第九章 最後の参道
境内は、昨夜よりも広く見えた。
社殿は同じ場所にあった。石碑もあった。しかし、周囲の木々は異様に高くなり、枝が幾重にも絡まり合って空を覆っていた。
鳥居は境内の端に立っていた。
黒ずんだ柱。
古い注連縄。
無数の傷。
葵はその姿を見つめた。
昨夜、四人でくぐった鳥居だった。
それが今は、帰るための唯一の出口に見えた。
「……あれですよね」
葵が言った。
槇原は頷いた。
「ああ。ただし、焦るな。ここからが一番危ない」
彼は鳥居の周囲を慎重に確認した。柱の根元には落ち葉が積もり、その向こうには濃い霧が広がっている。木々の間には、細い道が何本も伸びていた。
「いいか、俺が合図するまで近づくな」
葵は頷いた。
槇原が数歩進んだところで、突然、背後から声がした。
「……水原さん?」
葵の心臓が跳ねた。
聞き覚えのある声だった。
優しく、少し遠慮がちな声。
何度も聞いた、あの声。
葵はゆっくりと振り返った。
霧の中に、一人の男が立っていた。
紺色のパーカー。
黒いズボン。
少し長めの前髪。
野村蓮だった。
「……蓮?」
声が震えた。
蓮は笑った。
「ああ、よかった」
その笑顔は、葵のよく知るものだった。少し困ったように眉を下げ、口元だけで笑う。初めて大学で話しかけたときも、落とした学生証を返してくれたときも、そんな顔をしていた。
「会えてよかった」
蓮が言った。
葵は一歩踏み出しかけた。
槇原が腕を掴んだ。
「待て」
低い声だった。
葵は振り返った。
「でも、蓮が……」
「動くな」
槇原の指が、葵の腕に強く食い込んだ。
その表情は、先ほどまでとはまるで違っていた。彼は蓮を睨みつけていた。恐怖というより、何かを確かめようとしている顔だった。
「お前」
槇原が言った。
「どこから来た」
蓮は少し首を傾げた。
「……え?」
「どうやってここへ来た」
蓮は困ったように笑った。
「僕もよくわからないんです。トンネルで何かに引っ張られて、気がついたら山の中にいて」
葵は彼を見つめた。
「それで、神社に戻れば葵に会えるかなって」
蓮は肩をすくめた。
「……本当に?」
葵の声が震えた。
蓮は頷いた。
「うん」
「怪我は?」
「大丈夫」
「痛いところ、ない?」
「ないよ」
蓮は優しく笑った。
「心配かけてごめん」
葵は泣きそうになった。
槇原の手を振りほどこうとした。
しかし、彼は離さなかった。
「待てって言ってるだろ」
「何で!」
葵は叫んだ。
「蓮が生きてたんですよ!」
槇原は答えなかった。
蓮の足元を見ていた。
葵も視線を落とした。
地面には、薄く砂利が敷かれている。
槇原の足元には靴跡があった。
葵の足元にも。
しかし、蓮の足元には、何もなかった。
「……え?」
蓮が一歩近づいた。
砂利は動かなかった。
音もしなかった。
足が地面に触れている。
確かに触れているはずなのに。
足音がなかった。
「お前」
槇原が低く言った。
「何なんだ」
蓮は立ち止まった。
しばらく槇原を見つめていた。
それから、少し笑った。
「……何って」
彼は葵を見た。
「野村蓮ですけど」
葵は息を止めた。
言葉は正しかった。
声も正しかった。
顔も、服も、仕草も。
何も間違っていない。
しかし、その瞬間、葵は奇妙な違和感を覚えた。
蓮は、自分をそんなふうに名乗らない。
彼ならきっと、もっと困った顔をする。どう説明すればいいのかわからず、曖昧に笑うはずだった。
正解をすぐに口にするような人間ではなかった。
目の前の男は、蓮という人間の外側だけを正確に再現しているように見えた。
「……蓮」
葵は小さく呼んだ。
蓮は笑った。
「何?」
「本当に、蓮なの?」
その質問に、彼は少しだけ黙った。
ほんの一秒。
しかし、その一秒が、異常に長かった。
やがて、蓮が答えた。
「そうだよ」
葵は後ずさった。
蓮の笑顔が、少しずつ薄くなっていった。
笑っていた口元が水平になる。
眉が戻る。
目から感情が消える。
顔の筋肉が、順番に停止していくようだった。
そして、完全な無表情になった。
「……そっか」
蓮が呟いた。
葵は息を呑んだ。
その声には、もう人間らしい温度がなかった。
「気づいちゃったんだ」
次の瞬間。
槇原の体が、大きく揺れた。
何かが肉を貫く鈍い音がした。
葵は一瞬、何が起きたのかわからなかった。
槇原が目を見開いている。
その胸元から、何かが突き出ていた。
細長いもの。
腕だった。
蓮の右腕。
肘から先が、槇原の胸を貫いていた。
葵は悲鳴を上げた。
「……な」
槇原が口を開く。
血が唇から溢れた。
彼は自分の胸を見下ろした。
信じられない、という顔だった。
四年間。
誰よりも長く生き延びてきた男が、何が起きたのか理解できずにいた。
蓮は無表情のまま腕を引き抜いた。
槇原の体が崩れる。
膝が折れ、前のめりに倒れた。
葵は駆け寄った。
「槇原さん!」
男の体を抱き起こす。
血が溢れていた。
ジャケットの胸元が、急速に黒く染まっていく。
「槇原さん!」
葵は叫んだ。
槇原は目を開けていた。
唇が動く。
何かを言おうとしている。
葵は顔を近づけた。
「……行け」
掠れた声だった。
「でも!」
「鳥居……」
槇原は震える手を持ち上げた。
葵の肩を掴む。
「……戻れ」
その手には、驚くほど力がなかった。
葵は首を振った。
「嫌です!」
「……生きろ」
槇原は小さく息を吐いた。
その目が、葵の顔から外れた。
遠くを見た。
鳥居の向こう。
もっと遠く。
誰もいない場所を見つめていた。
「……美咲」
娘の名前だった。
槇原の唇が、微かに動く。
「……ただいま」
そして、動かなくなった。
葵はしばらく、その顔を見つめていた。
男の目は開いたままだった。
しかし、もう何も見ていなかった。
あれほど生きることに執着していた人間が、こんなにも簡単に死んでしまう。
葵は喉の奥から声が漏れるのを感じた。
泣き声にも、悲鳴にもならなかった。
槇原の体をそっと地面へ下ろす。
そのとき、背後から声がした。
「……かわいそうだね」
蓮だった。
葵は振り返った。
蓮はいつもの顔で立っていた。
右腕には、血の一滴もついていなかった。
「せっかく、ここまで来たのに」
葵は彼を睨んだ。
「……何で」
蓮は首を傾げた。
「何が?」
「何で、こんなことするの」
蓮はしばらく黙った。
それから、ゆっくり笑った。
「だって」
葵は後ずさった。
蓮は続けた。
「帰っちゃうんでしょ?」
葵の背筋に寒気が走った。
「……何?」
「葵、帰ろうとしてるんでしょ」
蓮は一歩近づいた。
足音はしなかった。
「それ、困るんだよね」
葵は鳥居を見た。
あと数メートル。
ほんの数メートルだった。
「……蓮を、返して」
葵が言った。
蓮は笑った。
「ここにいるよ」
「違う」
「何が?」
「あなた、蓮じゃない」
その瞬間、蓮の顔が変わった。
笑顔が消えたわけではなかった。
むしろ、笑顔が大きくなった。
口の両端がゆっくりと持ち上がる。
頬が引きつる。
皮膚が伸びる。
耳元まで裂けるように、口が広がっていく。
歯が見えた。
異常に白い歯。
上下の歯列が、どこまでも続いている。
葵は息を呑んだ。
蓮の目が、笑っていなかった。
「……じゃあ」
彼は言った。
「僕は誰?」
*
痛みが走った。
全身に。
突然、皮膚の内側へ熱い針を何百本も差し込まれたような痛みだった。
葵は膝から崩れ落ちた。
呼吸ができなかった。
喉が閉じる。
肺が潰れる。
胸の奥で、何かが引き裂かれる。
「……あ」
声にならない。
蓮が近づいてくる。
葵は彼を見上げた。
その顔は、もう人間のものではなかった。
皮膚が裂けていた。
額から頬へ。
頬から顎へ。
顔の輪郭がほどけるように崩れていく。
内側には、暗い空間があった。
骨も、筋肉もない。
ただ、奥行きのない黒。
その中で、小さな目がいくつも瞬いていた。
葵は悲鳴を上げた。
次の瞬間、右腕に激痛が走った。
何かが噛みついたような感覚。
葵は自分の腕を見た。
肉が剥がれていた。
骨が見える。
血が流れている。
しかし、もう一度瞬きをすると、腕は元に戻っていた。
傷ひとつない。
それなのに、痛みは消えなかった。
「……痛い?」
蓮が尋ねた。
その声は、奇妙に優しかった。
「痛いよね」
葵は歯を食いしばった。
「やめ……」
「やめてほしい?」
蓮はしゃがみ込んだ。
葵の顔を覗き込む。
人間の形をした、何か。
「簡単だよ」
蓮が言った。
「終わらせればいい」
葵は目を閉じた。
その瞬間、頭の中に映像が流れ込んできた。
自分の皮膚が剥がれる。
指が折れる。
目が潰れる。
歯が抜ける。
喉が裂ける。
何度も。
何度も。
葵は地面に爪を立てた。
もう嫌だった。
痛みに耐えられなかった。
何も考えられない。
終わらせたい。
ただ、それだけだった。
そのとき。
視界の端に、何かが光った。
槇原のナイフだった。
地面に落ちている。
刃が、灰色の光を反射していた。
葵は手を伸ばした。
指先が届く。
柄を握る。
冷たい感触。
それは現実だった。
葵はナイフを持ち上げた。
蓮が笑った。
「そう」
その声が、頭の中に直接響いた。
「それでいいんだよ」
葵は震える手でナイフを握った。
痛みを終わらせる。
それしか考えられなかった。
自分の喉へ、刃先を向ける。
腕が震えた。
蓮は微笑んでいた。
「大丈夫」
優しい声だった。
「すぐ終わるから」
葵は目を閉じた。
そして。
拓巳を思い出した。
キッチンの床。
剥がれた爪。
切り離された右手。
血の中に倒れながら、安心したように笑っていた男。
助かった。
彼はそう言った。
けれど、助かっていなかった。
痛みが消えたからといって、救われたわけではなかった。
葵は目を開けた。
ナイフを持つ手が止まった。
自分の右腕を見る。
傷はない。
血もない。
それなのに、痛い。
世界には、痛みだけが存在しているようだった。
葵は呼吸を整えようとした。
吸う。
吐く。
吸う。
吐く。
肺の奥に、空気が入ってくる。
痛みは消えない。
けれど、呼吸はできる。
指も動く。
足も動く。
葵は、自分の体を確かめた。
痛みは本物だ。
それは間違いない。
しかし。
その痛みが教えていることが、本当だとは限らない。
槇原の声が、頭の中に響いた。
見えてるものと、起きてることは別だ。
葵は歯を食いしばった。
蓮が首を傾げる。
「……どうしたの?」
葵はナイフを握り直した。
喉へ向けていた刃先を、ゆっくりと下げる。
「……違う」
声が掠れた。
蓮は黙った。
「私が……」
葵は顔を上げた。
涙で視界が滲んでいた。
「私が、終わらせるんじゃない」
蓮の笑顔が消えた。
葵は立ち上がった。
体中が痛い。
皮膚が剥がれていく感覚。
骨が砕ける感覚。
内臓が捩れる感覚。
すべてが本物のようだった。
けれど、葵は立っていた。
自分の足で。
「……もう」
彼女は言った。
「騙されない」
蓮が動いた。
速かった。
人間の動きではなかった。
その体が、地面を滑るように葵へ迫ってくる。
葵は反射的にナイフを突き出した。
蓮が体を捻る。
刃が頬を掠めた。
葵は後ずさった。
背中が木の幹にぶつかる。
蓮が笑った。
「すごいね」
口の端が持ち上がる。
「まだ動けるんだ」
葵は息を吐いた。
視界の端で、鳥居が揺れている。
あと少し。
そこへ行けばいい。
それだけだ。
*
蓮は、葵を追い詰めようとしているように見えた。
しかし、彼の動きには奇妙なところがあった。
真正面から襲いかかってこない。
必ず横へ回り込む。
葵が鳥居へ向かおうとすると、肩を押す。
倒れそうになれば、腕を掴む。
まるで、彼女が特定の場所へ倒れないようにしているかのようだった。
葵には、その理由を考える余裕がなかった。
激痛が全身を走り続けている。
呼吸をするだけで、胸が裂けそうになる。
蓮の顔が近づく。
葵はナイフを振った。
空を切る。
蓮の手が、葵の肩を掴んだ。
そのまま横へ投げ飛ばされる。
地面が迫った。
葵は体を捻った。
肩から落ちる。
痛みが走る。
土が口に入る。
次の瞬間、蓮が目の前にいた。
その顔が、ありえないほど近かった。
「葵」
彼は囁いた。
「一緒にいようよ」
葵は目を見開いた。
蓮の顔が、一瞬だけ元に戻っていた。
いつもの優しい顔。
少し困ったように眉を下げた表情。
葵がよく知っている、文学部の男。
「……ねえ」
蓮が言った。
「僕、ずっと好きだったんだ」
葵の動きが止まった。
そんな言葉を、今ここで聞くとは思わなかった。
蓮は続けた。
「最初に、学生証拾ったときから」
葵は息を呑んだ。
「葵が教室で本読んでるの、よく見てた」
彼は笑った。
「話しかけたいなって思ってた。でも、何話せばいいかわからなくて」
葵の目から涙が溢れた。
その話は、蓮本人しか知らないことかもしれなかった。
あるいは、この何かが彼の記憶を読んだのかもしれない。
わからなかった。
「……蓮」
葵は呟いた。
蓮は優しく笑った。
「だから、もう帰らなくていいよ」
葵の胸が締めつけられた。
「ここにいよう」
蓮は両手を広げた。
「僕と一緒に」
葵はしばらく彼を見つめていた。
その顔。
その声。
その言葉。
どれも、欲しかったものだった。
もし昨日の夜、彼が同じことを言ってくれていたら。
もし帰りの車の中で、もう少し話せていたら。
もし、あの神社へ行かなかったら。
葵は目を閉じた。
そして、静かに言った。
「……ごめん」
蓮は首を傾げた。
「何が?」
葵は涙を拭った。
「本当の蓮が言ってくれたなら、嬉しかったと思う」
蓮の笑顔が、わずかに歪んだ。
「でも」
葵はナイフを握り直した。
「あなたに言われたくない」
次の瞬間、蓮が飛びかかってきた。
葵は横へ跳んだ。
彼の腕が木の幹を貫く。
木片が飛び散る。
葵は足を踏み出した。
鳥居へ向かって。
しかし、蓮がすぐに追いついた。
背後から肩を掴まれる。
体が横へ引っ張られた。
葵はよろめいた。
その瞬間、視界が大きく揺れた。
黒い木々。
白い霧。
社殿の崩れた屋根。
そして、枝の間を横切る、一本の黒い直線。
目の端を景色が猛烈な速さで流れていく。
蓮が腕を引いた。
葵はその力に逆らい、体を回転させた。
砂利が跳ねた。
二本の黒い柱のようなものが、視界の左右を通り過ぎる。
頭上で何かが軋んだ。
しかし、葵は気づかなかった。
ただ、蓮から離れようとしていた。
彼の手を振りほどき、前へ出る。
蓮が笑う。
その笑い声が、突然、耳元から遠くへ移った。
葵はよろめいた。
足元の地面が、一瞬だけ柔らかくなる。
湿った土ではなく、水面を踏んだような感覚。
体がわずかに沈み、次の瞬間、元に戻る。
葵は転びそうになった。
しかし、踏みとどまった。
鳥居が見えた。
正面に。
今度こそ。
あの赤黒い鳥居だった。
「……あと少し」
葵は呟いた。
蓮が背後から近づいてくる。
「葵」
声がした。
「どこ行くの?」
葵は振り返らなかった。
走った。
しかし、鳥居まであと三歩のところで、足首を掴まれた。
体が地面に倒れる。
ナイフが手から離れた。
蓮が覆いかぶさってくる。
葵は悲鳴を上げた。
彼の顔が、また変わり始めた。
皮膚が裂ける。
骨が伸びる。
目が増える。
口の中から、もうひとつの口が現れる。
それが開いた。
その奥には、無数の細い歯が並んでいた。
葵は腕を突き出した。
蓮の顔を押し返そうとする。
しかし、力が違いすぎた。
彼の口が近づく。
目の前が暗くなる。
葵は歯を食いしばった。
もう終わりだと思った。
あと少しだったのに。
ほんの数歩。
たった数歩だったのに。
そのとき、槇原の姿が目に入った。
地面に倒れている男。
四年間、帰る方法を探し続けていた男。
妻と娘に会いたいと言っていた男。
最後に、自分へ生きろと言った男。
葵は息を吸った。
そして、手を伸ばした。
指先に、何かが触れた。
ナイフの柄だった。
葵はそれを掴んだ。
蓮の顔が迫る。
葵は叫んだ。
恐怖でも、怒りでもなかった。
ただ、生きたいという感情だけが残っていた。
ナイフを突き出した。
刃が、蓮の右目に突き刺さった。
彼の口から、奇妙な音が漏れた。
人間の悲鳴ではなかった。
金属を無理やり折り曲げたような、甲高い音。
蓮の体が大きく仰け反った。
葵はその隙に足を引き抜いた。
立ち上がる。
鳥居へ向かう。
蓮が叫んだ。
「葵!」
その声だけは、元の蓮のものだった。
葵は一瞬だけ足を止めた。
振り返りそうになった。
しかし。
「……ごめん」
そう呟いた。
そして、走った。
*
鳥居が目の前にあった。
黒ずんだ柱。
古い注連縄。
無数の傷。
昨夜、四人で通り抜けた場所。
葵はその中央へ飛び込もうとした。
その直前、槇原の言葉を思い出した。
柱の文字。
帰る、の帰。
葵は足を止めた。
鳥居の柱を見つめる。
傷だらけの木材。
その表面に、何かが刻まれていた。
古い文字だった。
長い年月の間に削れ、ほとんど読めなくなっている。
しかし、一文字だけ。
かろうじて残っていた。
帰。
葵は息を呑んだ。
見つけた。
槇原が言っていた文字だった。
間違いない。
これが、帰るための目印だ。
葵は柱へ手を伸ばした。
木肌には無数の傷があった。
左の柱。
膝ほどの高さに、三角形の欠けがあった。
葵はそれを見つめた。
何かが、頭の奥で引っかかった。
見覚えがある。
この傷を。
この柱を。
この角度から。
いつか、見たことがある。
しかし、思い出す暇はなかった。
背後から、蓮の声がした。
「……葵」
振り返ると、彼が立っていた。
顔の右半分が黒く崩れ、そこから無数の細いものが蠢いている。
それでも、左半分だけは元の顔を保っていた。
優しい、見慣れた顔だった。
「……行かないで」
蓮が言った。
葵は首を横に振った。
「……ごめんね」
彼女は涙を拭った。
「帰るよ」
そして、鳥居をくぐった。
柱の間を通り抜けた瞬間、耳の奥で小さな音がした。
ぱちん。
何かの留め具が外れるような音。
昨夜と同じだった。
葵は息を呑んだ。
体が軽くなる。
視界が白く染まっていく。
背後で、蓮が小さく笑ったような気がした。
しかし、葵は振り返らなかった。
白い光が広がる。
社殿が消える。
木々が消える。
地面が消える。
自分の手も、足も。
すべてが白くなった。
葵は目を閉じた。
そして、最後にひとつだけ考えた。
帰れる。
ようやく。
帰れる。
意識が遠くなっていった。




