90、病と事件
「十年前の冬にあなたは来ました。魔術師のように魔力を体内に有する者が稀に引き起こす病を引き起こして。この病は自身の魔力が暴走して自らを傷つける事で発症します。あなたは特に症状が酷かった」
キルジュは思い出すように目を伏せた。
「高熱が続き、治癒魔術も薬も効かず非常に治療が困難でした。命も危ぶまれる状態でしたが、徐々に暴走は治りました。しかし、暴走期間が長かったせいか、あなたは失明してしまっていたのです。この辺りの事は覚えていますか?」
「辛く、苦しかった事しか覚えていません。それもぼんやりと、ですが。気づいたら暗闇の中にいました」
「治療にあたる側も同情する程に病状は酷いものでした。あまり覚えていない方があなたの為かもしれません」
イーリスの返答にキルジュは安堵しているようだった。顔からは分からないが、声音に出ている。
「その後も度々発熱していましたが大事にはならず治療を終えようとしていた時です。あの火事が起こり、あなたは行方不明となりました。これが大体の経過ですね」
キルジュの伏せられた目が上げられた。彼はイーリスを見つめている。
「あの火事の時、あなたは誰に助けられたのですか。盲目の幼い子供が一人で逃げられるとは思えませんが」
「そ、れは、私がおばあちゃんだと思っていた人です」
「どういう事でしょう」
イーリスは今まで孤児院の先生だと思っていた人に育てられていたが、実際には別人だった事を話した。そして、その人物を探している事も。
「火事の時の記憶も殆どないんです。でもおばあちゃんが助けてくれたような気がするんです」
「出自を偽る育ての人ですか」
キルジュの瞳に一瞬剣呑な光が見えた。
「私を助けてくれるような人に心当たりはありませんか」
「ありませんね。職員関係者ならあなたを連れて行方をくらます事などしませんし」
おばあちゃんの正体に迫る証言を得られずイーリスは俯いた。
だが、直ぐに顔を上げる。
「あの、おばあちゃん、いえ、私が居た孤児院の先生は入院中に来ていましたか?」
「それは流石に覚えていませんね。基本的に研究所内は一般人の立ち入りは出来ないので来られてないかと思いますが」
「そうですか」
イーリスは再び俯いた。沈黙が流れる。
沈黙を破ったのはソルだった。
「その火事を引き起こしたアテナという人物についても聞きたいんだが」
「あの犯罪者の事ですか。私は直接遭遇してないのでまた聞きになりますが」
「それでもいい。教えてくれ」
キルジュの顔には不快感が現れる。
「奴は元々研究棟の職員だったと聞いています。しかし、他の職員とのトラブルが続き解雇されたそうです」
「元職員だったのか」
「気性の荒い人だったようですね。事件当日急に研究所に来て、黒い炎を放ったと聞いています」
「研究所には他の魔術師はいなかったのか?魔術師がいれば延焼を止められそうなものだが」
「魔術師は何人もいました。私もその一人でしたが、炎に込められた魔力が強すぎて消す事もコントロールする事もできませんでした。できたのは敷地に結界を張って周囲の民家への延焼を防いだ事だけです」
話すキルジュの声には苦々しさが含まれていた。
「強烈な黒い炎は三日経過してようやく弱まり、鎮火に至りました。何人もの職員が犠牲になりましたよ。遺体も残らず灰になってしまい、誰が亡くなったのか判別が困難でした。結局、行方不明者の数がそのまま死亡者数になりました」
「痛ましい事件だな」
「えぇ、本当に。奴の目撃情報はその火事以降途絶えています。逃亡を続けているのでしょう。あまりにも情報がないので、国外に逃げたのではないかと言われています」
ソルは改めてアテナの起こした事件の悲惨さを知った。
「アテナが事件を起こすに至った動機は何なんだ」
「それは本人しか分かりません。私は解雇された腹いせだと思っています。気性の荒い人物だったようなので」
「腹いせ、か…」
ソルは手配書に描かれていた理知的な女性の顔と事件の凶暴さが結びつかなかった。人は見かけによらないとは正にこの事だ。
「アテナの住んでいた家はまだ残っているのか?」
「残っていません。奴は名門貴族であるエーベルス家の娘でした。一族から大罪人を出したエーベルス家は没落し王都を去りました。屋敷も不吉だと取り壊されています」
「手がかりは何もないんだな」
長年逃亡している手配犯に繋がるようなものが残されているはずもなかった。
ソルはイーリスの様子を横目で確認した。
彼女は俯いたままキルジュの話しに耳を傾けている。
「奴の事を詳しく知りたいならば審問会の本部に行くといい。彼らは魔術師の犯罪者を追うのが仕事ですから、私よりも情報を持っていると思いますよ」
「審問会か」
ソルの脳裏では娼館で審問官について話すカイの姿が再生された。おっかない連中だと言う事は分かっている。
キルジュの顔から不快感が消え、代わりに探るような目となった。
「ところで、あなたの病はもう大丈夫なのですか?再発を繰り返す可能性が高い病です。生活に支障はなかったでしょうか」
話題が自分に移り、イーリスは顔を上げて微笑んだ。
「覚えている限りでは再発していないと思います。たまに熱を出す事はありましたが、直ぐに下がっていました」
「ほう、それは運がよかったですね。一応少し診察させてください。手を拝借しても?」
「あ、はい。どうぞ」
イーリスが左手をキルジュの方へ差し出す。キルジュはテーブルの向こうから手を取ると彼女の手のひらと己の手のひらを合わせた。
キルジュは目を閉じそのまま動かない。集中しているように見受けられる。
しばしの後、キルジュは目を開けた。
「最近、魔力を大量消費するような事をしませんでしたか?」
「…しました」
「急に魔力を大量消費すると体内の魔力のバランスが狂い易いのです。今あなたの体内では魔力の乱れが顕著になっています。正直、このままではいつ再発してもおかしくありません」
「そんな…」
顔を曇らせたイーリスの手を離したキルジュは、背後に立つラーレに声をかけた。
「私の部屋からあれを持ってきなさい」
「承知しました」
少年が部屋を出て行く。
ソルはベルダンでの闘いやメルンでの出来事を思い起こす。どちらも大量の魔力を消費している。あれが再発の引き金となってしまうとは。
「イーリスは大丈夫なのか」
「十年前と比べて比較的効能の高い薬が新たに開発されていますので、再発したとしても治療するのは難しくないでしょう」
「そうか。イーリス、良かったな」
イーリスはソルの言葉に頷く。安堵しているようだった。
「研究が進み、以前は対処が困難だった様々な病も根治が見込めるようになりました。長年の研究の成果ですね」
「魔術師特有の病は他にもあるのですか?」
「はい。大体は魔力の暴走で発症します。皮膚が腐食する病、体が動かせなくなる病、人格が別人のように変わってしまう病など多数あります」
「怖い病ですね」
「早期に治療できればそれ程恐れる病でもなくなりました。真に恐ろしいのは魔力がなくなってしまう病です」
「そんな病もあるのですか」
イーリスは魔力無しでは生活できない。探知に頼って生きているからだ。そんな病にかかってしまったら日常生活が困難となる。
絶対になりたくない病である。
「その病には未だ治療法がありません。そして、私はそれで魔力を失いました」
「えっ…」
イーリスはキルジュへ顔を向けた。
「魔力の流れを読み取るのは得意だったので、今でも対象に触れれば多少は診れます。しかし魔術はもう使えません」
「そんな…」
「魔術師としては終わりましたが研究者としてはやるべき事が山積みです。私のような者が今後少しでも減らせるよう治療法を確立させてみせますよ」
キルジュの声には芯が通っていた。現状に悲観せず前を見続ける彼の顔には信念があった。冷徹そうな見た目に反して熱い志を持っているようだ。
「キルジュさんは強いのですね。私も見習わないと」
呟いたイーリスをキルジュは無言で眺めていた。鋭利な視線は彼女の全てを見通すかのようだった。
扉が開く音がした。ラーレが戻って来たのだ。少年の手には細かい緑の石を繋げた腕輪があった。
「これは魔力の流れを整える効果のある腕輪です。多少は魔力の乱れを軽減できるかもしれません」
腕輪を受け取ったキルジュは椅子を立ち、杖を持つイーリスの手首に腕輪をつけた。
「差し上げますのでそのまま身につけておいてください」
「いいんですか?」
「えぇ。あなたの現状を放っておけませんからね。しかし、腕輪はあくまでお守りです。発症してしまえば何の役にも立ちません。その時は薬による治療が必要です。直ぐにここへ来てください」
「分かりました。ありがとうございます」
腕輪の感触を確かめたイーリスはキルジュへ頭を下げた。
「話しはこのあたりでよろしいでしょうか。これから患者の診察に行かなければならないので私は失礼します」
キルジュは一礼すると奥の部屋へ帰って行った。感情を表にあまり出さない冷静沈着な人物であった。
「お茶が冷めてしまいましたね。入れ直しましょうか」
にっこりと微笑んだラーレがテーブルを指す。茶と茶菓子が出された時のままの状態で並んでいる。
「いや、大丈夫だ。入れてもらった茶が勿体無い」
ソルはカップを手に取った。イーリスもソルに同意しカップに手を伸ばす。
紅茶にしては色の薄い液体は仄かに薬草の香りがした。口に含むと当然だがぬるい。清涼感のある茶には甘みもあった。
「初めて飲む味だ」
「爽やかで美味しいですね」
ソルとイーリスの感想にラーレは嬉しそうにしている。
「このお茶は僕がブレンドしたんです。滋養のある薬草を数種類入れています。それだけだと薬っぽさが出てしまうので蜂蜜も混ぜました」
それからラーレは茶菓子の方に入っている薬草の精油や研究所で栽培している薬草について楽しげに説明していた。
イーリスは菓子を摘みながら興味深そうに聞いている。
ソルも始めは説明を聞いていたが、途中からキルジュから得た情報を反芻していた。
イーリスの記憶の一部が埋められ、おばあちゃんの正体については研究所職員ではない事が判明した。混乱の中イーリスを助け出したのは誰なのか。
手配犯は元研究所職員であった。イーリスとの接点がまた増えた。
ソルは断片的であるが少しずつ確信に近づいている気がした。散らばった点と点が繋がる時が必ず来る。そう思えるだけの進展が今日はあった。
それに、これがきっかけでイーリスの記憶がもう少し戻れば事態はもっと進むだろう。
ソルは茶を飲み干すと、イーリスに視線を向けた。
彼女は好奇心の宿った表情でラーレと薬の話しをしている。
その顔には窓から差す茜色の陽光が当たっていた。一日前とは対照的な横顔だ。
彼女はこれからも傷つき、立ち止まり、そして前進を繰り返すのだろう。その果てにあるものを共に見届けたい、ソルは改めてそう思い茜色に染まる横顔を眺めていた。




