泥のなかの告白
カチャリ、と匙がカップの底に当たる乾いた音が響いた。
湯気を立てる二杯目の温かいブレンドコーヒーが運ばれてきても、二人の間の熱量は冷めることがなかった。
慧太郎は、差し出された白いカップから立ち上る湯気を、ただじっと見つめていた。
揺花里に「大人扱い」という最後の逃げ道を塞がれ、5年間温めてきた綺麗な反省文を全てゴミ箱に捨てられた今、彼の胸に残っていたのは、滑稽なまでに身勝手な自分自身の素顔だった。
「……懺悔を、させてくれ」
慧太郎の声は、かすれて途切れがちだった。
それは法廷で読み上げた反省文でも、警官や裁判官に向けた言葉でもない。目の前に座る一人の人間に対する、初めての裸の言葉だった。
「僕は……君を救おうとしていたんじゃない。君の純粋さに、救われていたんだ」
揺花里は静かにコーヒーカップを手にしたまま、何も言わずに慧太郎の言葉を待った。茶化すことも、促すこともしない。ただ、彼の本当の揺れを見つめている。
「社会に馴染めず、自分の言葉が誰にも届かないと思い詰めていた僕にとって……あの密室で、僕の言葉を真剣な瞳で受け止めてくれる君の存在は、あまりにも眩しく、救いだった。僕は大人として君を導いているフリをしながら……その実、君という存在に寄生していたんだ」
慧太郎は自嘲するように口元を歪めた。
「『君は大人以上に思索ができる』なんて言葉で君を称えたのは、君のためじゃない。そうやって君を『特別な存在』に仕立て上げることで、自分が幼い君に依存しているという醜い現実から目を背けたかっただけだ。僕がやっていたのは、対等な対話なんかじゃない。君の世間を知らない無知を利用した、最も卑怯な自己肯定だった」
慧太郎の組まれた手が、指先が白くなるほど強く握りしめられる。
「警察が踏み込んできた時……手錠をかけられた時、どこかで安堵している自分がいた。これで『大人としての責任』という被害者の顔をして捕まれば、僕は君に『自分の醜さ』を晒さずに済む。『社会によって引き裂かれた悲劇』という綺麗な物語のまま、逃げ切ることができると思ったんだ」
「……」
「服役中の五年もそうだ。僕は『君の未来のために身を引く』という大義名分を盾にして、君が成長して僕の愚かさや醜さに気づく瞬間から逃げていただけだった。……僕は、君が恐しかったんだよ、揺花里。成長した君に、あの密室の本当のカラクリを見破られるのが……僕という男の小ささを知られるのが、怖くてたまらなかったんだ」
ポツリ、ポツリと落ちる言葉は、どこまでも泥臭く、不格好だった。
高尚な哲学を語っていたかつての「先生」の面影はどこにもない。そこにはただ、自分の弱さを認められず、純粋な存在に縋っていた一人の情けない人間が横たわっていた。
言い終えた慧太郎は、深く頭を垂れた。
裁きを待つ被告人のように、あるいは許しを乞う罪人のように。
揺花里は、静かにコーヒーを一口啜った。
湯気の向こうで、彼女の表情は驚くほど穏やかだった。悲鳴も、失望もそこにはなかった。ただ、ずっと探し続けていた「ピース」が、ようやく正しい場所にはまったかのような、静かな納得だけがあった。
「……なんだ。最初からそう言ってくれればよかったのに」
揺花里の呟きに、慧太郎はハッと顔を上げた。
「……失望しないのか。僕がこんなにも惨めで、勝手な人間だったことに」
「失望? なんで?」
揺花里は少し首を傾げ、ふっと力みの抜けた笑みを浮かべた。
「あなたがただの弱くてズルい人間だったって分かって、すごく安心したよ。……だってそれなら、私があの部屋で迷ったり、救われたり、傷ついたりしたことも、全部『人間と人間のぶつかり合い』だったってことになるじゃない」
揺花里はテーブル越しに身を乗り出し、初めて慧太郎の目を、逃げ場を与えないほどの至近距離で見つめ返した。
「『高尚な先生と、可哀想な子供』じゃなくて、ただの『ズルい大人と、背伸びしたかった私』だった。……それなら私、自分の過去を恥じる必要なんて、どこにもないもん」
揺花里は小さく微笑んだ。
「告白してくれてありがとう、慧太郎。これでやっと……私たちは本当のスタートラインに立てたね」




