98、二転三転
イーリスはふわふわとした意識の中を漂っていた。これは現実と夢、どちらなのだろうか。ぼやけた意識では判別がつかない。
音は聞こえるが音源が遠くて不明瞭だ。それよりも規則的に音を刻む何かが耳の奥にあった。気になったイーリスは謎の音に意識を向ける。
音は同じ速度で発生し続けている。しばらく聞いているとそれは己の鼓動であると気づいた。早鐘のような激しい鼓動だ。
体が熱い。内部から湧き上がる熱が体中を駆け巡る。自分の体は一体どうしてしまったのか。
曖昧な記憶を辿ろうとするも揺らめいて霧散した。
何もかもがぼやけている。
この頭で考えるのは時間の無駄だと思考を放棄する、その寸前。突如として意識に男の声が入り込んで来た。
「直ぐ研究所に連れて行くからな」
低く力強い声。それはよく知った声であった。同時に熱を持った半身が離れて行く。
輪郭を失った世界で揺らいでいた意識が急速に集束した。
(そうだ、私、騎士団の人に連れて行かれてたんだった)
イーリスは燃えるように熱い体を動かした。しかし、体が鉛のように重い。おまけに上下左右の感覚が分からなかった。
(これは…病気の再発…?)
熱で散り散りになりそうな思考を必死で纏める。
そんな彼女の耳に重い打撃音と呻き声が入る。呻き声は一緒に歩いていた団員の声だ。
近くで戦闘が行われている。イーリスは状況を把握するべく重い体を折って音の方へ耳を傾けた。
再び打撃音、そして甲冑が転がる甲高い音が響く。その後、苦鳴の声が耳に届く。
イーリスの背筋がスッと冷たくなった。体は熱い筈なのに嫌な寒気がした。
苦鳴の声を漏らしたのは間違いなくソルだ。
団員と戦っているのはソルなのだ。でも、どうして。
いや、今はそんな事を考えている場合ではない。ソルが危機に陥っている。どうにかして彼を助けなければならない。
風に乗って血の匂いが漂ってきた。
言いようのない焦燥感が鼓動を更に早める。
すると体の熱が増した。胸を中心とした業火のような熱が体中を襲う。
纏まりかけていた思考の世界が無常にも崩れていく。
何も考えられなくなる。
(ダメ…諦めないで…)
イーリスは崩れ行く世界を再構築する。
(嫌…ソルさんを…助けたい)
だが、世界が崩壊する方が早い。崩壊した世界は闇に沈んで行く。
このままではやがて自分も闇に堕ちてしまう。そうなればソルを助けることはできない。
(ソルさん…!)
業火のような胸の中で強い感情が新たな業火となって燃え上がる。
激しい感情の炎は思考も意識さえも巻き込んで燃やし尽くす。
彼女の意識世界は灰燼に帰すかと思われたが、一つだけ残るものがあった。
そこには焼かれ黒く焦げついても尚残る強い意思。
ただソルを助けたいと願う心だった。
強力な紫電球が黒い狼の頭部を蒸発させる。狼の体は大きく揺らぐが倒れない。強靭な前脚で男の斬撃を払い、体当たりをする。
男は横に転がって回避した。流れるように起き上がると追尾してきた狼の爪を剣でいなす。この時、狼の頭は既に再生していた。
距離を取ろうと後方へ跳んだ男に向かって狼が大きく開いた顎を閉じる。不吉な音と共に男の前髪を千切り取った。
更に追尾しようとした狼に天から雷が降る。昼でも顔を背ける程の光と地鳴りのような轟音で路地が満たされた。
光が収束すると狼は消失していた。狼のいた場所はすり鉢状の大穴となっている。
盾の男は魔術師の側に立った。
「すまん、助かった」
「私はできるオンナだからね。これでやり易くなるでしょ。そう簡単に高濃度の魔術生命体を作れる訳」
髪を靡かせる女は得意気に話していたが、急に言葉を詰まらせた。その藍色の目は対峙している魔術師に向けられている。
熱に冒されて虚な少女が、だらりと下げた両腕を胸の高さまで上げた。
地面から湧き出るように彼女の両脇に黒い狼が顕現した。
「冗談でしょ」
うんざりした女の心の声が洩れる。
「この状況で捕縛なんて無理。殺しちゃいましょ」
「それは首領の命令に背くということか」
「そういう訳じゃなけど不可抗力ってコトで」
「おい、喋っている場合じゃないぞ」
二頭の狼が猟犬のように放たれる。前に出た男が狼の攻撃を引きつける。
女が雷撃を大量にばら撒く。雷撃は男に当たる事なく狼の体を削り取る。精緻な魔術操作技術であった。
男は狼の隙をついて前脚を斬り落とし、返す刃で首を切断した。
もう一頭の狼との距離を詰める。
その時、急に空が翳った。雲ではない。
急停止した男は狼から距離を取ると頭上を見上げた。
そこには超巨大な黒い塊があった。この周辺を飲み込んでしまう程の大きさがある。
それはただ魔力を具現化して纏めただけのものだった。歪な球体は高濃度の魔力を溜め込んではち切れそうになっている。球体の周囲は陽炎となっていた。
これには女も驚愕を隠せない。あれが放たれたらここ一帯は吹き飛ぶ。とんでもない広範囲の無差別攻撃に、女はイーリスの正気を疑った。
「イカれてるわ」
女は防御に全集中し男を呼び寄せる。衝撃に備え身を低くした。
しかし、球体は大きく揺らぐと端から霧散していった。黒い粒子が宙から舞い降り消える。
女が何事かと視線を正面に向けるとイーリスが倒れ伏していた。
周囲の圧迫感が消失。動きを止めた狼も崩壊し粒子となる。
静寂。
戦いは唐突に終了した。
体の限界に達したイーリスは焦げついた願いと共に完全に意識を途絶えさせていた。
「はぁ、これで命令違反にはならなそうね」
「騒ぎ過ぎた。騎士団が来る。急ぐぞ」
二人は事態の収束に安堵した。これで標的を運べる。
男は倒れているソルの方に視線をやる。だが、そこにソルは居なかった。
男は抜刀すると同時に死角からの斬撃を防いだ。続く蹴りを体を捻って避け後方に跳ぶ。
「流石に頑丈過ぎるだろ」
男の感嘆と嘲弄が混じった声が片手に剣を握ったソルに投げかけられた。
ソルはどうにか動くようになった体で無理矢理剣を振るっていた。まだ左腕は痺れが残り上手く動かせない。重い倦怠感も残っている。
右腕を男に向け半身に構えた。
フードが外れているが戻す余裕などない。
「退け」
殺気を現にしたソルに男は薄く笑った。
「悪いが、こっちも仕事なんでな。お前の要求には従えない」
男の真横を雷撃が抜ける。雷撃は一直線にソルを襲う。
ソルは横に跳んだが、跳躍力が足りず雷撃が左腕を掠める。痺れと痛みが腕に広がった。
「化け物並みの耐久力ね」
女が男の隣に並んだ。杖の上部の魔石には紫電が蛇のように絡みついていた。
「でも、そんなザマでいつまで持つかしら」
女が残忍に笑む。
ソルは剣を向けゆるりと足を動かし間合いを計る。 このような体で勝ち目は薄いと分かっている。それでも退く訳にはいかない。
ソルの緑の瞳は魔術師たちの後方で倒れているイーリスを盗み見る。
意識を失ったイーリスの病状は確実に悪化している。
(一刻も早くこいつらを排除せねば)
ソルはまず厄介な魔術師を倒すべく狙いを定めた。 女もソルに杖を向けている。
盾の男は女をソルの視線から遮るように動く。
ひりついた緊張感の中、ソルは脚に力込めた。地面を蹴る。
まさにその時、空を裂いてソルと男たちの間に何かが突き立った。轟音と砂煙が巻き上がる。
「あんたら、昼間から派手にやってるねぇ〜」
砂煙の中心から緊張感の欠片もない気怠げな声が放たれた。
ソルや相対する男女らは急に現れた声の主に武具を向けた。
砂煙が薄れた先に立っていたのは平服の男だった。陥没した地面に突き立った槍を引き抜いている。
その男は気怠い声と同じく、午睡前の怠そうな顔をしていた。
ソルはその顔を知っていた。
「お前は研究所の門番か」
「よく覚えてるねぇ」
門番は槍を肩に担ぐと首を回してソルを眺めた。
「俺は人の顔を覚えるのは苦手」
のんびりとした口調で喋る門番の声は刃と刃がぶつかる金属音で掻き消された。
門番を敵と認識した盾の男が側面から斬りかかってきたのだ。それを門番は槍を旋回して弾いていた。顔はソルの方を向いたままだ。
今度は手加減無しの雷撃の群れが門番へ殺到する。
「それは不味い」
言葉に反して緊迫感のない門番は横に跳んで雷撃から逃れる。幾つかの雷撃は陥没した地面を更に破壊する。すると、地面が崩落し路地の中心に大きな穴が空いた。
残る雷撃は射線状のソルも襲うが、今度は距離がある。ソルは余裕を持って回避した。
「あーもう、面倒くさいことになってきた」
魔術師の女が忌々しそうに吐き捨てる。殺気の籠った目を家屋にもたれかかっている門番に向けていた。
門番は気にする様子もなくソルの後方の路地奥を指した。
「もっと面倒くさいことになりそうだよ」
路地奥、更に遠くから幾人もの声と甲冑が擦れる高い音が響いて来る。
騎士団だ。騒ぎを嗅ぎつけて集まってきているようだった。あれだけ騒げば当然か。
女が舌打ちをする。男が女に目配せをすると背を向けて駆け出した。
男は女をすれ違いざまに小脇に抱えると近くの家屋に窓を破って屋内に侵入、逃走した。
僅か数秒の鮮やかな撤退であった。
危機を脱したソルは力が抜けそうになる膝を叱咤しイーリスの元へ向かう。しかし、路地の中心に空いた穴が行く手を阻む。
崩壊が進んだ穴は路地を完全に分断していた。穴は漏斗状になっており、中心は底の見えない闇となっている。
飛び越えるか家屋の中を迂回するか迷っていると、いつの間にか門番がイーリスを抱え起こしていた。
「凄い熱」
意識を失ったイーリスの手がだらりと地面に落ちる。ソルには酷く恐ろしい光景に見えた。
早く治療してもらわねば。
ソルは穴の向こうの門番に協力を仰ぐ。
「おい、彼女には治療が必要だ。研究所まで運ぶのを手伝ってくれないか」
「いいよー」
気の抜ける返事であるが、ソルは安堵した。自分があまり動けない今、協力者の存在はありがたい。
騎士団の声が近くなってくる。色々と詮索されて足止めをくらう前にここを離れたいところだ。
「研究所まではこっからが近いから、まずはあんたをこっち側に連れて来ないと」
イーリスをそっと地面に下ろした門番は一飛びで大穴を越えた。穴の端に着地した門番の足元が崩れる。
「よっと」
門番はバランスを崩しながらも前に跳んで穴への落下を防ぐ。肝が冷えるような場面だが、彼の顔は気怠げなままだ。
門番は立っているのもやっとな様子のソルを一瞥すると手を差し出した。
「キツそうだね。肩借そうか」
「…そうだな。頼む。だが、その前に装備を回収させてくれ」
「いいよー」
ソルは近くに倒れている偽団員の背から双剣の片割れと短剣を拾い上げる。片腕でベルトに捩じ込む。
杖を持ち頭を上げると唐突にめまいがした。体が大きくふらつく。
まだ体の調子は復調していない。気を抜けば倒れてしまう。
門番がソルの左腕を自身の肩に回して体を支えた。
「それは俺が持つよ」
ソルの手から杖を抜き取る。
「すまない」
門番はソルを支え歩き出した。
服越しでも男の鍛え上げられた肉体の強靭さがソルに伝わる。やる気のない態度からは想像できない程に鍛錬を積んでいるはずだ。
それに先程の短い攻防を見る限り、この門番が相当な実力者である事は明白だった。ただ立っているだけでも隙がないのだ。
それだけに怠惰な態度と実力の乖離が激しい。
ソルは支えられながら門番の男を横目で観察する。
青みがかった鉄色の髪に眠そうな目。歳はソルと同じくらいか。
ソルはふと湧いた疑問を門番に投げかけた。
「どうして助けたんだ?」
「そりゃあ見たことある奴が襲われたら助けるでしょ」
「よく俺たちのこと覚えていたな。顔覚えるの苦手なんだろ」
「そう。でも例外があるんだ」
門番は立ち止まった。そこは穴の縁であった。
「それは血の臭いが濃い奴」
門番は首を動かしソルと顔を突き合わせる。怠惰な顔が一変し、背筋が寒くなるような酷薄な笑みが浮かんでいた。
ソルは本能的にこの男が危険だと察知した。間髪入れず門番から逃れようと身を捩るが遅かった。
凄まじい力で腕を引かれ、背を蹴り飛ばされた。穴の中に向かって。
衝撃と浮遊感の後、ソルは漏斗状の穴の斜面を転がり落ちていた。転がる先にはぽっかりと開いた底の見えない闇。
蟻地獄に落ちた蟻のようにソルは中心部に吸い込まれる。片腕を伸ばして何か掴める物がないか片っ端から探るが何も掴めない。
それでも諦めずに斜面に爪を立てる。徐々に落下速度が落ちる。
ようやく落下が停止した時にはソルの体は半分闇に落ちていた。
「おー、よく止まれたね」
遥か頭上から門番の声が降ってくる。ソルが何とか顔を上げると、さっきとは反対側の縁から門番の顔が見えた。酷薄な笑みは消え、怠惰な表情に戻っている。
「お前、何でこんなことを…!」
ソルは片腕で自重を支えながら声を絞り出した。
「いや、こっちの方が面白そうだしさ」
門番の理解不能な言葉にソルは絶句した。
「安心して、あんたのお姫サマは研究所に連れてくから」
そう言った門番の顔が引っ込んだ。
その言葉は真か、イーリスをどうするつもりだ、等色々と言いたい事はあるが、ソルはそれどころではなかった。
片腕だけでは体を支えきれずゆっくりと闇に引き摺り込まれていた。
また頭上から声。
「そういや名前言ってなかったね。俺はツェード。よろしくね」
この状況で自己紹介とはかなりふざけている。
「俺は優しいからこれはあげる」
ツェードの声と共に何かが斜面を転がり落ちる音が近づいて来る。
ソルが顎を上げると背嚢が砂煙を上げながら転がって来るのが見えてしまった。
「またね、ソルさん」
ツェードが声をかけるのと、背嚢がソルにぶつかり共に闇に消えるのは同時だった。




