103、偽りの朝
イーリスは輪郭だけの世界に佇んでいた。彩のない灰色の寂しい景色。世界は平坦で地と天を分ける線があるのみだった。
耳が痛くなるような静けさの中、イーリスは指一本動かすことなくそこにいた。
何か考えようとしても頭が答えてくれない。何をしているのか何がしたいのか何が分からないのか分からない。
そこへ誰かの声が侵入する。誰の声かも分からない。
声はどんどん近づいて来る。それは楽しげに笑っていた。
上機嫌な声はイーリスの前で止まった。
イーリスの目の前には灰色の人の形があった。朧げな輪郭が小さく揺れている。
格好はおろか顔の判別もつかないそれは首を傾げた。
「私を育ててくれてありがとう。あなたのお陰でこんなに大きくなれたわ」
思考ができないイーリスは黙ってそれの声を聞いている。
「私とあなたはずっと一緒。これからも」
染み込むような声。
何も考えられなくともイーリスはその声を知っていた。
「もっと私を頼って。そうしたら私たちはもっと強くなれる」
灰色の人形が両手を広げてイーリスを抱擁する。
「私はあなた、あなたは私。方時も離れることのない大切な存在」
声は年若い少女のものだった。そう、この声は。
「かわいいイーリス。私たちが真に一つになる時は近いわ」
自分の声だ。停止した頭には疑問すら湧き上がらない。
人形はイーリスの耳に頭を寄せた。
「私たちを邪魔しようとしている人がいるわ。気をつけて」
忠告であるが、どこか毒を含む言葉がイーリスの意識に沁み入る。
言い終えた人形は崩壊し消えた。
灰色の世界に取り残されたイーリスは動かない。
彫像のような彼女は曖昧な意識の中で人形の言葉を反芻した。
何度も、何度も。
眩い光が差し込む朝。カーテンの隙間から漏れた光が寝台に眠る少女の顔を照らしていた。
安らかな寝顔の少女は静かに寝息を立てている。
部屋には彼女の他には誰もいない。
寝台に棚があるだけの部屋だった。簡素であるが手入れされ清潔である。床には埃一つ落ちていない。
扉を叩く音がした。少女が起きる気配はない。
しばらくすると扉が開かれた。
部屋に入って来たのは臙脂色のローブを纏った少年だった。杖を片手に静かに少女の元へ行く。
少年は寝台に眠る少女の顔を覗き込み微笑んだ。
寝台から離れると窓側に周り、カーテンを開ける。朝日が部屋を満たす。
窓を半分だけ開けると、清々しいそよ風が入り少年の頬を撫でた。
少年は再び少女の元へ行くと白い額に手を当てた。少女は静かに呼吸を繰り返している。
少年の微笑みがいつの間にか三日月の笑みとなっていた。杖の紫色の魔石が妖しい光を放つ。
しかし、光は直ぐに消えた。
少年の手の下で少女の目が開かれていた。黎明を映したような瞳が宙を見ている。いや、正確には宙を見ているように見えている。
少年は惜しそうに額から手を離した。
「お目覚めですね、イーリスさん。熱は引いたようですね。体の具合はどうですか」
「その声はラーレさん」
目覚めたイーリスは何となく状況を理解できた。
「私、病気が再発したんですね」
「そうです。昨日ここに運び込まれたんですよ」
高熱で意識が朦朧としたところまでは覚えていた。あの時は体がきつかった。だが、今は嘘のように体が軽い。
「もう体の調子は良くなったみたいです。キルジュさんが治療してくれたんですか」
「はい。幸い、発症してから治療までが短かったので大事には至りませんでした。でも、しばらく安静が必要です」
ラーレは棚に立てかけあった杖をイーリスに手渡した。
杖を手にしたイーリスは安堵の表情を浮かべる。
「ありがとうございます。助かりました」
「いえいえ。副所長は後ほど来られると思います。先に朝食をお持ちしますね」
ラーレは一礼すると部屋を後にした。
仰向けのまま杖を抱いたイーリスは記憶を遡った。騎士団に濡れ衣を着せられ、詰所へ向かうところで熱が出たのだ。
その時、誰かの腕を握っていたような気がする。何故か思い出せない。思考を何かに邪魔されている気分だ。
イーリスは両の手を握って開いた。あの腕の感触を思い出す。手のひらから伝わる熱を。
イーリスは耳を澄ます。あの声の主を思い出すために。耳の奥で落ち着いた低い声が響く。
「ソルさん…!」
イーリスは勢いよく上半身を起こした。胸の上の杖が寝台から転がり落ちる。
見開いた目には驚愕と不安が同居していた。
「どうして直ぐに思い出せなかったの…」
溢れた言葉は弱々しく消える。
高熱を出したせいなのか。ここまで記憶が曖昧となってしまうなんて。
一時的なものであることを願う。
これまで、幾度も危機的状況に陥ってきたイーリスだったが恐怖心を抱いたことはなかった。
それが今、彼女の心には小さな恐怖が芽生えていた。大切な人を忘れてしまう恐怖。
僅かな時間であったが、ずっと行動を共にしていた人のことが分からなくなっていた。
彼女の人生において数少ない信頼のおける人。ガルドラントから逃げてきた獣憑き。
彼の存在はイーリスの中で大きなものとなっていた。
「会いたい…」
その感情が湧いた時、イーリスはいてもたってもいられなくなった。
寝台から下りると転がった杖を探す。床に膝をつき手を伸ばして探ると指先に木の感触があった。
ひったくるように杖を取ると扉へ向かった。
ここで着ていた服が変わっていることに気づいたが、今はどうでもいい。
扉を抜けると長い廊下に出た。廊下には誰もいない。
どこに行けばソルに会えるか分かるはずもない。
階下に人の存在を感じ取ったイーリスは取り敢えず階段を探す。
廊下を小走りに進んで行く。
すると、あっという間に息が切れた。回復したものと思っていたが、まだ半ばらしい。ラーレが安静が必要と言っていた意味が分かった。
ゆっくり歩いて行くと突き当たりに階段があった。階段を下って行くと人の声が聞こえた。声は二つ。どっちも知った声であった。声が遠くて話の内容は分からない。
イーリスは声のする方へ歩む。
階下も長い廊下が続いていた。その廊下の中程に会話する二人の人物がいた。
一人が廊下の向こうのイーリスの存在に気づいた。それは臙脂色のローブに神経質そうな顔の男、キルジュであった。
「イーリスさん。まだ動いてはいけませんよ。まだ熱が下がったばかりですからね」
キルジュは軽く驚いた表情をしていた。彼と話していたラーレも同じであった。
「僕、安静が必要って言ったんだけどな〜」
苦笑したラーレは肩をすくめた。
キルジュとラーレは歩んで来るイーリスへ近づいた。
イーリスの額には薄っすら汗が浮かんでいた。
「部屋に戻りなさい。心身や休めないことには治るものも治りませんよ」
キルジュの言葉にイーリスは首を横に振った。
「ソルさんに会いたいんです。どこにいますか」
「居ませんよ。ここは部外者の立ち入りは禁止ですから」
イーリスは目に見えて落胆した。
キルジュはちらりとラーレに視線を送った。少年が彼に続いて口を開く。
「盾の方ですよね。あの方は宿に戻られていますよ。イーリスさんを心配されていました。宿に意識が戻ったと言伝を頼んでおきますね」
イーリスの目に活力が宿る。ラーレに向かって頭を下げた。
「よろしくお願いします」
ラーレは薄く笑んだ。
「お部屋に戻りましょう。まだ歩けますか」
「はい」
踵を返そうとしたイーリスであったが、動きを止める。キルジュの方へを顔を向けると微笑んだ。
「すいません。ソルさんのことでいっぱいになってしまってキルジュさんにお礼を言っていませんでしたね。助けてくれてありがとうございました。キルジュさんたちがいなかったら私の病気はもっと深刻なものになっていたかもしれません」
イーリスは深く頭を下げた。キルジュは僅かに笑んだが、直ぐに複雑な思いを抱えた顔になる。
「いえ、当たり前のことをしたまでです。患者を救うのが私の使命ですから」
顔を上げたイーリスはもう一度キルジュに笑みを向けると反転し部屋へ戻った。
彼女の横にはラーレが付き添う。歩むイーリスがふらつくと手を伸ばし転倒を防いでいた。
キルジュは遠ざかる後ろ姿を見つめる。病衣に包まれた小柄な背は頼りない。
しかし、あの華奢な体には探し求めたものが眠っている。
「…やっと掴んだ好機だ。逃すわけにはいかない」
それは己に言い聞かせるような口調だった。
「今更戻れない。戻れるはずもない」
キルジュの独白は誰に聞かれることもなく廊下に落ちて消えた。




