97、異変
団員は膝をついて苦しむソルの首元に刃を突きつけた。ほんの少し手首を動かすだけで首を切り裂くことができる。
「抵抗すれば斬る。大人しくうつ伏せになれ」
団員はさっきまで震えていたとは思えない傲慢な口調となっていた。
「早くしろ」
ソルの動きから目を離さずに腰の後ろから捕縛用の縄を取り出す。
ソルは膝をついたまま団員の言葉に反応しない。
焦れた団員が威嚇の為に剣を動かそうとしたが、固定されたように剣が動かない。
視線を剣に移した団員の背筋に悪寒が走る。
ソルが突きつけられた刃を掴んでいたのだ。剛力で握られた刃は団員の力では僅かに動かす事すら叶わなかった。
刃に傷つけられた手から溢れた鮮血が地面に落ちて広がる。
あまりの力の差に団員の心に恐怖が湧き上がった。咄嗟に剣を離してソルから距離を取る。
ソルは体をふらつかせながら立ち上がった。そして一歩、一歩と足を踏み出して行く。刃を握ったままの手からは鮮血が溢れ続ける。
幽鬼のように歩むソルの顔が上がる。フードの下からは緑の炎を宿した双眸が覗く。口唇の端からは血が流れ出ていた。食いしばった犬歯が口唇を破っている。
満身創痍であるはずなのに放たれる殺気と圧が凄まじい。
団員は情けない悲鳴を上げて後ずさった。その足が硬いものに当たる。それは吹き飛ばされた団員が持っていた剣だった。
急いで剣を拾い上げた団員はソルに切先を向けた。
しかしソルの歩みは止まらない。大きく震える刃は牽制にすらなっていなかった。
ソルは今にも倒れそうになる体を気力のみで動かしていた。
飛びそうになる意識を現実に繋ぎ止めているのは痛みだった。剣を握る手に更に力が入る。刃が肉を抉り強い痛みを発生させる。
眼前の敵を倒せばイーリスを連れて行ける。
足を交互に動かし続けた。
気づけば己の胸元に揺れる刃があった。切先が革の胸当てを引っ掻いている。
狭まる視界の正面で引き攣った団員の顔が大きく揺れた。刃も連動して胸元から引いていく。
ソルの目が刃の動きを追う。
振り上げられた刃がソルの無防備な肩口に吸い込まれる。
致命傷になり得る攻撃。しかし恐怖に任せた稚拙な剣筋。ソルの腕は無意識に動いていた。
甲高い金属音と共に剣が舞い上がる。剣は家屋の側面に突き立った。
空になった手とソルを交互に見た団員は一歩後ずさる。
ソルは斜め上に掲げた腕を下ろした。彼は襲い来る団員の剣を握っていた剣で弾いていたのだ。
更に深くなった手の傷から流れた血が地面を不規則に染める。
新たな痛みが生じている筈だが、ソルには熱さしか感じなかった。感覚が失われて行く焦りが、ソルの残る力を総動員し衝動的に動かした。
恐ろしく速く伸びた手が蒼白な顔の団員の首を掴む。
一瞬で呼吸を途絶させられた団員はソルの手を引き剥がそうともがく。
ソルは片手で団員の首を締め上げる。団員の抵抗はまるで効果がない。
団員の血走った目とソルの炎を宿した目が合う。
その時、ソルの体に衝撃が走った。全身が痺れて硬直する。失ったと思った痛みが体を貫く。
痛みが治ると体から力が抜ける。握力を失った手から白目を剥いた団員が倒れ伏した。
ソルの足も自重を支えきれなくなり崩れ落ちるように倒れた。
もう指先を動かす力も残っていなかった。
「もう、私の所まで連れて来るだけの簡単なお仕事なのに、どうしてこんな事になってんだか。使えない奴は何しても使えないのね」
「俺が行った方かマシだったかもな」
「えー、あんた演技下手でしょ。騎士団の真似事なんて無理無理」
「そうかぁ?」
後方から男女の声が聞こえる。
(新手か)
ソルはかろうじて動く目で周囲を探る。
「それに手を出すなって言ってたのに一戦交えてるし。そこで伸びてる奴ら生きてる?」
「息はある。後で運ばせよう。そっちの巻き添えを食らった奴はどうだ」
程なくして足音を連れて一人の人物が眼前に立った。うつ伏せのソルには脚までしか見えない。ローブの裾から覗く飴色の革靴に杖の柄。
杖の柄がソルの側で倒れている団員を小突いた。
「生きてるっぽいわ。まぁ加減したしこのくらいでは死なないでしょ」
もう一つ重い足音が近づいて来る。武装した戦闘長靴が視界に入った。
「幽霊でも見たような顔をして気絶しているな。余程恐ろしかったらしい」
含みのある声がソルの背に落ちて来た。
「これが例の獣憑き?全然獣憑きっぽくないけど」
「こいつは目が獣らしい」
「そうなんだ。全然強そうに見えないわ。去年暴れてた獣憑きの方が圧倒的に強そう」
「その暴れていた獣憑きを倒したのがこいつだ」
ソルの肩口に長靴のつま先が差し込まれ、力のまま仰向けに転がされた。衝撃で全身に強烈な痺れが発生する。思わず顔を顰めた。
「こんなのが?信じらんない」
「見た目で判断するのはお前の悪い癖だ」
ソルを見下ろすのは長い黒髪を揺らした女と白髪紅目の長身の男だった。
女が持つ杖の魔石が太陽の光を反射して琥珀色に輝いている。
ソルの心に絶望感が漂う。
ここへ来て魔術師と盾とは運がない。動けない自分にこの状況を切り抜けられる方法など存在しない。
自分はどうなってもいいからイーリスを研究所へ、治療を受けさせなければ。そう言いたかったが舌が痺れて動かない。
「じゃあさっさと運んじゃって。あっちの娘も一緒に担げる?」
「まて、こいつまだ意識があるぞ。獣は手負いが一番危険だ」
「私の雷撃を受けたから動きはしないわ」
「只の人ならな。獣憑きの耐久力を忘れたか」
「はいはい。じゃあもう一発」
女がソルに杖を向けた。ソルは再び来るであろう雷撃に身構えた。
しかし、雷撃は来なかった。代わりに女の怪訝な声が落ちて来る。
「え、何あれ。確かあの娘目が見えないんだよね」
「その筈だ」
女の視線の先にはふらふらとこちらへ歩いて来るイーリスの姿があった。
イーリスは半眼で前を見据えている。もつれるように動く足は地面に転がる偽団員を器用に避けていた。
その動きはまるで見えているかのようだった。
「杖無しでどうやって…」
熱病に冒されている顔をして夢遊病患者のように歩いて来るイーリスに女は不気味さを感じた。
「ソルさん…」
イーリスがうわ言のように声を漏らした瞬間、周囲一帯を重苦しい圧迫感が埋め尽くした。
巨大な何かに監視されている、そんな圧が全身にかかっている。
ソルはこの感覚に覚えがあった。ベルダンでイーリスが人質となった時に感じたものだ。あの時も彼女は杖を持っていなかった。
女は即座にイーリスを警戒対象とした。一歩下がり、杖を構える。盾の男は女の前に立ち戦闘体勢となる。
「ただの魔術師だったんじゃなかったの」
「影の魔術師を撃退した娘だからな。タダの魔術師ではないだろう」
「ドーリウを!?」
「お前は本当に人の話を聞いていないな」
男の呆れ声は女には届いていない。
「何らかの禁具持ってるのかも。油断するとヤバそうね」
女はイーリスに杖を向けた。
「先手必勝」
杖から放たれた一条の雷撃がイーリスを狙う。
しかし、雷撃はイーリスの前に現れた黒い壁に当たり消失した。
女は更に何条もの雷撃を放つが全て黒い壁に阻まれる。
今度は抜剣した男が壁に斬りかかる。斜めに抜けた剣の後を追って分厚い壁が二つに切断された。
「硬いな」
男が握る剣は刀身が薄っすらと赤かった。魔術に干渉する鉱石を使った希少な剣であった。この剣は並の魔術なら簡単に斬り払うことが出来る。
その剣を持ってしてもイーリスの魔術を斬るにはかなりの力を要した。
切断され崩壊していく壁の隙間に女が雷撃を叩き込む。雷撃は正確に隙間をすり抜けイーリスに当たる、と思われたが突如現れた黒い影が雷撃を攫って行った。
影は家屋の壁を蹴って跳躍し反転。空中からイーリスの近くにいる男に急襲した。
男は剣を掲げて影を迎撃する。男と影が激突し衝撃音が発生した。
男は反動で後方へ飛ばされ女の前に着地する。
影はイーリスの側に寄り添った。すると、影の輪郭が鮮明になり角を持つ狼を形作った。
イーリスの身長と同じ体高の狼は脚を撓めて戦闘体勢をとる。
「禍々しい狼だな」
「凶悪そうな面してるわね。地獄に居そう」
イーリスと対峙する魔術師と盾の声からは焦りが滲み出ていた。
「こんなのどうやって連れて行けばいいのよ」
「気絶させるしかあるまい」
狼が飛びかかり、雷撃が蛇のように絡みつく。男が剣を振るい、黒い矢が天から降り注ぐ。
魔術師同士の攻防は激しさを増していった。
会話を聞いていたソルは更に焦っていた。魔力の大量消費は魔力の乱れに繋がる。イーリスはどういう訳か魔術を使って戦っていた。これは病状を悪化させてしまうのではないか。
ソルは痺れる首を必死に動かした。僅かに持ち上がった頭は丁度イーリスの方を向いていた。
ようやく彼女を視界に捉えることが可能となった。
イーリスは熱にうなされたような顔で次々と魔術を繰り出している。
黒い狼が男を食いちぎろうと顎を開閉していた。
その姿はベルダンでの黄金の狼とはあまりに違いすぎた。単純に色や大きさではなく狼そのものが持つ雰囲気が異質であった。男が言っていた禍々しいという言葉が似合う異形の狼だ。
雷撃が狼に殺到する。狼は左右に跳んでそれを回避した。男が狼に斬りかかるが強靭な爪で弾き返される。
男に向かって黒雨となった矢が降り注ぐ。それを広範囲に張った結界で女が防ぐ。
魔術の応酬で家屋や地面が抉られ破壊される。派手な破壊音が無人の住宅街に響く。
イーリスに一体何が起こっているのか。彼女に意識は今ここにあるのだろうか。体は大丈夫なのか。
湧き上がる疑問に対する答えが視覚情報だけで得られる訳もなく、焦燥感が募るだであった。
ソルは頭を上げていられなくなり再び天を仰いだ。頭の裏から地面の冷たさが伝わる。
そこで彼は体の痺れが軽減している事に気づいた。体にのしかかる倦怠感は消えないが指先は動く。もうしばらくすれば這って動くくらいは出来るようになるかもしれない。
ソルは傍に倒れている偽団員の背にくくりつけられている麻袋に目をやった。それには預けた武器類が入っている。
手を伸ばせば簡単に届く距離にあるが、未だ腕を上げることは叶わなかった。
ソルは深呼吸を繰り返し、身体の回復を待つ。激しい戦闘音をもどかしい気持ちで聞きながら。




