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獣は黎明の空に何を見る  作者: 多真倫土
第四章 混迷の街ベルダン
46/76

46、雨の中で

 街路樹の下のテラス席でイーリスは小さな丸パンを齧っていた。時間は丁度昼食時。丸パンは、食欲をそそられる匂いに包まれて、腹を鳴らしていたイーリスを不憫に思った従業員がこっそりくれたものだった。 フードの中のアビィも同じパンを齧っている。

 ほんのり甘いふわふわのパンはとても美味しい筈なのに、イーリスはあまり味が分からなかった。杖の行方が気になって味わうどころではないのだ。


 偽木生(フェイクツリー)との戦闘中に杖を手放してしまった時とまた違う不安感。あの時は世界から切り離されたような感覚だったが、今はしっかり周囲のと繋がりを感じる。それは周囲にいる人々の声や気配がそうさせているのだろうか。それでも胸がざわついて落ち着かない。

 パンを食べると空腹感が薄れた。アビィはまだ足りないようで鳴いて催促する。イーリスは残りのパンを渡した。これ以上食欲が湧かなかった。


「ソルさんまだかな…」


 ぽつりと呟きが漏れる。すると、こちらに近づく気配があった。ソルが来たのだと期待する。しかし、気配はイーリスの側を通り過ぎて行った。

 唯の通行人だった。ぬか喜びに落胆する。

 それからも幾度か期待と落胆を繰り返しながら時間は経過していった。


 イーリスが周囲の気配と音に集中していたところ、頭に冷たい感触がした。何かと思っているとまた冷たい感触。それは徐々に増えていき、顔にも感触を与えた。


「雨…」


 天から降り注ぐ雨がイーリスを濡らしていた。みるみる雨足が強まり、石畳を打つ音が聞こえてきた。立ち込める雨の匂い。イーリスの席は街路樹の下にある為、直ぐずぶ濡れになる事はない。だが、このままだと近いうちにそうなるだろう。

 他のテラス席の客が室内へ避難する。イーリスはどうしたものかと一人思案した。

 その時、彼女に近づく気配があった。また通行人かと思っていたが、気配は彼女の前で止まった。


「失礼します。貴女が杖を盗難にあった魔術師殿ですか?」


 知らない声に話しかけられイーリスは一瞬戸惑った。低く柔らかい男性の声だった。


「…そう、です」

「私は騎士団の方から来ました。貴女のお連れ様から連れてきて欲しいと頼まれまして」


 イーリスの顔が曇った。


「ソルさんに何かあったんですか?」

「怪我をされていまして現在治療中です」


 声の主はイーリスの不安を感じ取ったのか優しく語りかける。


「ご安心ください。命に関わるような怪我ではありませんよ」


 イーリスは安堵し、握っていた手から力を抜いた。


「お連れ様は騎士団の療養所にいます。さあ、行きましょう」


 声の主は頷いたイーリスの手を取った。当のイーリスは急に触れられ硬直していた。


「あ、失礼しました。目が見えないと聞いておりましたので誘導しようとしたのですが、先に一声かけるべきでしたね」

「いえ、大丈夫です」


 イーリスは声の主の手を握り立ち上がった。数歩歩くと彼女の頭に何かかけられた。片手で触るとそれは服だった。微かに甘い香りがする。


「雨具を持ってきていなかったので、私の上着で我慢してください」

「ありがとうございます」


 イーリスが頭を下げると声の主が笑った気配がした。再び歩き始めると雨が上着に当たる音がした。剥き出しの手にも雨粒が当たる。冷たい雨だったが、握られた手のひらは温かかった。その大きな手はソルの固い手やおばあちゃんの細い手と違って柔らかさがあった。

 ソルとおばあちゃんの事を考えたら寂しさが込み上げてきた。早く会いたい、そう思いながら誘導されるまま馬車に乗り込んだ。

 周囲を確認した声の主が続いて馬車に乗る。

 その様子を黒い外套を羽織った人物が見ていた。その人物は馬車が走り出すと路地の暗がりに消えていった。






 雨足が強まった路地を杖を抱えた子供が走っていた。後方には白いフードを被った男が猛スピードで追いかけてきている。

 子供は自分か追い詰められている事が信じられなかった。圧倒的土地勘と小さい体躯でしか通れない秘密の通路を駆使して逃げているが、離したと思っても気づけば後ろにいる。間抜けな騎士団は簡単に撒けるのに。こんな事は盗人人生で初めてだ。執拗に獲物を狙う猟犬に追われている気分になる。

 嫌な汗なのか雨なのか分からないものが顔を流れる。

 体力がそろそろキツくなってきた。でも足を止める訳にはいかない。

 子供は入り組んだ路地を駆け抜ける。



 ソルは逃げる子供を追い、壁を駆け上がり、屋根を走り、宙を舞い、あらゆる経路で捕捉し続けた。雨が降り、足場が悪くなってもそれは変わらない。

 あと少しのところで手の届かない場所に逃げる子供は厄介だった。

 それでも、子供の動きが鈍くなってきた。子供にしては体力がある方だが、もう限界に近いのだろう。


 細い路地を曲がるとそこは行き止まりだった。子供に逃げ場はない。焦って道を間違えたのか。

 立ち止まった子供の肩は大きく上下していた。対するソルにはまだ余裕があった。

 子供の目には怯えがあった。


「大人しく杖を返せ。今なら騎士団に突き出すだけで許してやる」


ソルは手を子供に向かって差し出した。

子供はソルの手と顔を交互に見た。すると目から怯えが消えた。荒い呼吸の隙間で言葉を紡ぐ。


「あー…面倒臭っ。もう、十分、やったっしょ」

「何?」


 ソルは子供の言葉の意味が理解できなかった。

 子供の顔には邪悪な笑み。その表情は到底子供のものとは思えなかった。

 子供は杖を振りかぶると隣の建物の窓に向かって投げつけた。一瞬の予想外の行動にソルは杖を目で追う事しかできなかった。

 杖は薄い硝子を軽々と割り室内に消えていった。途端に室内から怒号が響き渡る。割れた窓が開けられ、人相の悪い男が顔を出した。


「俺たちに喧嘩売るなんざ、いい度胸してんなぁ」


 背後の扉が勢いよく開き数人の男たちが出てくる。狭い路地にいかつい男がひしめき合う。皆目が据わっており、手には木製の棍棒やナイフを持っていた。


「待て、窓を割ったのは俺じゃない。こいつだ」


 ソルは子供を指差す。男たちの視線が子供に向かう。すると子供は大声で泣き始めた。


「ひっく、ごめん、なさい!この人がやれって脅すから…うわぁぁーん!」


男たちは再びソルに目を向ける。またこのパターンか。ソルは無罪を主張する。


「こいつは嘘をついている。盗人だ」


 しかし、ソルの弁明よりも子供の泣く演技の方が勝ってしまったようで、男らの敵意は全てソルに集中していた。こういった事はつくづく分が悪い。


「子供使ってやるたぁ、とんだクソ野郎だな」


 窓から顔を出している男が紙巻きタバコのようなものを吸う。そして白い煙を吐き出した。


「やれ」


 その一言で男たちが一斉に動き出す。

 一番前にいた男がナイフを突き出した。ソルは素人丸出しの突きを右にずれて回避。突き出された腕を掴み腹部に左膝を叩き込む。男は反吐を撒き散らしながら倒れた。

 右側から大柄な男が棍棒を振り下ろす。隙だらけの一撃をソルは避けようともしない。頭上に振り下ろされた棍棒を片手で受け止めた。腕を捻り棍棒をもぎ取る。棍棒を取られた男は自分の手とソルを交互に見る。ソルは棍棒を後ろに投げ捨てた。

 素手になった男と、その斜め後ろにいた男が同時に襲ってきた。大柄な男の拳を首を傾げて避け、顎を蹴り抜いて倒す。後ろの男が飛びかかり、ナイフを振り下ろすが、ソルの回し蹴りにより後方へ吹き飛んだ。それに何人か巻き込まれる。


 その後もソルは手加減して男たちを倒していく。昨日の強盗よりもお粗末な出来の男たちは、次々と動かなくなった。死んではいないだろう。

 狭い路地から声が消えた。雨音だけが変わらず続いている。

 ソルが後ろを振り返ると当然だが子供は逃げていた。本当に小賢しい奴だ。

 窓から覗いていた男も見えない。

 肌に張り付く服を剥がし、ソルは開いた扉から建物内に入った。


 室内は薄暗く、青臭い煙が充満していた。テーブルには乾燥した草と白い粉が散らばっている。倒れている椅子を跨いで奥の部屋へ行くと、窓辺にいた男が革張りの椅子に座っていた。男の前にはこの部屋に似つかわしくない質の良い机があった。机には箱に入った草が並んでいる。

 男の左後方の窓が割れている。床には散乱した硝子の破片と杖が転がっていた。

 男は椅子に身を預けて酷薄な笑みを浮かべている。先程の怒気をはらんだ顔と違い、計算高い悪党の顔があった。


「お前腕が立つな。俺の用心棒にならねぇか」

「先約があるので断る。それに俺は杖を取り返しに来ただけだ」


 男は肩をすくめた。


「そうかい。杖は後ろにある。適当に持って行け」


 意外にも男はあっさりと引き下がった。

 ソルが足を踏み出した時、男がにやりと笑った。次いで弓弦が弾ける音。それと同時に剣が空を裂く鋭い音が室内に響く。

 全てが一瞬だった。半ばから切断された二本の矢が床に落ちる。

 男は首筋に冷たいものを感じて、思わず唾を飲み込んでいた。その僅かな動きで首筋に赤い線が刻まれる。男の首には交差した双剣が鋏のように突きつけられていた。


 完璧な奇襲だったのに何故。男は目の前に立つフードの男の動きが理解できなかった。

 扉側の天井の隅二箇所には、二階と通じている穴が開けられている。そこから二階にいる部下がクロスボウで室内に入った相手を背後から狙う。薄暗い室内では初見で穴に気づかれる事はない。今までそうやって何人も殺してきた。

 それなのにこの男は背後から放たれた矢を叩き斬った。信じられない気配察知と速さだ。冷や汗が背を伝う。この死神から命を守る為に、何か言葉を発さなければならないが舌が動かない。

 代わりににフードの下から見える口が開く。


「おい、死にたくなければ上の部下を退げろ。あと奥の部屋の奴もだ」


 ソルはこの室外にいる人の気配を敏感に感じ取っていた。

 男は指示を出そうと口を開くが、緊張感と恐怖で上手く発声できない。ソルは交差させた手首を僅かに動かし首への圧を強めた。赤い線が増える。


「早くしろ。急いでるんだ。これ以上時間を無駄にできない」

「さ、退がれ!!」

 

 淡々とした断頭台の声に、焦った男は裏返った叫び声を上げた。

 人の気配が引いた事を確認したソルは双剣を仕舞った。

 男は首を触り荒い呼吸を繰り返している。

 ソルは男に一瞥もくれず杖を拾うと部屋を出た。


 男は身体の力が抜けて椅子に沈み込んだ。あれは敵に回していい人種ではない。

 荒い呼吸が深呼吸に変わった時、開いたままの扉からフードを被った死神が顔を出した。男の心臓が縮み上がる。殺られるのか、男の目が恐怖に染まった。

 だが、フードの下から紡がれた言葉は想像と違うものだった。


「しつこく言うが、窓を割ったのは俺じゃないからな。あの子供に弁償させろ」


 男は無言で頭を上下に振った。

 死神はそれだけ言うと音を立てずに去って行った。

男は喘ぐように呼吸し、震える手で額の汗を拭う。そして天井を仰ぐと己の不運を呪った。



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