82、川下り
船は渓谷に挟まれた川を悠然と下って行く。川面は穏やかそうに見えるが、川の流れは速かった。船の速度も速い。
荒々しい渓谷の岩壁のあちこちから水が漏れ出しており、細い水の流れが出来ている。頭上から降り注ぐ日の光が水滴に反射して美しい景色を作り出していた。
ソルは中々見ない光景に周囲を見回していた。
川幅はかなり広いが、川面から岩が頭を出している場所があり、舵取りを間違えると船は岩に叩きつけられて大破するだろう。
船頭は慣れた様子で船尾の櫂を左右に動かしている。川の流れに乗りながらも岩を難なく避けていた。
揺れはあるが、許容範囲であった。
ソルは慣れない揺れに身を任せている。隣のイーリスはルアンと楽しそうに話していた。
「ルアンさんはいろんな国を旅してるんですね」
「まぁ行ける範囲でね。東はオーリアのちょい向こうまで、西はハルバハールまでくらいしか行けてないけわ」
ルアンは曇った眼鏡の奥で遠い目をしていた。
「北の山脈を越えて向こうの国にも行ってみたいけどあそこは魔物の巣だからね。“渡り”に協力してもらわないと無理だよねー」
「“渡り”って何ですか?」
「あぁー。“渡り”って言うのはね魔物の生息域で旅をしながら生活している人たちの事だよ」
「そのような方々がいるんですね」
「どの国にも属さず、俗世から切り離された厳しい土地で生活するって凄い事だよね」
イーリスは頷く。彼女も魔物の生息域である森で暮らしていたが、家から遠く離れることはなかった。危険な土地をずっと旅し続けるのは相当な知識と経験がないと出来ない事だ。
“渡り”は魔物の生態にかなり詳しいのだろう。
「ねぇ、あなたの事も教えてよ」
「私のことですか」
ルアンが興味の目をイーリスに向ける。イーリスはポツポツと自分の事とおばあちゃんとの暮らしを話した。森から来たことは伏せている。そして、今おばあちゃんを探していることも話した。
相槌を打っていたルアンは徐々に神妙な面持ちとなる。
「おばあちゃん探しの旅か。王都には情報屋がいるから訪ねてみてもいいかもね」
「情報屋ですか」
「今もそこに住んでるかは分かんないけど、場所教えとくね。変な人だけど、情報の精度は確かだよ」
ルアンは懐から紙を取り出すと情報屋とやらの居場所を記入した。その紙をソルに渡す。
ソルが紙に目をやると、大雑把な地図が描いてあった。
「おばあちゃんにきっと会えるよ」
ルアンはイーリスにニッと笑いかけた。イーリスは彼女の優しさに嬉しそうに微笑んだ。
話している内に船は峡谷を抜け、森林に囲まれた緩やかな大河へ入った。
「よし、ここからだ。行くぞ!」
船頭が大きな声で客全員に呼びかけた。すると、ソルとイーリス以外の客は皆手近な物や船の縁を掴んだ。ルアンも例に漏れない。
ソルが疑問に思うよりも早く船が速度を上げた。勢いでソルとイーリスは後ろに転がる。尋常ではない速さだ。イーリスに潰されたアビィの小さな悲鳴が聞こえた。
「掴まってろって言っただろ」
転がっている二人を見た船頭が呆れた声を出す。
揺れと風圧の中、ソルが体を起こす。フードが飛ばないよう片手で押さえる。
船の外の景色が信じられない速度で遠ざかって行った。これは馬の全速力よりも速いかもしれない。船の船首は推進力により浮いている。
イーリスは体を起こせずに左右に転がっていた。ソルが手を貸してようやく起き上がれた。長い黒髪が大きく翻る。
「よく分からないけど、なんか凄いことになってますね」
体が大きく揺れていても遊具で遊ぶ子供のようにイーリスは楽しそうだ。
「この状況を楽しめるなら船乗りにもなれそうだね」
荷物に顔を伏せていたルアンが半笑いで呟いた。
左右に揺れが続いていたが、途中から上下の揺れも加わった。徐々にソルの平衡感覚がおかしくなっていく。言いようのない気持ち悪さが胃を揉んでいた。殆ど船に乗る機会のなかったソルには過酷過ぎた。
ソルは青ざめた顔でイーリスに視線をやる。彼女はどんなに揺れても楽しそうなままだ。何か特別な平衡感覚を持っているに違いない。
「のろまな定期船を追い越すぜ!」
絶好調の船頭が、この船の何倍も大きい船に向かって腕を突き上げている。
ゆっくりと走行する定期船を猛スピードで追い越し爆走する。
この辺りから川を行く船が増えてきた。船頭は爆走する船を巧みに操り他の船を追い越す。
揺れが更に大きくなり乗客の大半が青い顔をしていた。
ソルは胃から込み上げるものを必死で抑え、この船路が早く終わることを心から望んだ。
王都近くの船着場に着いた時にはソルは満身創痍であった。足元はふらつきおぼつかない。体は強張り、あちこちが痛い。込み上げる嘔吐感を我慢し顔面は蒼白だった。
対するイーリスは揺れで腰や尻を打ち、やや痛そうにしているが元気そのものであった。
他の乗客はソルよりマシな状態であるが、疲労感が漂っている。
イーリスは船に残っているルアンに手を振る。女商人も青い顔で手を振り返す。
あの船にまだ乗らないといけないとは。ソルは密かに同情した。
船は船着場から離れるとまた爆走して行った。
「かなり早く着きましたね。流石一番速い船でした」
「…そ、そうだな」
ソルは掠れた声で返答する。
イーリスの言うように恐るべき短時間で到着している。朝出航した定期船を追い抜き、僅か数時間でここまで来た。心身を犠牲にしたが、これはとんでもない時間短縮である。
ちなみに、ベルダンから王都までは定期船だと半日かかるらしい。陸路だと途中迂回が必要なポイントがあるようで、馬でも三日かかるとのことだ。
如何にこの船路が狂っていたかよく分かる。あの船にどのような魔道具が搭載されていたのかは不明だが、きっと高性能な物なのだろう。
ソルはふらふらと歩き出した。船着場からは緩やかな上り坂が続いている。周囲は草原でのどかな風景であった。
「ソルさん、大丈夫ですか?」
明らかに動きがおかしいソルに対しイーリスが心配していた。
「あぁ、大丈夫。少し船酔いしただけだ」
「凄く揺れてましたもんね」
「イーリスは平気そうだな」
「はい、私はこの通り元気です」
イーリスは脱力しているソルの腕を取ると、自分の首の後ろを通し反対の肩にかけた。
ソルは彼女が何をしているか分からなかった。
「イーリス?」
「ソルさん、私が支えますから寄りかかっていいですよ。こっちの方が歩き易いと思います」
イーリスの顔は頼ってくれと言わんばかりの自信満々な表情となっていた。
思わずソルは苦笑した。自分の胸までしかない少女に体重を預けたらどうなるか。それは火を見るより明らかだ。
「気持ちはありがたいが、そうするとイーリスごと倒れてしまいそうだ」
「大丈夫ですよ。ほら、どうぞ」
イーリスの自信がどこから湧いてくるのか不思議であるが、少しだけ悪戯心が芽生えたソルは体重の半分程を預けてみた。
「ゔっ」
イーリスから潰れた声が漏れる。彼女の足はソルの体重を支えきれずに大きくふらつく。それでも必死に立て直そうとしている。
健気に頑張るイーリスの姿を見たソルは彼女が倒れる前に体を元に戻した。
「重かったろ。俺は見た目よりかなり体重が重いんだ」
「想像以上でした。以前、おばあちゃんに同じ事をした時は支えられたんですけどね」
そう言うイーリスの手はまだソルの腕を離さない。
「あ、身体強化をしたら余裕ですよ」
「一日三秒までだろ。一瞬で終わるな」
「そうでした」
イーリスは残念そうに腕を離した。
ソルは腕を彼女の肩から下ろすと大きく伸びをした。いつの間にか酔いが軽減している。
「心配するな。もうだいぶ回復してきた」
「よかったです。でも辛い時は言ってくださいね。約束ですよ」
「わかった。約束する」
イーリスの目にはやや疑念が残っている。娼館での闘いの後に重傷であることを伏せて死にかけたせいか、彼女はソルの大丈夫、 心配するなと言う言葉を疑っている節がある。
ソルはわざと足早に歩き、回復した事をアピールした。後から付いてくるイーリスの顔が疑念から微笑みに変わった。
緩やかな上り坂の頂点に着くと、穀倉地帯を通る道の先に長大な城塞が見えた。今までの街とは比べ物にならない程の大きさの城塞。あれが王都であった。
城塞の上には等間隔で尖塔が並び、見張りの騎士団が出入りしているのが見える。大きく開いた城門では多くの人々が行き交っていた。
「王都が見えるぞ」
「早く行きましょう」
ソルの言葉にイーリスの歩調が早まる。おばあちゃんに会えると期待し彼女の心は浮き足立つ。
追い越されたソルはイーリスの後を追う。
ベルダンの一件で王都を根城としている裏社会の人間に目をつけられている可能性があるので、奴らの縄張りに入るような真似は本当はしたくない。しかし、おばあちゃんを探す為には入らねばならない。
大事にならないよう祈るしかない。
前方で黒髪を揺らす少女を見ていたソルはふとある事を思った。
イーリスとの旅はおばあちゃんを探す事が目的である。では、目的であるおばあちゃんと会えた、その後は。
イーリスはおばあちゃんと森へ帰り、自分は晴れて自由の身。何にも縛られずに自由に生きて行ける。それはずっと望んでいた事のはずなのに、素直に喜べない。
それは何故か。人生で初めての自由に恐れているのか。それとも、今後一人で生きていく事への不安か。
ソルの心に明確な答えは見出せなかった。考えを振り払いイーリスの隣に並ぶ。
(今は目の前の問題に向き合うべきだ)
堅牢な城塞を見上げたソルはおばあちゃん捜索に意識を切り替えた。
次第に増える人々の往来の波に乗って二人は城門へと足を踏み入れる。




