密室で解剖される「愛」と「正義」
古い柱時計が刻む規則的な音と、ローテーブルに置かれたマグカップから立ち上る湯気。
◇
【恋人と結婚について】
「ねえ、慧太郎。世間の人はどうしてすぐに『付き合う』とか『恋人』になりたがるのかな?」
揺花里は膝を抱え、マグカップの縁を見つめながら首をかしげた。
「お互いを束縛するための契約書みたいなものでしょ? 恋愛感情なんて脳内の化学物質が分泌されている期間限定の錯覚じゃない。そんな不安定なものに『恋人』なんて名前をつけて安心するなんて、すごく安易だと思う」
「安易だが、それが人間の生活を安定させるシステムなんだよ」
本を閉じた慧太郎が静かに答える。
「人間は孤独に耐えられない。だから『恋人』や『結婚』という社会的なフレームワークを使ってお互いの所有権を主張し合い、安心を得ようとする。社会や法律もそれを『まっとうな愛の形』として推奨するんだ」
「じゃあ、私たちは何?」
揺花里はぐっと身を乗り出し、ローテーブル越しに顔を近づけた。湯気で揺れる視線が、一直線に刺さる。
「手も繋がないし抱き合わない。世間で言う『恋人』じゃない。でも、学校の友達や親と話す100時間より、慧太郎と話す1時間の方がずっと深く繋がっていると感じる。この関係を、世間の人は『愛』とは呼ばないの?」
慧太郎は何も言わず、椅子の背もたれに深く体を預けた。揺花里の顔と自分の間に、ちょうどローテーブル一枚分の距離が戻る。
「……社会はこれを『愛』とは呼ばないだろうな」
「どうして?」
「言葉に枠をはめたがるのが社会だからだ。既存のカテゴリに収まらない関係は、それだけで警戒の対象になる。……だからこそ、僕たちは言葉の扱いに対して慎重でなければならない」
揺花里は少しだけ不服そうに唇を尖らせ、自分のマグカップを手元に引き寄せた。
◇
【出産・子育てと「親のエゴ」について】
またある日は、生殖や家族制度について議論が及んだ。
「親はよく『あなたのために生んで育ててあげた』って言うけれど、それってすごく身勝手じゃない?」
揺花里の言葉には、世間を知らないゆえの鋭い極論が混ざっていた。
「子供は自分の意志で『生まれたい』と言って生まれてきたわけじゃない。親が自分の満足や社会的な記号として子供を生み、自分たちの価値観を押し付けて『育ててあげている』と錯覚しているだけ。子育てなんて、壮大なエゴの押し付けだよ」
「半分は当たっているが、半分は違うな」
慧太郎はローテーブルの上の本を綺麗に並べ直しながら言った。
「命を生み出す行為そのものは人間のエゴだ。だが『子育て』という営みの本質は、自分とは全く異なる別の意思を持った他者を、一個の人間として社会に送り出すための『責任と諦め』のプロセスだ。完璧な親なんていない。だからこそ大人は自分の未熟さを自覚しながら、子供という未知の存在に向き合わなきゃいけない」
「ふん。じゃあ慧太郎は、もし子供ができたら自分の価値観を押し付けない自信があるの?」
「ないよ。だからこそ僕は恐怖を感じるし、安易に『親』になんてなれないと思う」
「……そういうところは、大人の中で慧太郎だけが信用できるんだよね」
揺花里は満足そうに微笑むと、開いていたノートをそのまま慧太郎の前へと滑らせた。自分の陣地から、すっとはみ出してきたノート。慧太郎はその端だけを指先でつまみ、自分の手元まで引かずにその場で開いた。
◇
【社会正義と削られる意思について】
雨が窓を叩く夕暮れ、部屋の明かりもつけないまま、揺花里がポツリと言った。
「社会正義って、本当に正しいのかな。教科書に書いてある『正義』はいつも多数派の都合でコロコロ変わる。未成年の私は『守られるべき弱者』として決めつけられて、自分の頭で考えた選択すら『子供の錯覚』だと処理される。社会の言う正しさって、個人の自由意志を殺すためにあるんじゃないの?」
「正義は、社会という巨大な船を沈ませないための『重し』なんだよ」
慧太郎は暗がりの中で、じっと揺花里を見つめた。
「個人の自由意志を100%認めれば社会はカオスに陥る。だからこそ法や倫理という『平均的な正しさ』を作って、個人の尖った意志を削り落とす。僕たちがこうして密室で言葉を交わしていること自体、社会の正義から見れば『踏み越えてはならない一線』なんだ」
「削り落とされたくないよ」
揺花里は胸元をぎゅっと掴み、雨の音に負けない声で言った。
「社会の正義に削られて、普通の子供になって、普通の大人になるくらいなら……私はここで慧太郎と問い続けたい。これが私の自由意志なんだから」
部屋を打ち付ける雨音のなか、カチ、カチと柱時計の音だけが二人を隔てていた。




