95、謎の症状
ソルは夢を見ていた。揺蕩う意識は次々と記憶と虚像を映し続ける。
イーリスと旅をしているエリシスの光景、森の中の魔物、そして広大な砂漠。
夢の世界が急速に形を変えて行く。
砂塵舞う小さな村。砂礫と僅かな草木しかない見慣れた光景。それは紛れもなくソルの生まれ育った故郷であった。
(またこの夢か)
ソルは己の記憶が作り出した夢の世界に辟易していた。
(どうせまた捨てられる時の夢だ)
故郷の夢を見る時はいつも嫌な記憶しか再現されない。
ソルは夢の世界から逃げ出したかった。だが、己の無意識はそれを許さない。
無情にも記憶を次々と映し出して行く。
村の端、砂礫の中で二人の子供が遊んでいた。 一人はまだ幼く、よたよたと頼りない足取りで先を走る子供を追いかけていた。無邪気な笑顔でいっぱいの顔には砂汚れが付いている。
(クレイ)
ソルは夢の中では存在しないはずの痛みを感じた。
先を走る子供は痩せているが、しなやかな体つきをしていた。伸び放題の赤銅色の髪は頭の後ろで無造作に括られている。
それは子供時代のソルであった。
ソルが己だと認識した瞬間、意識は痩せた体に吸い込まれた。
ソルの目の前にはこちらを振り返りながら全力で走る弟、クレイの小さな背中があった。
小さな足が五歩走る距離は子供のソルでも軽く地を蹴れば一歩で届く。
ソルは逃げ回るクレイに合わせてゆっくりとした歩調で追いかけている。しばらく追いかけてから小さな体を捕まえ抱き上げた。
クレイの笑い声が胸に響く。輝く茶色の瞳をソルの緑の瞳が覗き込んだ。クレイの瞳はソルの顔を捉えているが目が合う事はない。
弟は生まれつきの弱視であった。朧げには見えているようだが、よく壁や人にぶつかっていた。
この小さな弟は他にも問題を抱えていた。彼は成長が遅い。今年で五歳になるというのにまだ二、三歳程の体格しかなかった。
それに言葉を発さない。こちらの言葉は理解しているようだが、いつまで経っても発語がなかった。
弟はいつまでも小さな幼子のようだった。
生まれた時は可愛がっていた両親もあまりに成長しない弟を次第に疎ましく思うようになったのだろう。クレイが赤子の時は寄せ付けなかったソルに世話を押しつけて来た。
弟の世話は大変だったが、ソルは頼られることが嬉しかった。
クレイの小さな手がソルの頬を触った。探るような手はやがて長い髪を掴み容赦なく引っ張る。
ソルが反射的に声を上げるとクレイはまた笑った。
少し頭にきたソルはクレイの頬を摘んで引っ張った。かなり加減して。
クレイは突然の痛みにキョトンとしていた。だが、それも一瞬であった。何が面白いのかまた笑い出した。
クレイの手がソルの髪を離して肩に降りた。小さな顔が薄い胸板に埋められる。弟は兄を抱きしめていた。
幼い顔には信頼と愛情を感じ安堵した表情があった。
ソルも抱く腕に力を込める。
クレイは家族や村の人々からも蔑まされる日々を送るソルの唯一の味方であった。この成長の遅い末の弟の存在が救いとなっていた。
大切な弟だった。いつまでも一緒に居たいと思っていた。
それなのに、己のせいで死なせてしまった。守りたい笑顔はもうない。
周囲から色が消え闇に包まれる。腕の中の温もりも消えた。
弟との短い思い出が後悔の念に塗り潰される。
思い出が輝くものであればあるほど暗い後悔に苛まれる。
(俺はあの時から何も変わっていないな)
成長し強くなれたと思っていた。だが、それは思い上がりだった。精神は傷ついた子供のままだ。
夢はその事実を無慈悲に突きつける。
ソルは闇の中であの温もりを思い出すように己の細い腕を抱いた。
そのまま上下左右もわからない暗闇の世界に漂い続けるのだった。
香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。それがパンの焼ける匂いだと分かるまでに時間がかかった。
ソルは重い瞼を少しだけ開けた。倦怠感と夢の余韻で動くのが億劫だった。曖昧な意識を視線の先に集中させる。
目に映るのは暖色の照明と年季の入った天井。視界の端には紺色と飴色の物体。
背中には柔らかな感触があった。
ソルは長椅子に寝かされていた。飴色の物体は長椅子の背もたれだった。
(どうして俺は寝ているんだ)
多少の記憶の混乱を自覚したソルは現状を把握するべく頭を上げて周囲を見渡した。
「ソルさん!」
紺色の物体が動き、頭上から聞き慣れた声が降ってくる。
顔を上に向けると長椅子の背もたれからソルを覗きこむイーリスがいた。
不安気な彼女の顔を見たソルの意識が急激に覚醒した。倒れる寸前の記憶が蘇る。
ソルは倦怠感の残る体を起こした。
「イーリス、すまん。俺は倒れたんだったな」
「もう大丈夫なんですか?」
「あぁ。怠さはあるがだいぶ楽になった」
ソルは手を握っては開いてを繰り返した。若干の痺れはまだ残っている。だが、動きに問題はない。
ソルが体の調子を確認していると、イーリスの両腕が赤銅色の頭を抱きしめた。ソルの動きが止まる。
「よかったです。急に倒れるからびっくりしました」
イーリスはソルの頭に顔を寄せた。
「…すまん」
ソルは動揺する心を抑えて言葉を絞り出した。
「また体調が悪いのを隠していたんですか?」
「いや、そう言うわけでは…」
「じゃあ急に悪くなったんですか?」
詰問され始めている。イーリスの声は心配から不機嫌なものへと変化していく。
ここは下手な誤魔化しをすると面倒なことになりそうだ。
イーリスの腕の力が徐々に強まり、ソルの頭はギリギリと締め付けられている。非力な腕力は取るに足らないが、彼女には身体強化の魔術がある。使われたらソルもタダでは済まない。
青少年の健全な動揺は何処かへ吹き飛んでいた。
「…ここに来る前くらいから少し体調がおかしかった」
「痩せ我慢はしないって約束でしたよね」
「その時は取るに足らない些細な症状だったんだ。まさか急に症状が重くなると思っていなかった。本当だ」
ソルの弁明にイーリスは無言で顔を離した。彼女の顔はあまり納得していないようであった。
「まあまあ、病人をそう責め立てるものではないよ」
イーリスの後方、台所に立っていたアメリアがソルを擁護する。
「体調不良は前触れが少ないものもあるからしょうがないさ」
アメリアはこちらに背を向け何やら作っていた。鍋で煮込む音が聞こえる。
彼女の擁護が効いたのかイーリスの表情から不機嫌さが消えた。
「無理はしないでくださいね」
イーリスはそう言うと中庭への扉を開けて外へ出て行った。
窓からヴァーゴと庭を歩く姿が見える。
ソルは長椅子から足を下ろすと軽く足踏みした。足底の感覚が鈍い。分厚い靴下を履いているような感覚だった。
今更ながらフードが外れていることに気づく。手早く被り直した。
「何か食べれそう?」
アメリアは食器棚を開けながらソルに問うた。
ソルは空腹であるはずの腹をさすった。胃は空だが食欲が湧かない。
「いや、まだ無理そうだ」
「そう。でも水分くらいは摂らないとね」
食器棚から深皿を出したアメリアは鍋の中身を掬って入れた。
長椅子の前の低いテーブルに深皿とスプーンを置いた。皿には薄い琥珀色のスープが入っていた。透き通ったスープからは湯気が出ている。
「野菜から煮出したスープだよ。滋養にいいから飲んでみて」
「すまない。突然押しかけた挙句世話にまでなるとは」
「いいよ。私は病人には優しいから。それにあなたたちのパンもらっちゃったしね」
アメリアが台所を指差す。そこにはアンリの店で買ったパンの一部があった。
「昼食に頂いたわ。とても美味しいパンね。今度私も買いに行こうかな」
昼食という言葉を聞いたソルの顔が曇った。
「俺はどのくらい意識を失っていたんだ」
「大体二時間くらいよ。このまま意識が回復しないなら医者を呼ぼうかって話してたところ」
「二時間も…」
今まで毒物で意識を失ったとしても三十分以内には回復していた。二時間も意識を失うとは余程強い毒なのか、もしくは病気になってしまったのか。
どちらにしても不穏な状況には変わりない。
「彼女、とっても心配していたわよ。ずっとあなたに張り付いていたんだから」
「そうか…」
「お昼のパンもあんたの側で食べるからパン屑が」
アメリアはソルの胸元を指した。ソルが視線を下げると服と胸当ての隙間にパン屑が挟まっていた。
イーリスは文字通りソルに張り付いていたようだ。ソルの口角が僅かに上がる。
「それにしてもあんたって見た目に反して重いのね。私とイーリスちゃんじゃあ引き摺るのもやっとだったよ」
「よく言われる。どうやって俺をここまで運んできたんだ」
「イーリスちゃんが魔術で狼みたいなのを出してね。狼があんたを咥えてそこまで運んでくれたんだよ」
ソルはベルダンでの黄金の巨大な狼を思い出した。襟首を咥えられて引き摺られる自分の姿を想像し苦笑する。
「彼女は魔力の制御が難しいって言ってたけど難なく狼を操ってたね。若いのに優秀な魔術師だよ」
アメリアは水差しとコップもテーブルに置いた。
「私は表の掃除をしてるから何かあったら呼んで」
頷いたソルを残してアメリアは部屋を出た。
ソルは一度背伸びをすると深呼吸し水を飲んだ。カラカラだった口内が潤うと少しだけ気分が良くなった。
スープも少しづつ口に含む。優しい味わいが体を内部から温めた。
ゆっくりとスープを飲み干すと長椅子から立ち上がった。
一瞬だけ眩暈がする。一歩踏み出すが足元にふらつきはない。感覚が鈍い足を動かして歩んで行く。
中庭に続く扉を開けるとイーリスとヴァーゴがテーブルを囲んで談笑していた。
「ソル…兄さん」
「おや、グウェン。よく寝たね」
ヴァーゴの眼差しが親のそれとなっている。正気の時間はとっくに終了していたようだ。
イーリスは小走りでソルに近づいて来た。
「もう歩いて大丈夫なんですか」
「とりあえずは大丈夫そうだ。心配かけたな」
イーリスの顔には不安の色。
「何かの病気なんでしょうか」
「いや、それはわからない。中毒症状にも似ている。病気とは限らない」
「アメリアさんが良い医者を知っているそうです。この後行ってみますか」
「それだと今日は審問会に行く時間がなくなるぞ」
「構いません。ソルさんの体調の方が大切ですから」
イーリスの言葉に嘘偽りはない。本気でソルの体調を心配していた。
ソルとしても、この原因不明の不調を放って置く訳にはいかない。このような状態で裏社会の人間に狙われるのは危険だ。
「イーリス、すまない。言葉に甘えさせてもらう」
「いいんですよ。ソルさんが調子悪そうだと私も落ち着かないので」
微笑んだイーリスは踵を返してヴァーゴの元へ行った。
ソルは彼女の言葉を想定していたよりも自分が迷惑をかけていたのだと解釈した。
レイナの仮面を被ったままイーリスはヴァーゴに別れを告げていた。
ヴァーゴはまたおいでとイーリスの手を握る。老女の目はソルにも注がれた。
ソルは彼女に向かって軽く手を振った。笑顔のヴァーゴはそれに応えて手を振る。
室内に戻った二人はアメリアの居る表に向かう。ソルは途中で長椅子の側に置いてあった背嚢を背負った。
玄関の扉に手をかけた時、外から言い合う声が聞こえた。不穏な空気を察したソルは僅かに扉を開けて外部の様子を窺う。
小さな門扉の前後でアメリアと甲冑の男たちが対峙していた。




