71、診療所
ソルは寝台で目を覚ました。目の前には薄暗い天井が見える。周囲も薄暗く、人の気配がなかった。ここは診療所なのだろうか。それにしても静か過ぎる。
体を起こそうとしたが、一切力が入らない。指先すら動かせなかった。唯一動くのは目のみ。その目もぼやけて見える。
ソルは一瞬自分が死んでしまったのかと思った。ここは死後の世界でではないかと。
だが、それは突如現れた人物の言葉で否定される。
「えー、あれだけ薬投与したのに起きちゃったの。おかしくない?」
「先生、見てください。この患者は獣憑きです」
左右から二人の声が聞こえる。一人は中性的な声でもう一人は静かな女性の声だった。
ソルが目を動かすよりも先に、彼の視界が白に染まった。次いで左瞼を強く開かれる感覚。
「あー、本当だ。瞳孔開いて分かりにくいけど獣憑きだね。じいちゃんが獣憑きは薬が効きにくいって言ってたっけ」
「薬を追加しますか?」
左瞼から圧が消え、視界も元の薄暗さに戻った。代わりに腹部に違和感。
「いや、意識はあるけど痛覚は遮断されているみたいだ。筋肉も弛緩している。このままでいけるっしょ」
「では、通常通りに開始しましょう」
何をするんだ、止めれくれ。とソルは言葉を発したかったが出来なかった。僅かに開いた口唇は固まったまま動かない。
また、視界に白い物が映る。
「分かるー?これから腹部の傷を治療するよ。ちょっと切って開いて出したり繋げたりするけど怖くないからねー」
白い物が消え再び腹部に違和感。
もしかしなくとも、この状態で手術をするのか。ソルは様々な傷を処置してきたが、腹部を切り開かれるのは初めてだ。痛覚がないとはいえ未知なる恐怖感が込み上げる。
「あー、こりゃ酷い。こっからここまでは切除だね。おっ、でも腎臓は無事だ。ラッキーだったね」
楽しそうな声で自分の腹腔内を掻き回されるのは新手の拷問のようだった。頼むから薬を追加してくれ。ソルはそう切に願った。
「そうだ、ここに火吹き鳥の油嚢と火蜥蜴の食道を繋げたらおもしろいんじゃないかな」
急に不穏な言葉が放たれてソルは狼狽えた。この医者だと思っていた人物はまともではない。おもしろいと言う理由で人体改造しようとするのは倫理観が死んでいる。
「炎のブレスを吐けるようになったら、この患者も喜ぶのではないでしょうか」
喜ぶ訳ないだろう。もう一人もまともではなかった。
「だよねー。ついでに卵も産めるようにしてあげよう」
凄く善行をしているような口調で言わないで欲しい。ここには頭がおかしい奴しかいない。誰がこの鬼畜の所業を止める者はいないのか。
抵抗できずに自分の内臓が改造されていく感覚に、これまでにない嫌悪と恐怖感が心を破壊する。
その時、二人の声と違う第三者の声がソルの耳に届いた。しかし、その声は小さく何を言っているのか聞き取れない。目を閉じて声に集中した。
「…さ…そ…ん…」
どこかで聞き覚えのある声だ。
「…ソルさん…」
この声は。
「ソルさん、大丈夫ですか?」
ソルは目を開けた。目の前には無機質な診療所の天井がある。窓から差し込む陽光が辺りを照らしていた。
声は隣のカーテンの向こうから聞こえて来ている。
「あぁ、大丈夫、だ」
「そうですか?結構うなされてましたけど」
「…嫌な夢を見ただけだ」
ソルは包帯が巻かれた腹部に手を置いた。痛みはほぼない。
体を改造される悪夢。思い出すだけでも寒気が走るが、驚くことにこの夢、九割方実際に昨夜起こった事である。
運ばれる最中に気を失ったソルが次に目を覚ましたのは寝台の上だった。そして、意識がある中での開腹手術。医師の言葉は全て現実だ。夢と違うのは、もう一人の人物が医師のとんでもない提案を淡々と却下していた事だ。おかげで改造されずに済んでいる。
術後再び意識を失い、気づいた時にはこの病室に寝ていた。強い倦怠感と眠気があり、うとうとしているとあの悪夢を見る。うなされて起きる。それを今まで繰り返していた。もう朝になっている。
ソルは額に浮いた汗を手の甲で拭うと、カーテンの向こうのイーリスに声をかけた。
「イーリスは大丈夫なのか」
「はい、一晩寝たら体は動くようになりました」
隣がら衣擦れの音がし、カーテンが開けられた。ソルが顔を横に向けると、寝台に腰掛けたイーリスの姿が見えた。白い病衣を着た彼女が微笑む。だが、心なしか表情がぎこちない。
「動くんですが…動かすと身体中が痛いです」
「怪我したのか?」
「いえ、診察してくれたお医者さまには身体強化の魔術の反動だと言われました」
「そうそう、そんな貧弱な身体で身体強化しちゃうからだよ」
会話に割り込んできたのは悪夢で何回も聞いた声。ソルは反射的に身構えてしまった。
室内に二つの足音が侵入し、カーテンが大きく開けられた。ソルとイーリスの寝台の前には二人の人物が立っていた。
一人は白衣を着た中性的な顔立ちの人物で、男か女か一見すると分からない。肩までの長さの黒髪には寝癖がついていた。
もう一人は柔和な笑みを湛えた女性だった。波打つ金髪が陽光を受けて輝いている。手には魔術師が使う杖を持っているが看護婦の格好をしていた。
「やあやあ諸君、昨夜はよく眠れたかな?」
白衣の人物がソルとイーリスを交互に観察する。
「はい、食事を食べさせてもらってからはぐっすりでした」
「君は身体強化の反動以外は健康そのものだったからね。あと、二、三日は痛むだろうけどただの筋肉痛だから頑張って。あと、身体強化したいならもっと身体を鍛えないとね」
イーリスは頷きながら自分の腕を触っていた。
「それで、君は?」
問われたソルの脳裏に悪夢がよぎる。
「…とんでもない悪夢を見た」
「あー、あの麻酔薬使うと結構みんな悪夢見るんだよね。副作用だからしょうがない」
あっけらかんと言い放つ人物に、ソルは悪夢の大半はお前のせいだと言いたかったが、一応命を救ってもらっているのでぐっと飲み込む。
「君には自己紹介がまだだったね。僕はルーディ。君の執刀医だよ。隣は僕の助手ね」
「ハンナと申します」
ルーディはずかずかとソルに近寄ると、彼にかかっているシーツを剥いだ。包帯だけの上半身が露わになる。
ソルは思わず身体を起こそうとしたが、ルーディに肩を押され寝かされた。
「診察するからじっとしといて」
医者にそう言われては従うしかない。ソルは言われた通りにした。
ルーディは腹部の包帯を手早く外すと創部を確認した。
「うわっ、もうくっつきかけてるよ。獣憑きの身体って凄いね。」
感嘆の声を上げたルーディは傷を凝視する。傷と顔の距離が近い。
「いいねー。切り甲斐のある身体だねー。いろいろと調べてみたいな」
怪しい笑みを浮かべて傷を凝視し続けるルーディをハンナが引き剥がす。
「先生、業務に関係のない事は止めてください」
「おっと、すまない。獣憑きの身体なんてめったに診れないからね。興味がそそられるんだよ。もっと中身視とけばよかったな」
ソルの全身を舐めるように見るルーディ。悪夢の元凶はやはりまともではない。ソルは心底嫌そうな顔になる。
「でも、君は運が良かったよ。あんなに内臓掻き回されてたら普通の医者じゃ助けられなかっただろうね」
「そんなに酷い怪我だったんですか」
ルーディの言葉に反応したのはイーリスだった。彼女はソルの状態が危なかった事を今知った。
「傷口は大きくなかったけど中がね。僕の天才的な技術とハンナの治癒魔術がなかったら、いくら獣憑きと言えど死んでただろう」
「そうだったんですね。ソルさんがそんな状態だと知らず、呑気に食事の話をしててすいません」
イーリスが悲しげな表情で頭を下げる。ソルは慌てて起き上がった。
「イーリスが謝る事ではない。痩せ我慢して正直にに言わなかった俺が悪い」
「でも…」
「そーそー。カッコつけて痩せ我慢した君が悪い。辛い時は素直に言わないと早死にするよ」
まだ何か言いたげなイーリスだったが、ルーディが放ったソルへの追撃で僅かに微笑んだ。
「んじゃ、魔術師の君は今日退院してもいいよ。でも、後で僕の部屋に来てくれないかな。確認したいことがあるんだ。獣の君は念の為もう一日入院ね」
ルーディが話している間にハンナが外れた包帯をソルに巻き直す。手慣れた手つきで無駄がない。直ぐに腹部は包帯で覆われた。
「また来るからねー」
ルーディは手をひらひらと振りながら部屋を出て行った。ハンナは二人に一礼すると優雅に退室した。
どっと疲労感が押し寄せてきたソルは寝台に身体を埋めた。眠気も襲って来る。身体が休息を求めていた。傷は塞いでも失った血はそう簡単には戻らない。今のソルには療養が必要だ。
目を閉じる前にイーリスを一瞥する。彼女は腹部に手を当てていた。空腹なのだろう。元気な証拠だ。
そしてソルは抗う事なく眠気に身を任せた。
イーリスは配られた食事を痛みに耐えながら食べていた。腕を少し動かすだけでも強張った痛みが発生する。何とかパンをちぎって膝の上のアビィに渡す。
身体強化には反動がある事は知っていたが、まさかこれほどまでだとは思っていなかった。魔術を使ったのは二回だけ。それも計十秒足らず。それなのにこうなった。
新しい魔術が使えるようになって少し浮かれていたが、これは使い方を考え直さないといけない。
できれば身体強化の魔術に秀でた魔術師に師事したいところだ。それまではこの魔術を使うのは控えよう、そうイーリスは思った。
痛む身体で食事を食べ終えると、隣のソルが気になった。彼は診察後から寝ており微動だにしない。たまに苦しげな声が聞こえてくる。またうなされているようだった。
イーリスは杖を支えにして歩いた。脚がまだ若干震えている。彼女が向かうのはソルの寝台。
寝ているソルの側に到着すると、彼の寝台の足元に座った。イーリスは腕を伸ばしシーツから出ている彼の手を握る。
手のひらからソルの温もりが感じられる。自分の細い手やおばあちゃんの乾いた手と違い、固く傷痕だらけの手。この手はどれだけ長い時間剣を振るってきたのだろうか。どれだけ過酷な戦闘に身を置いていたのだろうか。
手を握っていると、うなされていたソルの表情が元に戻ってきた。唸り声も治り、規則的な呼吸音に変わった。
イーリスの口角が僅かに上がった。
今回、彼は命に関わる怪我をした。自分が騙されなければ、とイーリスは何度も後悔していたが、よく考えれば何かがおかしい。杖を盗まれたタイミングを見計らったかのようにラルスはイーリスに接触した。用意周到に仕組まれたとしか思えない。それ程までにイーリスを商品としたかったのか。
だが、この街に来たばかりで直ぐに目をつけられるとも思えない。それにラルスは初対面にも関わらずイーリスが盲目である事を知っていた。イーリスの普段の振る舞いはあまり目が不自由だと感じさせない。
そうすると、この街に入る前からソルとイーリスを調べていた可能性がある。
ラルスに情報を渡した第三者がいるということだ。
「でも、どうして…」
イーリスの形の良い口唇から疑問が溢れる。そこからはどう考えても疑問の答えは見つからなかった。
しかし、答えは出なくとも今回ソルが重傷を負う事になったのはその第三者のせいである可能性が高い。
イーリスは深い眠りに落ちているソルの寝息に耳を傾けた。握った手が熱を帯びる。
「ソルさんをこんな目に合わせて…許せません…」
イーリスの静かな怒りの矛先が謎の第三者へ向かう。その目には獲物を狙う鋭さが宿った。




