56、脅し
屋敷の二階の一角に、精緻な装飾が施された鏡台や美しい刺繍が入ったドレスが並ぶ煌びやかな部屋があった。ドレスの下には宝石を散りばめた靴が揃えてある。鏡台には真珠をあしらった首飾りや金剛石の髪飾りなどの装飾品が光を浴びて輝いていた。
そんな華々しい空間に似つかわしくない人物が流麗な椅子に座っていた。白い肌に血痕を付け、無惨に服を引き裂かれたままのイーリスだった。
彼女はシャズにこの部屋に連れて来られ、一人残されていた。彼は部屋を出る時、待ってろとしか言わなかった。
イーリスは風通しのいい体の前面を触る。思っていたより肌が露出している事に気づく。片手で開いた服を合わせて閉じる。恥ずかしいと言うより寒かったからだ。
空いた手を前に伸ばしてみるとテーブルがあった。テーブルの上には背の低い一輪挿しの花瓶が置いてある。百合の花が純白の花弁を広げ、甘い香りを発していた。
手の届く範囲には花瓶と花しかなさそうだ。
イーリスはテーブルに置いた指を一本づつ上下に動かしていった。まだ僅かに震えが残る指先がぎこちなく動く。
イーリスは男の手首を握りつぶした時の事を思い出す。あの時の魔力の流れを想像し脳内で再現する。
身体強化の魔術、まさか自分が本当に出来るとは思っていなかった。前日の夜から身体強化の魔術の構成を考え、行使するを繰り返していたが全くできなかった。不愉快な男に対する静かな怒りが成功に導いたのだろうか。それならば、寧ろ男に感謝したい。
杖がなくとも行使できる魔術である、魔術師自身の身体強化。魔力を具現化させるわけではなく、自身の体内で完結するこの魔術に杖は必要ない。
身体強化は大幅に身体機能を向上させる事が可能で、使い様によっては一時的に戦士並みの力を発揮できる。
しかし、身体への負荷が重く肉体を鍛えていない者にとってはその反動が大きい。魔術師は非力な者が多いので行使できる時間は短い。本来ならば身体強化は盾など、元々肉体強度の高い者にかけて戦力を上げる魔術になる。
イーリスのような非力中の非力な者は行使できても一瞬か数秒だろう。その一瞬でも今回のような危機を脱するのには役立つ。
彼女の手のひらに肉が潰れ、固い骨を折る感触が蘇る。生暖かい液体が顔や体に落ちる感覚を思い出し、顔を触る。
頬の乾燥した血痕がパリパリと剥がれ落ちた。指先にざらりとした血液の粉が残る。
「人の体って思ったより脆いんですね…」
独白するイーリスの顔に表情の変化はない。男の悲鳴と叫びが耳に残っているが、特段何も感じなかった。
そこで気になったのはソルの事だった。彼は強い。だが獣憑きとは言えあの男と同じ人間だ。盾として闘う以上、今後も傷付き血を流すだろう。
彼女にはそれが恐ろしい事に感じた。
「ソルさん…無事でしょうか…」
焦燥感が胸をじわりと焦がす。おばあちゃんが帰って来なくなった時のようだ。
唇が引き結ばれ、両手で腕を抱く。灰色の世界に取り残されたままのイーリスは、ソルの手の温もりを思い出す。
彼は来てくれる、絶対に杖を取り戻して来てくれる、そう心の中で復唱する。拭いきれない不安感を誤魔化すように。
静かな部屋に一つの音。扉が開く音がした。二人分の足音がする。
「おや、これは随分な格好ですね」
イーリスをここに連れてきた元凶の声。金髪に瑠璃色の瞳の美しい男、ラルスだった。
彼はイーリスの様相を見るなり柳眉を顰める。
「怪我はしていませんか?」
イーリスは答えない。ラルスは優雅に一礼した。
「私の部下が粗相をしてしまい申し訳ありません」
ラルスの言葉に慇懃さは感じない。
「あれらとはもう二度と会う事はないのでご安心を」
彼は薄く微笑むと、後方に控えていた侍従に視線を送った。頭を下げた侍従が二つの銀色の腕輪を持ってきた。
「シャズがら聞きました。あなたは杖なしで何らかの魔術を使えるようですね」
イーリスの表情が僅かに動いた。
「私は魔術に詳しくないので分かりませんが、念の為魔術を封じる腕輪を付けさせていただきますね」
腕輪を持った黒服がイーリスに近づく。
「抵抗なさらぬよう。お互いの為になりませんから」
ラルスのやんわりとした忠告。それに従うわけではないが、イーリスはされるがままになっていた。
鎖つきの手錠を外され、銀の腕輪が付けられる。腕輪はやや赤みがかった銀色で、表面には細かい紋様が掘り込まれていた。やや無骨であるが装飾品にも見えなくはない。
イーリスは軽くなった手で腕輪を触った。
「これからあなたは団長殿との顔合わせに向けて準備をしていただきます。何、侍女が全部やってくれるのであなたは指示に従うだけで大丈夫ですよ」
ラルスは柔和な微笑みを絶やさない。イーリスの目が見えないのは周知だが、いつもの癖だった。
イーリスはラルスの方へ顔を向けた。
「それで、私をどうするつもりなんですか。売るのですか」
「ようやく口を開いてくれましたね」
ラルスは少し満足気だ。
「そうです。売ると言っても人身売買とは少し違います。あくまでもあなたの所有権は私にありますからね」
「私はあなたのものになった覚えはありませんが」
「でしょうね。でも、ここに来てしまった以上あなたは私のものです」
「それは私が認めません。私は誰のものでもありません」
イーリスの静かな声には棘が含まれている。ラルスは意にも介していない。
「淑やかそうに見えて結構強情なんですね」
ラルスは上着のポケットから小さな小瓶を取り出した。小瓶には白い粉が入っている。
「でも、最終的にあなたは私の言う事を聞きますよ」
小瓶の蓋を開けると甘ったるい匂いが広がった。イーリスの目の前にテーブルに小瓶を置いた。
彼女の鼻にも甘い匂いが届く。イーリスはどこかで嗅いだ事のある匂いに、鼻を小さく動かした。甘い匂いの奥に覚えのある匂いがする。
「これは紅茶の…」
「そのとうりです。良い香りでしょう」
ラルスはイーリスの反応を覗っていた。
この白い粉は通称白木蓮と呼ばれる最近出回り始めた薬だ。通常の阿片類よりも多幸感や快楽が強く、依存性が高い新種の薬だった。その効き目から、裏社会では瞬く間に広がっている。
しかし、製造方法や原料は不明で、生産者もよく分かっていない。入手ルートも限られている為、高値で取引されていた。
大金を積んでも欲しがる者は星の数ほど存在する。 製造方法を知る者を血眼で探している者もいた。
ラルスもこの薬は主であるアーゲインから流して貰ったものしか手持ちにはない。
「どうです?これが欲しいでしょう」
ラルスが妖しく微笑む。
イーリスが飲んだ紅茶にはこの薬と睡眠薬が混ぜてあった。睡眠薬を併用すると効きが良く、少量の薬でも効果が得られる。眠りから覚めた後は、この香りを嗅げば体が薬を求めるだろう。これで何人もの少女を虜にしている。
薬に堕ちたら、見せかけの愛情を注ぐ。そうすれば彼に忠実な商品になる。
彼女も例外ではない。自分から新しい商品になるのだ。
ラルスは強情なイーリスが欲求に屈服する瞬間を今かと待っていた。
当のイーリスは考え込んでいた。
この甘い匂いを彼女は知っていた。正確には甘さの奥にある香ばしい匂い。ずっと前から知っている気がする。思い出そうとしても甘い匂いが邪魔をする。
一度気になると、正体が判明するまで思考が諦めきれない。
イーリスは腕組みをしてうんうん唸っている。
ラルスはいつまで経っても薬を欲しがる様子のないイーリスを不審に思い始めていた。彼女は何かを真剣に考えている。欲求を我慢しているようには見えない。
薬の量が少な過ぎたのだろうか。効いている様子がない。だとすると、面倒な事になる。他の手で従わせるしかない。ここまでの彼女の挙動を思い出す。
彼の顔から微笑みが消えた。
「痛い思いをしたくなければ、大人しく私に従いなさい」
穏やかな声音から一変して、冷酷な雰囲気が纏わる。
イーリスも彼の変化に気づき、思考を中断した。
「それはできません」
明確な拒否。それは彼の予想したものだった。この少女はこの程度の簡単な脅しに屈しない。
「私に従わなければ、お前の盾は無惨に死ぬ事になる」
平然としていたイーリスの表情に動揺の影が見えた。ラルスは内心ほくそ笑む。
「盾の命はお前の行動にかかっている」
「あなた方の言う事は信用できません」
イーリスは不愉快そうに眉根を寄せる。
「ソルさんの命を握っているのだとしたら、ここに連れてきてください。そうすれば信じます」
「それならば、そうするとしよう。彼の苦しむ声を聞くといい」
ラルスは後方の侍従に指示を出すと、テーブルの小瓶に手を伸ばした。すると、イーリスの手が彼の袖の端を掴んだ。彼女の目はラルスの顔を捉えている。
盲目なのに何故。ラルスは驚きより、言いようのない気味の悪さを感じた。
「今、見えないのにどうしてって思いました?」
イーリスが微笑する。
「見えなくても集中すれば物音である程度の位置は分かるのですよ。耳は良い方なんです。だから…」
微笑が黒い笑みになる。ラルスはこの笑みを知っていた。裏社会で嫌という程見てきた、人を人と思わず残酷に処分する処刑人の顔だ。本能的な恐怖心が湧き上がる。
「あなたの声は覚えました。ソルさんに危害を加えたら、あなたはきっと深く後悔する事になるでしょうね」
それは警告だ。魔術を封じられた非力な盲目の少女が何を出来ようと言うのか。それでも、彼女から感じる異様な圧が言葉に重みを与えていた。
ラルスは背筋が粟立つ感覚がした。この娘は何かがおかしい。
彼は小瓶を掴むと力任せに腕を引いた。イーリスの指の隙間から袖が抜ける。
「後悔するのはどちらだろうな」
ラルスは鼻で笑った。精一杯の虚勢であった。小瓶を懐に仕舞うと侍従と共に部屋を後にした。
指示を受けていた侍従は扉を施錠すると、一礼しその場を去った。
ラルスは黒服が去った事を確認すると、大きく深呼吸をした。
「何なんだあの娘は…」
何かとんでもなく不吉な者を屋敷に入れてしまった、そんな気がしてたまらなかった。不穏な気配に胸騒ぎがする。
ラルスは頭を振り己の不安を払う。
盾の男を人質にすれば従わざるを得ない、筈だ。何もできない小娘を恐れる必要はない。
だが、念には念を入れる。
ラルスは近くを通りかかった侍従に声をかけた。
「北区の娼館からドーリウを呼びなさい。至急です。」
侍従は直ぐに踵を返し走り出す。
ラルスは侍従とは逆の方向に歩き始めた。何も問題ない。歩を進めるごとに顔には余裕が戻ってくる。
今更後戻りはしない。




