自由意志の所在
「自由意志、か」
慧太郎は、冷めかけた二杯目のコーヒーの表面を見つめながら、その言葉を口の中で転がした。
かつて西日の差し込む部屋で、ローテーブルを挟んで交わした最初の議論。あの頃の自分は、脳科学や決定論の言葉を借りて、まるで世界の真理を授けるかのように語っていた。
「あの頃の僕は……『自分で選んだと信じるプロセス自体が尊厳だ』なんて、格好のいいことを言っていたな」
「言ってたね」
揺花里は懐かしむように、けれどどこか冷ややかな、確かな現実味を帯びた目で笑った。
「私が『あなたと一緒にいたいと思うのも私の尊厳?』って聞いたら、息を呑んで固まってた。あの時のあなた、本当はなんて答えたかったの?」
慧太郎は自嘲ぎみに目を細め、小さく首を横に振った。
「『やめてくれ』って、悲鳴を上げたかったよ。……君が本で覚えた言葉を使って、自分の純粋な感情を肯定しようとしていたこと。そして何より、僕自身がその言葉に救われ、浮き足立っていたこと。……あれは自由意志なんかじゃない。狭い世界で抑圧された君の孤独と、社会に行き場のない僕の孤独が、たまたま同じ部屋で引かれ合っただけの……ただの必然だ」
「必然、ね」
揺花里はカップの縁をなぞる指を止め、まっすぐに慧太郎を見つめた。
「じゃあ、いまの私は? 世間の『可哀想な被害者』っていう言葉に抗って、一人で働いて、自分の足で生活費を払って、今日ここへ来てあなたと話してる。……この私の意思も、過去の傷や環境にコントロールされただけの、電気信号に過ぎないの?」
「……それを僕に試させないでくれ」
慧太郎は苦しそうに視線を落とした。
「今の君の言葉や行動が、どれほど力強く見えたとしても……僕が『それは君の自由意志だ』と認めてしまえば、僕はまた君に甘えることになる。君が自分の意思で僕の前に立っていると信じることで、僕が君の人生に与えた歪みから、目を逸らすことになってしまう」
「またそれだ」
揺花里の声が、静かに、けれど力強くテーブルを叩いた。
「また『背負おう』としてる。ねえ、慧太郎。あの部屋で私が選んだことが、環境やあなたの言葉に誘導されたものだったとしても……それを『自分の意思だった』って抱えて生きるって決めたのは、今の私なの。過去の動機がどれだけ不完全で、誰かの影響を受けたものだったとしても、その結果を引き受けて今日を生きることは、私の自由でしょう?」
慧太郎は息を呑み、ゆっくりと顔を上げた。
「結果を引き受けるのが……自由か」
「そうだよ。完璧に誰の影響も受けていない、純粋で綺麗な『自由意志』なんて、最初からどこにもないんじゃない? 誰かの言葉に傷ついて、誰かの身身勝手に振り回されて、それでも『これが私の人生だ』って泥をかぶりながら決めること。それが、私たちが生きている現実の自由意志でしょ」
揺花里の言葉には、あの日本棚の部屋で背伸びしていた理論の面影はなかった。
社会の冷たさに晒され、言葉を奪われ、それでも自分の足で立ち続けてきた人間だけが持てる、泥臭くたくましい手触りがあった。
「……君は、本当の意味で『あの密室』を出たんだな」
慧太郎の口から、深く、温かい溜め息が漏れた。
「僕だけがずっと、あの部屋の西日の中に閉じこもっていた。君を保護することで、自分自身の未熟さを隠しながら……」
「閉じこもってたなら、今ここでドアを開けなさいよ」
揺花里はふっと柔らかく微笑み、テーブルの向こうの慧太郎へ向けて、小さく手を差し出した。
「決定論でも、尊厳でもなく。……いま、あなたが私と話をしたいかどうかの話。それくらいは、自分で選びなよ。天黄道 慧太郎」




