不遜の解体
店内を流れるBGMのジャズすら途切れ、掛け時計の秒針の音だけが二人を打ち据えていた。
揺花里の放った言葉――『あなたが自分の過去を過ちとして捨てるなら、私が泥をすすりながら守ってきたあの五年間は、一体何だったのよ』――が、慧太郎の胸の奥深く、固く結ばれていたものを容赦なく解いていく。
慧太郎は冷めたコーヒーカップに手を伸ばしかけ、その手がかすかに震えていることに気づいて引っ込めた。
「……僕が、責任を背負うと言ったことが、君の時間を否定することになるというのか」
慧太郎の声は、かすかに揺れていた。
「当然でしょう」
揺花里は、一人の人間として、冷静に、けれど熱を帯びた眼差しで慧太郎を射抜いた。
「あなたはね、自分の肩の上に『責任』という重荷を全部載せることで、私を安全な外側に置こうとしている。それは一見、大人としての優しさや誠実さに見えるかもしれない。でも……それはただの傲慢だよ」
「傲慢……?」
「そう。私の人生なのに、私の感情なのに、どこまでが私の責任で、どこからがあなたの責任かを決められるのは、私だけじゃない。どうして私の分の選択の重みまで、あなたが勝手に背負い込めると思っているの?」
揺花里の手がテーブルを滑り、慧太郎の組まれた手の手前に置かれた。
触れるか触れないかの距離。かつて密室で本を挟んでいたときには、決して交わらなかった現実的な「手」の距離。
「あの部屋で、本を読んで、あなたと話して、救われた気になっていたのは私。警察に連れていかれて、世間に『被害者』ってラベルを貼られて、誰も私の言葉を聞いてくれなくて絶望したのも私。……そして、佐伯先生との面接で『分からない』って宙吊りの痛みを抱えて生きる覚悟を決めたのも、全部私の足跡なの」
揺花里は小さく、愛おしそうに首を振った。
「その私の足跡をね、あなたが『僕の過ちでした、ごめんなさい』の一言で買い取ろうとしないでよ。私の傷も、迷いも、全部私のものなんだから」
「……君に、そんな重荷を背負わせたくなかったんだ」
慧太郎の口から漏れたのは、もう論理の城壁ではない、みっともないまでの本音だった。
「君が社会に出ていく中で、あの部屋での出来事が足枷になってほしくなかった。僕を恨んで、僕を捨てて、綺麗な世界へ行ってほしかったんだ。……僕のせいで君の人生が歪んでしまったと認めるのが、僕にとっての唯一の罪の引き受け方だったんだよ」
「……バカじゃないの」
揺花里は呆れたように、けれどどこか愛おしそうに呟いた。
「歪んだっていいよ。綺麗な世界なんて、最初からどこにもなかった。友達と笑って過ごす放課後だって、バイトで頭を下げて稼ぐお金だって、ぜんぶ泥臭くて、歪んでて、不完全だった。……でもね、その不完全な世界で生きている今の私の方が、あの密室で『美しい言葉』だけを信じていた私より、ずっとずっと生きてる心地がする」
揺花里は身を乗り出し、慧太郎の目の中に己の姿を映し出した。
「慧太郎。私ね、もうあなたの『生徒』じゃないよ。あなたの『被害者』でもない。……私を子供扱いして逃げるな」
慧太郎の呼吸が止まる。
目の前にいる存在は、かつて自分が言葉を与え、守り、そして一方的に別れを告げて去った「言葉の器」ではない。5年間の圧倒的な現実をくぐり抜け、泥をすするような生を自分の足で歩んできた、一人の「対等な他者」だった。
自分が5年間大事に抱えてきた「正しく反省する加害者」という役割は、目の前の彼女のリアルな生を前にして、あまりにも不格好で、無力な張子に過ぎなかった。
「……最初から」
慧太郎の唇が、引きつるように動いた。
「……最初から、僕の負けだったんだな。あの密室の時から……ずっと」
「負けとか勝ちとかじゃない」
揺花里はふっと柔らかく笑った。それは、この緊張した対話の中で初めて見せた、等身大の柔らかな表情だった。
「お互いに、勝手に傷ついて、勝手に迷ってるだけでしょ。……ねえ、冷めちゃったから、温かいコーヒー頼もうよ」




