閑話:イーリス
冷んやりとした空気が残る早朝に黒髪の少女が目を覚ました。開かれた目は夜明けの空を彷彿とさせる複雑な色合いをしている。
彼女、イーリスはいつも通りの時間に起きた。目が見えなくとも空気感で朝である事は把握できている。
手を伸ばしてベッドに立てかけてある杖に触れた。室内を探知するが、彼女の他には誰もいない。
枕元ではアビィが丸まって寝ている。起きる様子はない。これはいつもの事だった。この不思議な鼠は朝食時にしか起きない。
静かにベッドから降りたイーリスは、薄い夜着から普段着の長袖ワンピースに着替えた。紺色のローブを羽織り、おばあちゃんの鏡台に座る。
鏡には寝癖をつけた少女が映っている。その顔は彫像のように無表情だった。
櫛を手に取ると髪を整える。長い黒髪がサラサラと流れていく。顔の右側面の一房の白髪部分だけはやや髪質がごわついている。櫛が引っかかるが丁寧に解く。
身支度を整えたイーリスは杖を手に寝室から居間へ移動した。カーテンを開けると柔らかな陽光が室内を照らす。
イーリスは木の扉を開けて外に出た。澄んだ空気が肌を撫で、深呼吸をすると頭がすっきりと冴えてくる。
小さな石造りの家の周囲には白い花が咲き乱れていた。薄っすらと漂う朝靄の中で群生した花は神秘的な風景を演出している。
この鬱蒼とした森の中で、ここだけは切り開かれた空間になっていた。家を中心として花畑や小さな畑に囲まれている。
家の裏手に周ると、軒下に大量の薪が積まれていた。イーリスは薪を持てるだけ抱えると家の中に戻った。
暖炉に薪を放り込み、木の皮を丸めた物に火打石で点火する。この火打石は魔力が込められており、簡単に着火させる事ができる。
薪に燃え移った炎がイーリスの体に熱を与える。火力が上がった事を確認した彼女は暖炉内のフックに鍋を吊り下げた。
鍋の中身は昨日作った干し肉と乾燥した茸のスープだ。単純な料理だが、彼女はこの味が好きだった。
スープを温めている間に水を汲みに行く。
杖を椅子に置いて、台所にあった桶を両手で抱えた。イーリスは迷う事なく家の外へ出る。
花畑を横切り、獣道へと進む。毎日通る道だ。杖が無くとも体が道を覚えている。
危なげなくしっかりとした足取りで歩んで行く。
獣道を抜けると川に出た。森を流れる川はいつもと変わりないせせらぎを奏でていた。
イーリスは河原の石に注意しつつ川に近づいた。小さい頃はこの川に何度も落ちたものだ。その度におばあちゃんに助けてもらっていた。
未だ帰らない家族を思ったイーリスは、少しだけ目を伏せると川辺にしゃがみ込む。桶に清流の水を汲んだ。細い指に冷たい水がかかる。
いつもと変わらない日常。
のはずだったが、今日は何かが違っていた。水を汲む手が止まる。
しかし、何が違うのかは分からない。
妙な胸騒ぎがする。神経を耳に集中させたが周囲の音はいつもと変わらない。
魔物が近くに来ているのか。それにしては静かだ。
魔物除けの結界はまだ維持されている。普通の魔物は入って来れない。
ならば獣か。鹿や猪が水場に来る事はあった。今回もその類いかもしれない。
どちらにせよ杖がないと詳細が把握できない。
イーリスは水を汲み終えると、いつもより帰路を急いだ。水が溢れるが気にしない。
開け放したままの扉から室内に入る。桶を台所に置くと真っ先に杖を握った。
集中して探知範囲を広げる。何か、何かが居るはずだ。
(もっと、もっと…)
魔力の流れを操り探知範囲を川の方まで広げた。
すると、動くものがあった。この生命反応は。
(これは…人…!)
閉じていたイーリスの目が見開かれた。彼女の胸の中で鼓動が高まる。無表情だった顔に僅かな笑みが浮かんだ。
日々募る不安と孤独の中で、初めて一条の希望が差し込んだ。
探知された人物はこちらへ来ているようだった。恐らくこの家へ来るだろう。
イーリスは扉の鍵を閉めた。
危険なこの森に来るのは大抵魔物の素材を狙った密猟者だ。稀にしか来ないが彼らは粗暴で、この家を見つけると何かしら略奪に来る。その度におばあちゃんが蹴散らしていた。おばあちゃんが不在の時はミミワを呼んでいる。ミミワを見るとみんな逃げていくのだ。
この人物もその類いかもしれない。それでも、イーリスはその人物に頼るしかない。恐らくこれが最初で最後の好機。脅してでも協力してもらわねばならないのだ。
もう時間はあまり残されていない。
寝室の扉の奥からカリカリと引っ掻く音が聞こえた。
ハッとしたイーリスが扉を開けるとアビィが飛び出してきた。朝食の催促をしている。自分の腹も空腹を訴えていた。空腹では考えも纏まらない。
謎の人物が来る前に朝食にしなければ。
イーリスは急いで桶の水で布巾を濡らしてテーブルに置いた。火かき棒で暖炉から鍋を布巾の上にのせる。
じゅう、と鍋が音を立てた。蓋を開けると煮詰まったスープの匂いがした。水差しの水を追加で入れ、大きな木のスプーンで掻き混ぜる。
スプーンについたスープを指先につけ味見をした。
「いい感じ」
今日初めて発せられた鈴のような声には喜びと高揚感、そして少しの不安が混じっていた。
皿に保存用の硬いパンとスープを盛ると、アビィをテーブルにのせる。
小さな鼠は皿に突進すると猛烈な勢いで食べ始めた。
イーリスは食事の準備をしながらも例の人物の探知を継続していた。
今、その人物は家の近くまで来ている。警戒しているのか、はたまた様子を窺っているのか、一定の距離を保って近づいて来ない。
イーリスはパンにスープを染み込ませて柔らかくなったところで皿に口をつけ一気に流し込んだ。おばあちゃんがいたら間違いなく注意される食べ方だ。
味わう間もなく嚥下すると空になった食器を台所へ置く。恐るべき早さで食べ終えたアビィの皿も回収して重ねる。
腹が満たされたイーリスはここへ来る人物との交渉をどうするか考える。
交渉を有利に進めるには侮られない事が重要だとおばあちゃんが言っていた。だが、イーリスは魔術師と言えど、まだ十代で、女で、おまけに小さい。これは全て侮られる要因になると教わっていた。
ならばどうするか。
(より不気味で、より得体の知れない者になればいい。正体の分からない者には自然と凄味がでるのさ)
おばあちゃんの言葉が脳内に反芻される。
イーリスは真っ先に“黒い森の魔女”の事を思い出した。あの童話の魔女は冷酷で不気味で恐ろしい。
(魔女を真似みれば…)
そう考えたイーリスはローブのフードを目深に被った。これなら相手から顔が見えない。
声ももっと不気味さを感じるものへ変えなければならない。
「あー、あー…あー」
喉に手を当て、普段の声から低い抑揚のない声に変化させる。
「よし、こんな感じかな」
満足したイーリスの探知に動きがあった。例の人物が家に近づいて来たのだ。
イーリスの心臓が跳ねた。いよいよ彼女の命運を握る人物との対面だ。
扉から離れた室内で佇み、じっとその時を待つ。
(大丈夫、どんな人だって交渉してみせる)
イーリスは杖を握る手に力を入れる。
扉が叩かれた。
テーブルにいたアビィが床に飛び降りて暖炉の前に転がった。
イーリスが第一声に迷っていると、疲労感の濃い声が聞こえてきた。
「すいません、道に迷ってしまって…食料が尽きたので少しだけ分けてもらえないだろうか…」
ならず者のような密猟者を想像していたイーリスはその弱々しい声音に首を傾げた。
警戒を解かせる嘘かもしれないが、声は嘘をついているように思えなかった。密猟者でなければ、本当に迷い人なのか。
だが、扉の向こうの人物は腰に剣を装備している。体格はイーリスより圧倒的に大きい。この距離であれば、探知に集中しなくとも姿形は把握できる。
密猟者でなくとも警戒するに越した事はない。
「もう三日何も食べていないんだ…」
思考中のイーリスの耳に悲壮感漂う声が入って来た。つい同情したくなる程辛そうである。
これは哀れな迷い人の可能性が濃厚ではないか。迷い人ならば上手く交渉できるかもしれない。緊張していた肩の力が抜けた。
しかし、いつでも捕縛できるように警戒は継続しておく。
細く息を吐いて魔女になりきる。
「どうぞ、お入りください」
イーリスは魔術操作で扉の鍵を開けた。彼女の今後を賭けた交渉の場が開放される。
程なくして扉を押して一人の男が入って来た。彼女の思惑など何も知らずに。
これが、二人の旅路の始まり。




