72、マグノリア
ソルが目を覚ましたのは昼を少し過ぎた頃だった。悪夢を見ていたような気もするが、今回はしっかりと眠れていた。体の倦怠感が軽減している。
横に目を向けると隣の寝台は空だった。周囲を見回すがイーリスの姿はない。ルーディの所へ行っているのだろうか。
眠気が無くなると今度は口渇と空腹感が襲ってくる。体を起こし、窓辺の床頭台に置いてある水差しから直接水を飲んだ。口の脇から水が溢れ、体を濡らすが気にせず喉を潤す。
満足するまで飲んだソルは再び寝台に横になった。
頭の中では昨日の出来事が流れていく。様々な事が起こり過ぎて整理できない。
ソルは左脇腹に手を当てた。獅子のような男の鋭利な爪の感触が蘇る。
闘争の中でしか生きられない哀れな獣。それはソルにもありえる未来。
「俺は違う…」
ソルの呟きは静かな病室に消えていく。
頬を優しい風が撫でる。部屋の窓が少し開いていた。窓の向こうには白い花を咲かせた木が茂っている。微かに甘い香りも漂っていた。
ソルはささくれ立ちそうになる心が穏やかに落ち着くのを感じた。
廊下から一人の足音が聞こえた。ソルが部屋の入り口に目をやると、杖を手にした看護婦が入って来た。ハンナだ。
「あら、お目覚めでしたか。ご気分はいかかでしょう?」
「多少は良くなった気がする」
「薬は完全に抜けたようですね。顔色も戻ってきたようで。本当、回復力が桁違いですこと」
ハンナは柔和に微笑みソルの傍らに立った。すると、彼の胸に手を置いた。
「これからすることは先生には内緒にしてくださいね」
少しだけ艶っぽく笑うハンナ。ソルは何事かと戸惑う。
ハンナの手がソルの胸に密着すると、彼の体が淡い光に包まれた。彼女の手から熱が広がり、ソルの体が熱を帯びた。だが、その熱は心地よいもので身体が軽くなるのを感じていた。倦怠感や疲労感も徐々に消えていく。
「こんなものでしょうか」
ハンナの手が離れると光と熱が消えた。ソルは軽くなった身体を起こした。肩を回して腕を動かす。
「さっきの怠さが嘘みたいだ」
思わず感嘆の声が漏れる。
「治癒魔術を施しました。これでもっと早く回復するはずですよ」
話すハンナの表情からは心なしか疲労の色が見える。
「ありがたい。でも、どうしてここまでしてくれるんだ?治癒魔術は負担が大きいようだが」
ソルは純粋な疑問を彼女に投げかける。ハンナは微笑むが目には一抹の翳りがあった。
「私の末の妹はあの違法な娼館に捕らわれていたのです。あなた方のお陰で助け出す事ができました」
ソルは言葉に詰まった。地下で見た虚な少女たちの中にハンナの妹がいたとは。
「家出同然で出て行った妹ですが、こんな形で再会するとは思いませんでした。これから長い治療が必要になりますが、生きていてくれるだけで嬉しいのです。これはほんのお礼です」
ハンナの微笑みの中の翳りは無くなっていた。
「…俺はただイーリスを助けに行っただけだ。彼女たちを救ったのは騎士団長だろう」
「そうかもしれませんが、あなた方が館の最大戦力を削いだのは事実です。経緯はどうあれ、妹が助かった要因の中にあなた方の存在もあるのです」
娼館でソルはシャズや警護の者を、イーリスは影の魔術師を退けている。確かに主戦力を削いではいるが、騎士団長の乱入がなかったら危なかった。
「団長もあなた方の事を気にかけていましたよ。騎士団関係者以外で団長が他人を気にかけるのは稀です。それだけあなた方の功績が大きかったという事ですよ」
「それは光栄だ。こちらも団長殿には礼を言わねばならないな。命を救われた」
「それなら、是非本人に伝えてください。鎮圧が終わったら診療所に来られると思いますので」
ハンナは言い終えるとにこやかに退室して行った。
部屋に再び静寂が訪れる。ソルはベッドから足を下ろし、立ち上がってみた。ふらつきもなくしっかりと立位を保持出来ている。
昨夜まで失血死寸前だったとは思えない体の調子に、ソルは治癒魔術の効果を深く実感した。
改めて自分の身体を見下ろしてみる。包帯だけの上半身に丈が短い病衣を纏った脚が見える。腹部以外の傷にも丁寧に包帯が巻いてある。
下に向けた視線の端に見慣れた物が映り込んだ。寝台の下からはみ出ていたのは慣れ親しんだ双剣だった。
ソルが屈んで寝台の下を確認すると、籠の中に服以外の装備一式が入っていた。皮の胸当てや手甲に付いていたはずの血液は綺麗に拭き取られている。これもハンナがしてくれたのだろうか。
ソルは双剣を取り出すと、一本は枕の下にもう一本はシーツの下に忍ばせた。枕からは柄が出ているが気にしない。これは念の為、だ。
あの視線の主はまた来る、そう思えてならなかった。寝台に横になったソルは、冴えてきた頭でこの街に来てからの事を回想する。すると、一つ一つの小さな違和感が繋がっている事に気づいた。
ソルの顔に険しさが宿る。纏わり付いた影はまだ消えてはいない。
診療所の倉庫を間借りした簡易的な私室に、ルーディとイーリスがいた。テーブルを挟んで向かい合っている。テーブルには白い粉が入った小瓶があった。
「ふむふむ、そうしたらやっぱり君は白木蓮を摂取したんだね」
「はい。あの人たちが言うにはそうみたいです」
「でも、君には効かなかったと」
ルーディは興味深そうにイーリスを観察している。そして、小瓶を手に取り蓋を開けた。甘い香りが部屋に広がる。
「あの時と同じ匂いです」
ルーディは小瓶の蓋を閉めた。イーリスの様子は変わらない。
「いやー、君本当に効いてないんだね。特異体質なのかなー。ちょっといろいろ試してみたいな」
ルーディの目が怪しく光った。どんな実験をするか何やらあれこれ想像を膨らませている。
「そもそもそれは何なのですか?」
イーリスの疑問にルーディは現実に引き戻された。
「あぁ。これはね最近出回っている強力なお薬さ。多幸感も依存性も既存のお薬の倍以上ある危険なシロモノ。王都でも流行ってきてて困ってるんだ」
「危ないお薬なんですね。どうやって作られてるんですか?」
「それが、製造方法が不明なんだ。成分を調べているんだけど、合致する原材料もなくてね」
イーリスはふとある事を思い出した。
「そう言えば、私この匂い、どこかで嗅いだ事があるような気がするんです」
「本当かい!?どこで!?」
突如として鼻息荒くなったルーディはイーリスに詰め寄った。鼻と鼻がつきそうな程距離が近い。
「それが、思い出せなくて…森のどこかだったんですが…」
「森!?どこの森だい!?」
イーリスは言ってしまってから気づいた。クラウスの言葉が脳裏によぎる。魔の森から来たことは軽々しく言わない方がいいと言われていたのだった。
しかし、恩のあるルーディには正直に言っても構わない気がした。自分の証言が役に立つならばと、イーリスは魔の森から来た事を話した。
「あそこか…確かに未知の生物や植物が多数あるな。そりゃ調べても分かんないはずだ」
納得した様子のルーディは浮いていた腰を椅子に戻す。
冷静な表情になった医師は、椅子の肘掛けに頬杖をつくと静かにイーリスに語りかけた。
「君はあの森で生活していたんだよね。ならその生活の中でその動植物に会っている可能性が高い。森の生活を一つ一つ思い出してくれないかい?少しでも情報が欲しいんだ。頼むよ」
「分かりました」
イーリスは森での日々を思い返す。おばあちゃんとの長い生活を。
いつ、どこであの匂いを嗅いだのか。
思い出すイーリスを補助するかのようにルーディが質問を投げかける。
「その匂いは日常的にあったものかな?」
「いえ、違います」
「特定の時期だけのものかな?」
「…特定の時期…ではないと思います」
ルーディは少し考えると質問の切り口を変えた。
「じゃあ、何かに遭遇した時に嗅いだとかはないかな。魔物とか」
「魔物ですか」
イーリスは魔物と遭遇した時の事を脳内で再生していく。すると、匂いと記憶が繋がった。
「思い出しました。おばあちゃんが結界を張り直すのを忘れて、家の側まで火蜥蜴が来た時に嗅いだ匂いです」
「本当かい!?生きてる火蜥蜴ってこんな匂いがするものなのか?」
再び興奮するルーディにイーリスは首を横に振る。
「いえ、匂いを発してしいたのは火蜥蜴から生えていた茸でした」
「魔物から生える茸か!興味深過ぎる」
あの時の甘い匂いは確かにこの薬と同じだった。イーリスはおばあちゃんに教えてもらったきのこの情報を話した。
「おばあちゃんはその茸を宿茸と呼んでいました。生きた魔物の傷口から入った胞子が血肉を糧として成長するそうです。」
「面白いきのこだね。苗床草と似てる」
「そうですね。でも、宿茸は宿主を殺すようなことはなく居候してる感じみたいです。成長しきると胞子を飛ばして枯れ落ちます。枯れ落ちたヤドリタケは食用でよく食べていました。森で拾えるんです。」
「そういう事か!」
ルーディは大声を出して天を仰いだ。
「君は日常的にヤドリタケを摂取していたからこれが効かなかったんだ。耐性が出来ていたんだよ!」
「なるほど。そういう事だったんですね」
森で食べていたヤドリタケのおかげでラルスの手に落ちずに済んでいた。それは非常に幸運な事であった。耐性がなければイーリスも白木蓮の中毒者になってしまっていただろう。
「あれ、待てよ。もしかして枯れたヤドリタケって匂いが変わる?」
「はい。こんな甘い匂いは無くなります。私も枯れる前の匂いを嗅いだのはその時限りです。なので思い出すのに時間がかかってしまいました。」
「いや、最終的に思い出せたんだ。気にしないで。この情報はとても貴重だよ」
ルーディは後ろの棚から白紙を引っ張り出すとイーリスの話を纏め始めた。
「枯れる前のヤドリタケは食べられないのかい?」
「おばあちゃんは食べられないと言ってました。毒性があって幻覚症状が出るみたいです。枯れると成分が変わるとか。それに魔物に生えている状態のヤドリタケを摘み取るのは危険ですから」
「ってことは、白木蓮の原材料は枯れる前のヤドリタケの可能性が高いね。でもどうやって採取してるんだ?まさか栽培してる?それはないか」
ルーディはぶつぶつと呟きながらクセのある字で白紙を埋めていく。
「見た目はどんな形だい?」
「細長くて矢尻みたいに尖った傘をつけていました。色は分かりません」
「そうだった。君は目が不自由だったね。でも形が分かっただけで充分さ」
紙に矢のような絵が追加される。
イーリスはペンが紙の上を滑る音をじっと聞いていた。彼女はこの音が好きだった。おばあちゃんが自分の為に本を書き写す時はいつも心躍らせていた。本を読んでもらうもの好きだが、自分の指先で文字を追うもの違った楽しさがあり好きだった。
いろいろとおばあちゃんの事を思い出したせいか、急に寂しさが込み上げてきた。今どこに居るのだろうか。早く杖職人の所へ行って消息を掴みたい。
イーリスは痛む身体を杖で支えながら立ち上がった。
「あの、もう行ってもいいですか?早く会いたい人がいるんです」
「いいよ。時間を取らせてすまないね」
ルーディは顔を上げると微笑んだ。怪しさのない笑みは、中性的な容姿も相まって人を惹きつけるものがあった。
「ありがとう。君のおかげで多くの人を救えるかもしれない」
イーリスも微笑む。おばあちゃんに教えられた事が役に立ち嬉しかった。彼女は誇らしい気持ちを胸に部屋を後にした。




