99、真意
整頓された診察室で、神経質そうな印象の男が白い布に薬剤を塗っていた。
魔術研究所の副所長を務めるキルジュである。彼は今、診療中であった。
椅子に座るキルジュの前には寝台にうつ伏せになった男がいる。男の上半身の病衣は脱がされており、背中の痛々しい傷が露わになっていた。
男の背中の約半分は爛れたように赤くなっており、血液や滲出液が滲み出ている。
キルジュは薬剤を塗った布を患部に当てた。
痛むのか男の顔が僅かに歪む。
壺に入った薬剤をへらで掬い、布に塗り患部に当てる。キルジュはその作業を繰り返していた。
この薬剤は数種類の薬草を煎じ蜜蝋等と混ぜ合わせ軟膏にしたものだった。薄い緑の軟膏は強い薬の匂いを発している。
背中の患部を布で覆いつくすと幅広の包帯で胴体を巻いて行く。これもキルジュには手慣れた作業であった。
「終わりました。傷は少しづつ縮小しているようです。あと一ヶ月もすれば完治すると思います」
「そうですか。よかった」
病衣を着た男は自分の背を摩って安堵の表情を見せた。
「魔力の乱れも治りつつありますので、そろそろ入院ではなく通いでも大丈夫ですよ」
「…喜ばしいことですが、まだ心配なのであと二、三日はここに居させてもらっていいですか?」
「構いませんよ」
「ありがとうございます」
頭を下げた男は診察室を後にした。
キルジュは血で汚れた布や包帯を籠に入れ、軟膏壺に蓋をした。壺は窓際の棚に戻す。
棚には幾つもの壺と瓶に入った煎じ薬が所狭しと並んでいた。
これらの薬剤は全てキルジュが研究、調合したものだった。様々な効能があるが、どれも共通して魔力の暴走を抑える作用がある。
魔力に起因する病に対応できる薬剤ばかりであった。彼の長年の成果である。
キルジュは桶の水で手を洗うと壁にかかっている時計に目をやった。昨日から彼は時計に目をやる事が増えていた。早く時間が過ぎるのを望んでいるようだった。
彼は待っていた。目的のものがここへ舞い戻って来るのを。
手を拭いたキルジュは診療録に男の状態と処置内容を記載した。整然とした文字が並んでいく。
扉を叩く音がした。返事も待たずに扉が勢いよく開く。
「来ましたよ!」
喜びに目を輝かせたラーレが入り口に立っていた。
キルジュはその言葉だけで何が来たのか直ぐに理解した。神経質な顔に静かな歓喜が広がる。
キルジュは書きかけの診療録を置いて診察室から足早に出た。後ろからラーレが付いて来る。
長い廊下を臙脂色のローブを翻して歩く。
廊下の先、突き当たりの扉を開ける。
そこは一般の家庭の室内のような落ち着いた空間だった。暖色の照明がキルジュの目に反射する。色も相まって火が灯っているようだった。それも暖かい火ではなくもっと剣呑な怪しい火であった。
室内には門番のツェードが長椅子に寄りかかって立っていた。肩には鞘をした槍を立てかけている。
キルジュの視線は門番ではなく長椅子に横たわっている人物に注がれる。
その人物は顔を紅潮させ浅い呼吸をしていた。目は閉じられており身じろぎ一つしない。長い黒髪が長椅子から床に溢れている。
彼はこの時を待っていた。
「状況の詳細を話せ」
「倒れてたから連れてきた」
ツェードが怠そうに喋る。
「もっと詳しく話せ」
「非番で家にいたら戦闘音がして彼女らが襲われてて助けた」
詳細と言うにはかなり大雑把な説明にキルジュは不満そうだが、ツェードはこういう男だ。懇切丁寧に説明するような性格ではない。
「盾の方はどうした」
「今頃地下遺跡を彷徨ってるよ」
「始末しなかったのか」
「何か調子悪そうだったんだよね。だから俺もやる気出なかった」
これにはラーレが反応した。
「あ、もしかして僕の出したお茶とお菓子のせいですかね」
口元に手を当てて驚いている。
「獣憑きにも有毒なんですね。やっぱり彼らは獣と同等の造りなんでしょうか」
昨日、ラーレが客人に出したのは心身に良い効能のあるハーブを使用した茶と菓子であった。
だが、それは人にとっては良くとも獣には有毒なハーブだった。毒は遅効性で摂取から一日程で中毒症状が出る。摂取量が多いと死に至ることもあるものだった。
菓子と茶にはそれなりの量のハーブが入っていたが、あの獣憑きは中毒症状が出ただけで済んでいるようだ。
ラーレはハーブの配合を思い返し王宮に報告するか一人黙々と考えていた。
獣憑きの中毒症状など眼中にないキルジュはツェードを睨んだ。
「その獣は娘を奪われて怒り狂っているだろう。厄介な事をしてくれたな」
「そっちの方が面白いかなと思って」
睨まれてもどこ吹く風の門番はのんびりと答えた。
「牙を剥きに来た場合はお前が責任を持って対処しろ」
「言われなくてもそのつもり」
ツェードは眠たげに天井の照明を見ていた。
キルジュは眉を顰めるが、この門番の実力は認めているのでこれ以上追求はしなかった。
二年前に雇って以来、何度か宗教団体や裏社会の人間との小競り合いがあったがツェードは一度も膝をついていない。
ふざけた男であるが戦いにおいては信頼できる。
キルジュはやる気のない門番の横顔から横たわる少女へと視線を下ろした。
高熱で意識を失っている少女は先ほどからピクリとも動かない。
キルジュは少女の傍らに腰を下ろすと手を取った。彼女の体内の魔力の流れを感じ取る。すると案の定魔力は嵐のように渦巻いていた。今直ぐに治療が必要な状態である。
彼は満足した様子で細い手首にある緑の石の腕輪を外す。
「それ、良く効きましたね」
考察を終えたラーレが腕輪を指した。
「彼女は元々魔力の流れが不安定だった。これはきっかけを与えたに過ぎない」
キルジュは腕輪を懐に仕舞った。
この腕輪に使われている石は魔力を乱す作用がある。魔術を妨害する魔道具に使用される特殊な石であった。
そのような石を身につけるとどうなるか。当然体内で循環する魔力の流れを阻害し暴走を促してしまう。
健康な魔術師ならば多少の不調で治るが、一度魔力関連の病気を発症した事のある者には再発の原因となる。
キルジュは少女、イーリスの病気の再発を狙っていたのだ。
彼は十年前から諦めていなかった。だから彼女の目撃情報が入った時は喜びに打ち震えた。
そして、捜索を依頼している段階で予期せぬ再会を果たした。まさか彼女からここへ来るとは。これは運命である。
彼女の価値は何物にも代え難い。天は我に味方している。
自分は父のように失敗はしない。
キルジュはイーリスの手を彼女の腹に置くと、怜悧狡猾な笑みを見せた。
「ここまでは概ね予定通りだ。診療棟に移そう」
頷いたラーレが担架を取りに診療棟へ行こうとしたが停止する。
「ツェードさんが手伝ってくれれば早いんだけどな〜」
期待を込めた眼差しがツェードに向けられる。
「俺、今日非番だからもう帰る」
ツェードはラーレを見る事もなく寄りかかっていた長椅子から離れた。
ラーレは何か言いたげな表情だったが、口唇を曲げて診療棟へ行った。
槍を担いだツェードは玄関へ歩く。そこへキルジュが声をかける。
「待て、彼女らが襲われていたと言ったな。誰に襲われていたんだ」
「さぁ。どっかの魔術師と盾だった」
頼りない返答であったが、キルジュは事前に得ていた情報と掛け合わせ襲撃者をある程度予想できた。それは無視できない相手である。今後の研究に支障を来たす可能性があった。
「報酬は弾む。今夜から警護についてくれ」
「えー、って言いたいところだけど、今回はいいよ。装備取りに一旦帰る」
ツェードは振り返らず言葉を続けた。
「そういや、その娘はどうすんの」
「もちろん研究に使う」
「殺すの」
「今はまだ。その時が来れば…」
キルジュは言葉を切った。
「珍しいな。お前が他人を気にするのは」
「…ちょっと可愛いなーって思ったから」
鼻で笑ったキルジュは話しは終わったとツェードの背から目を離した。
診療棟からラーレが所員と担架を持って来た。室内が騒がしくなる。
ツェードは変わらぬ調子で玄関の扉を開け外に出た。後ろ手で扉を閉める寸前に嘲るような笑みが一瞬浮かぶ。
「あれは人間の手に負えるものじゃないよ」
溢れた呟きは誰に訊かれることもなくひっそりと消える。
ツェードは一つ伸びをすると、緑に挟まれた通路を歩き始めた。




