84、孤児院
情報屋を後にしたソルとイーリスはあてもなく路地を歩いていた。
時はもう夕刻に近い。建物の影が長く伸びている。
俯き加減のイーリスは固く口を引き結んでいた。ソルはかける声が見つからなかった。
今まで辿ってきたおばあちゃんの消息が完全に途絶えてしまった。これは期待していた分、イーリスには堪えただろう。
おばあちゃんが王都行きの船に乗ったのは間違いない。では、王都ではなく別の場所で降りたのか。もしくはルアンのようにもっと下流の街まで行ってしまったのか。
それはどれだけ考えようと答えには辿りつかない。
王都に来たのは無駄だったのか。そんな考えが頭に浮かんでしまったソルは、誤魔化すように背嚢を背負い直した。
歩き続けていると、小さな噴水のある広場に出た。広場には走り回って遊ぶ子供たちや、長椅子で談笑する中年女たちがいた。
「イーリス、少し休憩しないか。ずっと歩きっぱなしだったろ」
イーリスは小さく頷くと、ソルに導かれて噴水の縁に座った。彼女の顔は暗く、沈黙を保ったままだ。
いつもと違う主人の様子を気にしたのか、ローブのフードからアビィが顔を出し肩に乗った。尖った鼻をひくつかせている。
ソルは円な黒い瞳を見たが、心配しているのか食事を催促しているのか判断がつかなかった。
イーリスはアビィを手にのせ膝の上へ移動させた。アビィは鼻先をイーリスの手に押し付ける。
「ごめんね。今食べ物はないんだ」
沈黙を破ったイーリスの声は静かだった。
アビィは膝の上から飛び降りると周囲を散策し始めた。
小さな鼠は心配していたのではなく空腹だったようだ。どこまでも食欲に忠実である。
「イーリス、大丈夫か」
ソルはどこか虚ろな様子のイーリスに話しかけた。
「…はい、言いたいところですが、正直落ち込んでいます。心のどこかで、ここまで来たんだからおばあちゃんに会えるんじゃないかって思ってたんです」
イーリスは朱く染まり始めた空を仰いだ。
「でも、ダメでした」
彼女は僅かに微笑んだが、その横顔は泣いているように見えた。涙は流れていないが、空虚な心は泣いていることだろう。
「…俺が言っても気休めにもならないと思うが、おばあちゃんの情報は必ずどこかにある。王都に来ていないなら船着場で聞き込みをしたらいい」
辛さを押し込める様な彼女の表情を目の当たりにしたソルの口からは自然と言葉が溢れていた。
「王都周辺の街や村をあたってもいい。もっと下流の街に行くのもアリだな。捜索する範囲は広いが一つずつ確認して行こう」
イーリスの心が少しでも軽くなるならば、負の感情から離れられるならば。一時の希望でも都合のいい解釈でも何でもいいから彼女を助けて欲しい。
ソルの思いが言葉となって流れ出る。
「人は忽然と消えたりはしない。痕跡が残っているはず。それを二人で見つけるんだ。おばあちゃんとまた会える。必ずだ」
イーリスはいつの間にか目を閉じてソルの言葉を聞いていた。そして彼女は喋るソルの肩に頭を寄せた。ソルからは俯いた彼女の表情は見えない。
「…ソルさんは優しいですね」
ぽつりと呟いた声は心なしか軽くなっていた。
ソルは今まで生きてきた中でかけられた事のない言葉に、戸惑いよりも恥ずかしさを覚えた。饒舌だった口が動きを止める。
「ありがとうございます。危うく地の底まで落ち込んでしまうところでした。そんなことしている場合ではないのに」
イーリスはもたれかかったまま顔だけ上げた。柔らかな眼差しはソルの顔へと向けられている。
「最近、ソルさんに助けてもらっばかりですね」
「そうか?」
「そうです。一緒に居るのがソルさんで良かったです」
朝日のような眩しい微笑みを向けられたソルは心臓が跳ね上がるのを感じた。
それと同時に多数の視線も感じていた。ふと顔を正面に戻すと、周辺で遊んでいたはずの子供たちが一列に並んでこちらを凝視していた。
子供たちはソルに気づかれたと分かると一目散に散って行った。
子供の一人が“ちゅーすると思ったのにー”と言ったのをソルは聞き逃さなかった。
見せ物になっていた事に気恥ずかしさを感じたソルは、それとなくイーリスの姿勢を正し肩から離した。
「そろそろ行こう。と言っても当てはないが。とりあえず今日の宿を探そう」
立ち上がったソルに続いてイーリスも腰を上げる。
夕刻を知らせる鐘の澄んだ音が響き渡った。近くに鐘楼があるのか、音が近い。
鐘の音を聞いたイーリスが歩みを止めた。その顔は衝撃を受けたようだった。
イーリスの変化に気づいたソルが声をかける。
「どうかしたのか」
「この鐘の音、聞いたことが…」
「うわっ!何じゃ!」
彼女の言葉は突如として湧いた老人の叫び声に掻き消された。
叫び声の先には紙袋を両手に抱えた小柄な老人が立ち止まっていた。困惑した様子で足元を見ている。
そこには尖った鼻をひくつかせた鼠が纏わりついていた。
「あいつ何やってんだ」
呆れ声のソルは急いで老人の元へ駆け寄った。アビィを片手で掴むと老人から引き剥がした。鼠は短い手足をバタつかせて抵抗してる。
「うちの鼠がすまない」
ソルが謝罪すると老人は困惑が残る顔に笑みを作った。
「いいんじゃよ。それにしても妙な鼠じゃの」
「よく分からない生物なんだ」
老人は精一杯手足を動かすアビィをまじまじと観察している。アビィは老人、正確には老人の持っている紙袋へと手を伸ばしているように見える。
それに気づいた老人が紙袋に手を入れた。
「もしかして、これが欲しいのかの」
老人が紙袋から出したのは楕円形のパンだった。アビィの動きが激しくなる。
「あっ、おい、じっとしてろ」
「ふむ、お腹が減っておるようじゃ」
老人はパンを半分に千切るとアビィに与えた。
アビィは自分の体格と同じサイズのパンを両手に抱え猛スピードで食べ始めた。
「ほっほっほ。よく食べる鼠じゃな」
ソルが礼を言うと老人は朗らかに笑い去って行った。
パンを抱えたままのアビィを持ってイーリスの元へ戻る。彼女は立ち尽くしたまま思考の海に浸かっていた。
「どうした?さっき鐘がどうとか言ってたよな」
ハッとした様子のイーリスが口を開こうとしたが、鼻腔をくすぐるパンの匂いに、また衝撃を受けたような顔になる。
イーリスはアビィの抱えるパンを少し千切ると口に入れた。咀嚼して飲み込む。
「これは…ソルさん、このパンはどこで?」
「通りすがりのじいさんからもらった」
イーリスの目には懐かしさがあった。
「行きたいところができました」
「どこだ?」
「私のもう一つの故郷です」
イーリスは広場から放射状に伸びる路地の一つに迷う事なく歩んで行った。
ソルは彼女に追従する。ついでにパンを食べ終えたアビィを定位置のフードにそっと入れた。
「故郷ってことは孤児院か」
「はい。さっきの鐘の音で思い出しました。毎日お昼と夕方に鳴るんです。この区画を探知してみたら覚えのある建物がいくつかありました。あの頃と変わっていません」
「王都の孤児院にいたのか。思い出したんだな」
「あやふやだった小さい頃の記憶が少し鮮明になりました」
イーリスの澱みない足取りは早い。しかし、顔には喜びではなく複雑な感情が張り付いていた。
「でも、もう孤児院には誰もいないかもしれませんね。古い小さな家だったので壊れちゃってるかもしれません」
「それでも、育った場所には変わりない」
「そうですね」
夜明けの瞳を前に向けたイーリスの口角が上がった。
枝分かれした路地を進むと民家に混じって小さなパン屋があった。イーリスはパン屋の前で立ち止まる。
「さっきアビィが食べていたパンはこの店のです。たまにおばあちゃん…いえ、その頃は先生でしたね。先生が買ってくれてたんです。とっても美味しいんですよ」
「思い出の味か」
ソルは窓硝子から内部を眺める。子綺麗な店内は照明が消されており暗い。商品であるパンは残っておらず売り切れのようだ。
イーリスは再び歩みを再開させた。
少し進むと老朽化した塀と柵に囲まれた一軒の民家に到着した。周囲の民家と比べてもかなり古い。塀には穴が空いており、敷地内の景色が見える。歪んだ門は錆びて蝶番が外れていた。
人の気配はない。
イーリスが門を押すと鈍い金属音が発生し、錆がパラパラと落ちてくる。
ソルも門を潜った。内部には白い小さな家とささやかな庭があった。家も老朽化が進んでおり、やや傾いている。庭は草で覆われていた。伸び放題であるが、一区画だけは綺麗に整地されている。
家までと整地されている部分までは草が倒されており人が往来した形跡があった。
「あの時と同じ…」
イーリスは草を踏み分けて家の方へ歩いて行った。
「前はここに畑があったんです。あっちでは洗濯物を干してて、よく手伝いをしていました」
歩きながら記憶を辿るイーリスの言葉にソルは頷いていく。
家の前まで来たイーリスは扉に手をかけた。しかし。施錠されており開くことはなかった。
「完全に無人というわけではなさそうだな」
イーリスは集中し、魔力による探知を開始していた。家の内部を探知しているようだ。
ソルは家に程近い整備された区画に行ってみた。長方形に整地されたその場所には一つの石が置いてあった。四角の石には花輪がかけられている。
それは墓石だった。墓石には名が彫られていた。花輪がちょうど名を隠している。
ソルが花輪に手を伸ばした時、背後から探知を終えたイーリスがやってきた。
「中もあまり変わっていませんでした。懐かしいです。…それは何ですか?」
「墓のようだ」
「誰のでしょう」
花輪を上に持ち上げると刻まれた名が現れた。
「アデリナと書かれているな。ん、アデリナって…」
ソルの背後から息を呑む音が聞こえた。振り返るとイーリスが青ざめた顔で杖を握りしめていた。
「…アデリナは…おばあちゃんの名…です」
ソルの背筋に嫌なものが流れる。もう一度墓石の名を確認する。そこには確かにアデリナと彫られていた。
花輪を戻したソルは、努めて平静に最悪の事態を否定する。
「おかしいぞ。情報屋はばあちゃんはここに来ていないと言った。だからここにばあちゃんの墓があるのはあり得ない。同名の別人じゃないか」
「そう、かもしれませんが…」
「近所の人に墓の事を聞いてみよう。事情を知っているかもしれない」
ソルは血の気が引いて漂白されたイーリスの手を引いてこの場から離れた。力ない彼女の体はソルに引っ張られ、力ない人形のようについていく。
歪んだ門から路地に出ると周囲に人がいないか見渡す。しかし、生憎と誰もいない。仕方なく来た道を逆行してみるとパン屋前に女がいた。
女はパン屋に入るところだった。ソルは急いで女を呼び止めた。
「待ってくれ!少し尋ねたいことがあるんだ」
扉に手をかけた女がソルとイーリスの方を向いた。壮年のふくよかな女だった。
「どうしたんだい?パンならもうないよ。明日またおいで」
柔らかな笑みの女は、ソルたちをパンを買いに来た客だと思っているようだった。口ぶりからしてこの女はこの店の者らしい。
女の声を聞いたイーリスが暗い顔を上げた。
「アンリさん…?」
「おや、見ない顔だけど私の事を知っているのかい」
後ろにいたイーリスがソルの隣に並ぶ。
「…私、イーリスです…覚えていますか」
女はイーリスの顔を見つめた。何か思い出しているようだったが、パッと弾けたように笑った。
「覚えているよ!孤児院の子でしょ。みんなでパンを買いに来てくれてたね」
パン屋の店主、アンリの言葉にイーリスの顔が少しだけ明るくなった。
「大きくなったねぇ。里子に出されたと聞いてたけど、元気にしていたかい?今はどこで暮らしてるの?その目はどうしたんだい?前は髪と同じ黒だったでしょ」
「あ、えーといろいろありまして…」
矢継ぎ早なアンリの質問にイーリスは言い淀む。アンリは彼女の返答を待たずに会話を続けた。
「あら、急にたくさん聞いちゃってごめんなさいね。里子に出た子が戻って来るのは珍しいから、つい聞きたくなっちゃって」
「いえ、あの…おば…先生は…」
不安気に話すイーリスを見たアンリは悲痛な面持ちとなった。
「アデリナさんね。あなたたちも会いに来たんでしょう。残念だったわね。三ヶ月前に亡くなられたの。
風邪をこじらせてね。高齢だったでしょ。あっという間だったわ」
アンリは顔に手を当ててアデリナの死を悼んでいた。
一方、ソルとイーリスは彼女の言葉を理解するのに少々時間がかかっていた。
頭の整理がつかないままのソルはアンリに質問する。
「亡くなったアデリナとはイーリスの面倒をみていた先生で間違いないんだな」
「もちろんよ。あの孤児院はずっとアデリナさん一人で管理していたんだから」
これはどういうことか。ソルは想像していなかった事態に困惑していた。
それはイーリスも同じだった。いや、同じではない。彼以上に衝撃を受けていた。
おばあちゃんであるアデリナはずっとここの孤児院に居たのだ。ではイーリスと共にいたおばあちゃんは一体誰なのか。
自分が信じていたものが根底から覆される事実にイーリスは半ば放心状態になっていた。
そんなソルたちの様子を見たアンリは気の毒そうにイーリスの肩に手を置いた。
「育ててくれたアデリナさんが亡くなって辛いでしょう。孤児院の後継者が決まるまでは自由に入れるからまた来なさい。アデリナさんも喜ぶわ」
放心したままのイーリスは頭を縦に振るしかできなかった。
沈み行く日が最後に鮮烈な朱の光を放つ。朱と影に二分された王都。イーリスは濃い影の中にいた。おばあちゃんと過ごした記憶が不明瞭な影に落ちていく。
出口の分からない闇の帷が迫っていた。




