねていたとき、彼は本当に『あなたという一人の人間』を見ていたと思う? 自分の寂しさや自我の保身を満たすために、素直に話を聞いてくれる無垢な子供としてのあなたを利用していた……そう捉えることはできないかしら」
「利用……? 違います。慧太郎は私を……」
「誤解しないでね。私は、あなたの意思を否定したいわけじゃないの」
「……はい」
「彼はあなたに優しかったでしょうね。でもね、未成年のあなたを社会から引き離し、自分の言葉で満たそうとしたこと自体が、彼の身勝手な依存だったのかもしれないのよ。あなたが『自分の意思』だと思っている言葉は、本当にあなたのもの? 彼に気に入られたくて、彼の言葉を自分のものだと錯覚していただけではないかしら」
「ちが……違います……」
揺花里の喉から、掠れた声が漏れた。
否定されない安心感を与えてくれた「安全な大人」から投げかけられたのは、あまりにも正論で、逃げ場のない毒だった。
「慧太郎は私を騙してなんていない」と言いたい。けれど、佐伯の言う「大人の身勝手な依存」「子供の錯覚」という言葉が、鋭い楔となって脳裏に刺さって抜けない。
「ただ、本当にあなた自身の意思だったのかを、あなた自身がもう一度考えてみてほしいの」
(佐伯の言葉が頭から離れない)
(私は、彼に利用されていたの?)
(私があの部屋で誇らしく思っていた思考は、ただの「大人に気に入られたい子供のごっこ遊び」だったの?)
(私の言葉って、何? 私は、誰……?)
信じていた慧太郎との絆。それを理解してくれた唯一の大人である佐伯の言葉。
二つの「真実」の間で挟み撃ちにされ、揺花里の頭の中は激しい濁流に呑み込まれていった。
自立どころではない。思考の整理など到底できない。
積み上げてきたはずの「自分」の足場がガラガラと崩れ落ち、揺花里はかつてないほどの激しい混乱と、底なしの恐怖の中に叩き落とされていった。




