89、研究所
長い長い王宮の城壁沿いをひたすら歩き続け、目的の研究所に着いた時には昼が過ぎていた。
高い塀と門に守られた敷地の中には、巨大な球体を半分に切って地面に被せたような変わった建物があった。
途中、通行人に道を訪ねた際に説明された外観と同じだった。
門の前には門番と思しき武装した男が一人立っていた。男は長槍を肩にかけ、暇そうに空を見つめていた。
ソルとイーリスが門に近づくと、男は気怠げに目だけを動かした。イーリスの杖に目を留めた男は緩慢に口を開く。
「所長はただ今留守にしております。研究棟にご用事の方は後日おいでください。魔術や魔力の不調を感じてお越しの方は副所長が対応致しますので西門へいらしてください。尚、状況に応じて待ち時間が発生しますのでご了承ください」
まるで、紙に書かれた文章をそのまま読み上げているような抑揚のない声だった。やる気のない顔はもう二人を見ていない。
「私、多分ここで治療を受けたと思うんですが、過去の記録があるか確かめるには西門に行けばいいですか?」
イーリスの問いかけに男は目だけを動かして彼女を一瞥した。
「いいよー」
男はそう一言だけ言うと塀の左側を指差し、再び空を眺め始めた。
あまりのやる気のない態度にソルは呆れていた。この男は門番には向かないのではないか。
イーリスはぺこりと頭を下げると西門の方へ歩き出した。ソルもそれに続く。
塀の角を曲がり街路樹の下を進む。すると、表の門よりも小規模な門があった。こちらにも門番の男が一人立っていた。こちらは背筋を伸ばして立っており、周囲に目を配っている。
門番はソルとイーリスの接近にいち早く気づくと笑みを向けた。
「協会からのご予約のお客様でしょうか」
「いえ、私がここに入院していたという記録が残っていないか尋ねにきたんです」
「以前ここで治療をされた方ですか」
「多分…そうだと思います」
門番は腰に下げていた鶏卵大の鐘を手に取ると大きく振った。耳に心地よい澄んだ音が響く。
すると、門の奥の建物から一人の魔術師が出てきた。
魔術師はまだ年若い少年だった。イーリスと同年代くらいだろう。
臙脂色のローブを纏った少年は小走りで来ると杖を門に当てた。
門にかけられていた錠前が開錠され、門扉が開いた。
門番が少年に、過去の記録を見たい客だと伝える。
「承りました。こちらへどうぞ」
少年はソルとイーリスに一礼すると敷地内に招いた。
二人が敷地に入ると門と錠前は自動的に閉まる。
「詳しいお話は中で伺いますね」
少年は両側に植栽の木々が密集している通路を先導する。植栽に覆われて全容は見えないが、向かう建物は一般の家屋にも見えた。
少年が扉を開けて内部へと案内する。
そこはどう見ても一般家庭の居間であった。テーブルに暖炉、右手奥にはキッチンもある。食器棚には美しい染付けが施された美しい食器類が並べられていた。暖色系の照明が暖かい雰囲気を演出している。
「そちらにおかけください」
少年は暖炉の前の長椅子を手で指し示す。ソルとイーリスが長椅子に座ると少年が話を切り出した。
「過去の記録を参照希望との事でしたが、具体的には何年前の記録でしょうか」
「十年くらい前です。私が入院していたか確認したいのです」
「その辺りですと、残っていないかもしれません」
「火事のせいですか?」
「ご存じでしたか。当時の研究所は全焼したので、火事以前の記録は残っておりません。ここに移転してからの記録はあるのですが」
「そうですか…」
記録が残っていないという事実にイーリスは肩を落とした。
ソルはまだ諦めていない。イーリスが研究所に入院していたと言う確証を得る為には記録以外にも何かある筈だ。
「彼女はその火事の時に研究所にいたらしいんだ。当時から勤めている者はいないか?」
「あ、はい。何人かおられます」
「当時の話を聞きたい。呼んでもらえないだろうか」
「確認して参ります。ですが、先にあなた方の事情をお聞きしてもよろしいですか?」
頷いたイーリスが、おばあちゃんを探している事と手がかりとして入院していた時の情報を知りたく、入院先を調べている事を説明した。
「成程。承知しました。お名前を伺っても?」
「イーリスです」
「イーリス、さん、ですね。では少々お待ちください」
少年は微笑むと部屋の奥の扉に入って行った。
「ソルさん、ありがとうございます。記録の事で頭がいっぱいで、当時研究所にいた人の事まで考えていませんでした」
「俺もさっき思いついたんだ。イーリスのことを知っている人がいるといいな」
「そうですね。でも、覚えてくれているでしょうか。十年も前の事ですし」
「一人くらいいるだろ。あのパン屋だって覚えてたろ?」
「アンリさんですか。…確かに」
イーリスの腹が鳴った。中々に大きい音だ。
「アンリさんの事を思ったらお腹が減ってきました」
「昼はまだ何も食べていなかったな」
ソルも歩き詰めで空腹である。意識すると余計に腹が減る。
アビィもフードの中から顔を出す。当然この鼠も空腹だろう。
腹ペコの一同であるが、もうしばらく食事はお預けだ。
ソルは長椅子にもたれかかり、研究所の火事で気になった点を話し始める。
「イーリス、ばあちゃんが持ってた手配書の奴覚えてるか」
「はい。アテナ・エーベルスでしたよね」
「そいつの起こした事件って研究所の火事の事だよな。カルラが言ってたのはイーリスも経験した事件だったんだ」
「あ、王都の魔術を研究する施設を焼き尽くしたと言ってましたね。それも十年くらい前に」
イーリスはカルラの話しを思い出して、手配犯と自分との妙な接点に気づいた。
「やっぱり、おばあちゃんが手配書を持っていたのは何か関係がありそうですね」
「あぁ。ばあちゃんとイーリス、そしてこの手配犯はどこかで繋がっていそうだな」
無意味だと思えた手配書も、おばあちゃんの正体、そして居場所を突き止める手掛かりとなり得るものとなった。
イーリスはローブの内ポケットに手を入れた。折り畳まれた手配書の感触を確かめる。
「この人の事も調べてみましょう」
「そうだな。手始めにここの職員に聞いてみよう」
おばあちゃんを探す旅だったが、それにおばあちゃんの正体を探るという項目が追加され、今度は手配犯の詳細を調べるという項目も追加された。
やる事は増えたが全くの手探りよりはいい。
ソルは空腹の腹を摩りながらぼんやりとそう考えていた。
そこへ、奥の扉から壮年の男が入ってきた。少年と同じ臙脂色のローブを着ている。神経質で鋭利な目がソルとイーリスに向けられた。
ソルは長椅子に預けていた背を浮かす。
男の背後にはさっきの少年もついて来ていた。
「どうも、私はこの研究所の副所長のキルジュです」
キルジュは簡潔に自己紹介すると、まじまじとイーリスの目を見た。
「あぁ、久しぶりですね。その目、覚えていますよ」
イーリスはその言葉に歓喜の表情を浮かべる。可能性が確証へと変わったのだ。
「私はここにいたんですね」
「移転する前の診療棟にいましたよ。火事の後行方不明になっていたので、炎に巻かれて死んだものだと思っていました。まさか、こうして再開出来るとは…運命とは不思議なものですね」
キルジュの顔に変化はないが、声には隠しきれない喜びが含まれていた。
「ラーレ、お客人らにお茶をお出ししなさい」
「はい」
少年、ラーレは暖炉近くに椅子を設置すると、キッチンへと向かった。
設置された椅子にキルジュが座る。
「それで、あなたは誰ですか?彼女の盾のようですが、この国の者ではありませんね」
鋭利な目がソルを捉える。彼は顔を隠した素性の知れぬ者を警戒していた。
「俺はガルドラントから逃げて来たんだ。今は彼女を助けるために盾をしている」
「そうでしたか」
ソルの説明にキルジュは気のない返事をした。聞いておいてあまり興味はないようだ。彼の形ばかりの警戒は解けている。
ラースが紅茶と茶菓子を持ってきた。長椅子の前のテーブルに手際よく並べていく。菓子の香ばしい香りが空腹を刺激する。
だが、イーリスは空腹の事など忘れたように反応しない。彼の話しを一言一句聞き逃すまいと集中しているのだ。
代わりにアビィがフードから飛び出すだろうと身構えていたソルだったが、考えに反してアビィは出てこなかった。食べ物を前にして反応なしとは珍しい。
キルジュは視線をイーリスに移した。
「当時の話しを聞きたいとの事でしたが、どこから話しましょうか」
「全部です。私が入院してから行方不明とされるまでの出来事全て教えてください」
イーリスは斜めに向かい会ったキルジュの方へ体を向けた。真剣な眼差しとなっている。
キルジュはイーリスの夜明け色の瞳を見据えながら語り始めた。




