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終章 いなかった人たち

 最初に聞こえたのは、鳥の声だった。


 ちゅん、ちゅん。


 小さな鳴き声が、遠くから繰り返し響いていた。


 葵は目を開けた。


 空があった。


 青い空だった。


 白い雲が浮かんでいた。


 雲は、ゆっくりと動いていた。


 葵はしばらく、その景色を見つめていた。


 何も考えられなかった。


 頬に風が触れる。


 木の葉が揺れる。


 遠くで車の走る音がする。


 そして、鳥が鳴いていた。


 動いている。


 世界が、動いている。


 葵はゆっくりと体を起こした。


 土の上に寝ていた。


 周囲には草が生え、木々が立っている。


 よく知っている山の匂いがした。


 湿った土。


 落ち葉。


 木の皮。


 それから、どこかで咲いている花の匂い。


 葵は深く息を吸った。


 涙が溢れた。


「……帰ってきた」


 声に出した。


 自分の声が、空気の中へ広がった。


 反響も、遅延もなかった。


 ただの声だった。


 葵は立ち上がろうとした。


 しかし、足に力が入らなかった。


 膝が折れ、地面に手をつく。


 全身が痛い。


 服は泥だらけだった。


 腕には擦り傷があり、膝から血が滲んでいる。


 けれど、体はあった。


 手も、足も。


 指も動く。


 葵は自分の体を抱きしめた。


 そして、声を上げて泣いた。


 どれほど泣いていたのかわからない。


 やがて、遠くから人の声がした。


「……おーい!」


 葵は顔を上げた。


「誰かいるか!」


 男の声だった。


 複数の足音が近づいてくる。


 枝を踏む音。


 無線機の雑音。


 葵は立ち上がろうとした。


「……ここ」


 声が出なかった。


 喉が痛かった。


 それでも、叫んだ。


「ここにいます!」


 足音が止まった。


「いたぞ!」


 男が叫んだ。


「女性一名、発見!」


 木々の間から、オレンジ色の服を着た人々が現れた。


 ヘルメット。


 無線機。


 救助隊だった。


 葵は彼らを見た。


 動いている。


 瞬きをしている。


 それぞれ違うタイミングで。


 一人が駆け寄ってくる。


「大丈夫ですか!」


 葵は頷いた。


 男は膝をつき、彼女の顔を覗き込んだ。


「名前、言えますか」


「……水原」


 葵は答えた。


「水原、葵です」


 男は無線機へ向かって何かを伝えた。


 その声が、とても遠く聞こえた。


 葵は彼の肩を掴んだ。


「……友達が」


 男が顔を向ける。


「友達?」


「三人、いたんです」


 葵は必死に言った。


「一緒に来たんです。神社に、四人で」


 男の表情が曇った。


「他にも誰かいるんですか?」


「はい!」


 葵は頷いた。


「でも、みんな……」


 言葉が詰まった。


 美香は服だけを残して消えた。


 拓巳は目の前で血を流した。


 蓮は、何かに変わってしまった。


 槇原は、鳥居の前で死んだ。


 それを、どう説明すればいいのだろう。


「……神社に」


 葵は言った。


「あの神社に、います」


 男は周囲を見渡した。


「神社?」


「はい。すぐそこに」


 葵は振り返った。


 そして、言葉を失った。


 そこには、何もなかった。


 木々が立っている。


 雑草が生えている。


 なだらかな斜面が続いている。


 社殿も。


 石碑も。


 鳥居も。


 何ひとつ残っていなかった。


 葵は目を見開いた。


「……え?」


 救助隊員が肩を支えた。


「どうしました?」


 葵は答えなかった。


 あの場所を見つめていた。


 確かに、そこにあったはずだった。


 ほんの少し前まで。


 あの鳥居が。


 蓮が。


 槇原が。


 血に濡れた地面が。


 すべて、消えていた。


「……ない」


 葵は呟いた。


 男が尋ねた。


「何がですか?」


「……神社」


 葵は震える指で斜面を指差した。


「ここに、あったんです」


 男はしばらく周囲を見渡した。


 そして、葵へ向き直った。


「今は何もありませんよ」


 優しい声だった。


 それが、ひどく恐ろしかった。


     *


 病院へ運ばれたのは、その日の昼過ぎだった。


 葵は脱水症状と疲労、それから複数の擦過傷と打撲を負っていた。医師によれば、命に別状はなかった。


 点滴を受け、傷を処置され、個室のベッドに寝かされた。


 葵は何度も、同じ質問をした。


「今日は何日ですか」


 医師は答えた。


「金曜日ですよ」


「……何時ですか」


「午後一時を少し過ぎたところです」


 葵は時計を見た。


 秒針が動いている。


 かち、かち、かち。


 一定のリズムで。


 葵は、その音を何度も確かめた。


 時計が動いている。


 それだけで、少し安心できた。


 その日の夕方、警察が来た。


 二人の刑事だった。


 一人は四十代くらいの男性。


 もう一人は若い女性だった。


 彼らは葵の体調を気遣いながら、昨夜までの行動について尋ねた。


「山には、どうして行かれたんですか」


 男性刑事が聞いた。


「友達と、肝試しに」


 葵は答えた。


「四人で行きました」


 刑事は手帳に何かを書いた。


「お友達のお名前を教えてもらえますか」


 葵は頷いた。


「江藤拓巳。佐倉美香。それから、野村蓮です」


 刑事は名前を繰り返した。


「江藤さん、佐倉さん、野村さんですね」


「はい」


「大学のお友達ですか」


「そうです」


「皆さん、同じ大学?」


「はい。二年生です」


 刑事は頷いた。


「わかりました。確認します」


 葵はその言葉に安心した。


 ようやく誰かが、自分の話を聞いてくれた。


 何が起きたのかわからなくても、調べてもらえる。


 拓巳の家族に連絡してもらえる。


 美香の家へ警察が行ってくれる。


 蓮のことも、探してもらえる。


 そう思った。


 しかし。


 翌朝、同じ刑事が病室を訪れたとき、その希望は崩れた。


「……水原さん」


 刑事は椅子に腰を下ろした。


 昨日とは少し表情が違っていた。


 困惑している。


 葵は胸の奥が冷たくなるのを感じた。


「何かわかりましたか」


 刑事はしばらく黙った。


 それから、慎重に口を開いた。


「昨日お聞きした、お友達の件なんですが」


「はい」


「大学に確認しました」


 葵は身を乗り出した。


「それで?」


 刑事は手帳を開いた。


「該当する学生が、確認できませんでした」


 葵は瞬きをした。


「……え?」


「お名前と学年、学部を照合したんですが、在籍記録がないそうです」


 葵は理解できなかった。


「……そんなはずないです」


「別の大学の方という可能性は?」


「ありません」


 葵は即答した。


「同じ大学です。何度も一緒に講義を受けてます」


 刑事は頷いた。


「それで、住所なども確認したんですが」


 言葉を選ぶように、間を置いた。


「同じお名前の方が、確認できていません」


 葵は刑事を見つめた。


「……どういう意味ですか」


「今のところ、該当する方の記録が見つからないということです」


「そんなわけない!」


 葵は声を上げた。


 刑事が少し驚いた顔をする。


「拓巳は昨日まで一緒にいたんですよ!」


 葵は叫んだ。


「美香だって、家があって、家族がいて!」


「水原さん」


「蓮は!」


 葵の声が震えた。


「蓮は、私の学生証拾ってくれたんです! 同じ講義受けてて、何度も話して!」


 刑事は黙っていた。


「いるんです!」


 葵は涙を流した。


「あの三人は、ちゃんといたんです!」


 刑事はしばらく彼女を見つめていた。


 そして、静かに言った。


「少し、お休みになったほうがいいかもしれません」


 葵は、その言葉の意味を理解した。


 彼は信じていない。


 自分の話を。


 昨日まで存在していたはずの三人を。


 葵は唇を噛んだ。


 何も言えなくなった。


     *


 それからの数日間、葵は必死に証拠を探した。


 スマートフォンは使えた。


 電源も入り、通信も繋がった。


 連絡先を開く。


 江藤拓巳。


 佐倉美香。


 野村蓮。


 その名前は、どこにもなかった。


 葵は画面を何度もスクロールした。


 見慣れた名前が並んでいる。


 高校時代の友人。


 大学のゼミ仲間。


 アルバイト先の同僚。


 家族。


 しかし、三人の名前だけがなかった。


 メッセージアプリを開いた。


 昨夜のグループチャットを探した。


 存在しなかった。


 検索しても出てこない。


 通知履歴にも、何も残っていなかった。


 写真を開いた。


 指が震えた。


 昨夜、拓巳が撮った集合写真。


 鳥居の前で、四人並んで撮った写真。


 それを探した。


 日付を遡る。


 写真があった。


 山の中で撮られたものだった。


 葵は息を呑んだ。


 画面には、一人の女子大生が写っていた。


 葵自身だった。


 暗い森を背景に、ぎこちなく笑っている。


 隣には誰もいない。


 しかし、その写真の構図は奇妙だった。


 葵は画面の右端に寄っている。


 左側には、何もない空間が大きく広がっていた。


 まるで、そこにいたはずの誰かが消えてしまったようだった。


 葵は写真を拡大した。


 左側の暗闇。


 誰もいない。


 鳥居もない。


 ただ、木々だけが写っている。


 葵は別の写真を開いた。


 コンビニの前。


 車の中。


 夜の山道。


 どの写真にも、三人は写っていなかった。


 ただ、彼らがいたはずの場所だけが、不自然に空いていた。


「……何で」


 葵は呟いた。


 スマートフォンを握る手が震える。


「何で、消えてるの」


 涙が画面に落ちた。


 葵は拭わなかった。


 写真を一枚ずつ確認した。


 何度も。


 何度も。


 そして、最後に気づいた。


 自分が撮った覚えのない写真が、一枚だけあった。


 午前一時十七分。


 昨夜、山道を下りた頃の時刻だった。


 車内から撮影された写真。


 リアウインドウ越しの夜道。


 遠くに、赤黒い鳥居が写っている。


 葵は息を止めた。


 あの鳥居だった。


 間違いない。


 柱に巻かれた注連縄。


 細長い形。


 黒ずんだ木材。


 しかし、鳥居の中央には、何もいなかった。


 葵は写真を拡大した。


 暗い空間。


 その奥。


 目を凝らす。


 何も見えない。


 葵はしばらく画面を見つめていた。


 そして、ゆっくりとスマートフォンを伏せた。


 もう見たくなかった。


     *


 母親が見舞いに来たのは、三日目のことだった。


 葵の母親は、ひどく心配していた。病室に入るなり、葵を抱きしめた。


「よかった……」


 声が震えていた。


「本当に、よかった」


 葵は何も言えなかった。


 母親の腕の中で、ただ頷いた。


 温かかった。


 人間の体温。


 見慣れた匂い。


 子供の頃から知っている、母親の手。


 葵はその胸に顔を埋めた。


 そして、泣いた。


 母親は何も聞かなかった。


 ただ、背中を撫でてくれた。


 それが、何よりもありがたかった。


 しばらくして、葵は小さく尋ねた。


「……お母さん」


「何?」


「私、友達と一緒にいたんだよね」


 母親の手が止まった。


「……友達?」


「うん」


 葵は顔を上げた。


「江藤拓巳って、知らない?」


 母親は首を傾げた。


「江藤くん?」


「うん」


「……ごめんね。聞いたことないかな」


 葵は唇を噛んだ。


「佐倉美香は?」


「佐倉さん?」


「うん。前に話したことあると思う」


 母親は少し考えた。


「そうだったかしら」


 葵は目を伏せた。


「……野村蓮は?」


 母親は首を横に振った。


「知らないわ」


 葵は黙った。


 母親は心配そうに彼女の顔を覗き込んだ。


「葵」


「……うん」


「何かあったの?」


 葵は答えられなかった。


 何かあった。


 もちろん、あった。


 しかし、それを説明するための言葉がなかった。


 存在しなかったことになっている人間について、何を話せばいいのだろう。


 葵は母親の手を握った。


「……何でもない」


 そう言った。


 母親はしばらく彼女を見つめていた。


 それから、優しく頷いた。


「そう」


 そして、葵の髪を撫でた。


 その手の温かさが、葵にはひどく悲しかった。


     *


 四日目。


 葵は大学のホームページを開いた。


 学部の在籍者情報。


 ゼミの紹介。


 学生団体の活動記録。


 何度見ても、三人の名前はなかった。


 拓巳が所属していたサークルの集合写真にも、彼の姿はなかった。


 美香が投稿していたSNSのアカウントは、検索しても出てこなかった。


 蓮が書いていた読書感想のブログも、存在しなかった。


 葵はパソコンを閉じた。


 ベッドに横になる。


 天井を見つめる。


 白い天井だった。


 照明がひとつ。


 換気口がひとつ。


 何もおかしくない。


 病院の廊下から、看護師たちの声が聞こえる。


 ストレッチャーの車輪の音。


 遠くで鳴るナースコール。


 誰かの笑い声。


 日常だった。


 完全な。


 何の異常もない、日常だった。


 葵は目を閉じた。


 もし、すべてが夢だったら。


 そう考えた。


 自分は何らかの理由で山へ入り、そこで意識を失った。


 極度の疲労と脱水。


 そして、幻覚。


 脳が作り出した架空の人物たち。


 美香。


 拓巳。


 蓮。


 槇原。


 彼らは、自分の孤独が生み出した存在だったのかもしれない。


 そう考えれば、すべて説明できる。


 大学に在籍記録がないことも。


 写真に写っていないことも。


 母親が知らないことも。


 警察が見つけられないことも。


 全部。


 全部、説明できる。


 葵は枕を抱きしめた。


「……じゃあ」


 小さく呟く。


「何で、こんなに寂しいんだろう」


 涙が溢れた。


 存在しなかった人間を失うことは、存在していた人間を失うことよりも、ずっと残酷だった。


 誰にも悲しみを共有してもらえない。


 名前を呼んでも、誰も振り向かない。


 思い出を話しても、誰も頷いてくれない。


 葵の中にだけ、三人が残っている。


 拓巳の大きな笑い声。


 美香の派手なネイル。


 蓮の静かな横顔。


 そして。


 槇原が最後に言った言葉。


 生きろ。


 葵は目を閉じた。


「……生きてるよ」


 小さく呟いた。


「ちゃんと、帰ってきたよ」


 答える者はいなかった。


     *


 その夜、葵はノートを買ってきてもらった。


 大学で使っていたものと同じ、薄い方眼ノートだった。


 ベッドの上で、それを開いた。


 ペンを握る。


 一ページ目に、四人の名前を書いた。


 水原葵。


 野村蓮。


 江藤拓巳。


 佐倉美香。


 その下に、槇原泰三。


 葵は名前を見つめた。


 たった五つの名前。


 けれど、そこには自分が体験したすべてがあった。


 葵は書き始めた。


 十月の木曜日。


 午前零時。


 山奥の神社。


 鳥居。


 石碑。


 鍵。


 獣道。


 ルームミラー。


 午前九時。


 美香からの電話。


 動かない母親。


 午後三時。


 拓巳。


 血。


 午後九時。


 トンネル。


 蓮。


 槇原。


 そして、鳥居。


 葵は一つずつ書いた。


 自分が覚えている限り、できるだけ正確に。


 恐怖を誇張しない。


 わからないことを勝手に補わない。


 見たものは見たものとして。


 見えなかったものは、見えなかったものとして。


 誰が何を言ったか。


 どこで何が起きたか。


 できるだけ詳細に。


 書いているうちに、少しずつ気持ちが落ち着いてきた。


 記録すること。


 それは、今の葵にできる唯一の抵抗だった。


 彼らが存在したことを、誰も覚えていないのなら。


 自分が覚えていよう。


 せめて、自分だけは。


 葵はペンを走らせた。


 そして、最後のページに、槇原から教わった数字を書いた。


 0。


 +1。


 -1。


 葵はしばらく、その数字を見つめた。


 一度入って。


 一度戻る。


 それだけだった。


 彼女は、確かに戻ってきた。


 あの鳥居を。


 槇原が教えてくれた文字のある側から。


 だから、もう大丈夫なはずだった。


 葵はノートを閉じた。


 電気を消す。


 窓の外には、街の明かりが広がっていた。


 車が走っている。


 人が歩いている。


 信号が変わる。


 当たり前の世界。


 葵はその景色を見つめた。


 そして、ようやく眠りについた。


終章 逆拝

 退院が決まったのは、保護されてから五日目の朝だった。


 医師は、身体的な回復は順調だと説明した。ただし、強いストレス反応が見られるため、しばらくは無理をしないようにと言われた。


 葵は頷いた。


 もう、反論する気力はなかった。


 自分が体験したことを話しても、誰も信じない。


 それなら、もう話さなくてもいい。


 そう思い始めていた。


 病室の窓からは、青い空が見えた。


 遠くにビルが並んでいる。


 道路には車が走り、歩道を人々が行き交っていた。


 日常は、何も変わっていなかった。


 葵を除いて。


     *


 午前十時十二分。


 葵はベッドに横たわり、テレビを見ていた。


 ニュース番組だった。


 地方の事件や事故を紹介する、ごく普通の番組。


 画面には、見慣れたアナウンサーが映っていた。


 四十代くらいの女性だった。


 落ち着いた声で原稿を読んでいる。


『続いてのニュースです』


 葵は枕に頭を預けた。


『先週金曜日、県内の山中で保護された二十歳の女子大学生について、警察は――』


 葵は顔を上げた。


 自分のことだった。


 画面には、救助当日の映像が表示された。


 オレンジ色の服を着た救助隊。


 木々の間を運ばれていく担架。


 ブルーシート。


 山の斜面。


 そして、顔を隠された一人の女性。


 葵だった。


『女性は発見当時、意識はあったものの、強い疲労と脱水症状が見られ――』


 葵はテレビを見つめた。


 自分が運ばれていく映像。


 病院のベッドから、それを眺めている。


 不思議な感覚だった。


 あの山で起きたことは、確かに現実だった。


 ニュースになっている。


 救助隊がいて、医師がいて、警察がいた。


 なのに、三人の姿はどこにもない。


 葵は唇を噛んだ。


『警察は、女性が何らかの理由で道に迷い、山中を彷徨っていた可能性があるとみて――』


 葵は目を閉じた。


 道に迷った。


 そうなのかもしれない。


 いや、違う。


 違うはずだった。


 あの鳥居。


 あの神社。


 あの世界。


 全部、確かにあった。


 葵はノートへ手を伸ばした。


 ベッドの脇に置いていた方眼ノート。


 表紙を開く。


 そこには、五人の名前があった。


 葵は指で名前をなぞった。


 江藤拓巳。


 佐倉美香。


 野村蓮。


 槇原泰三。


 確かに、書いてある。


 消えていない。


 葵は少しだけ安心した。


 そのとき。


 テレビの音声が途切れた。


『――引き続き、詳しい経緯を調べていま――』


 そこで止まった。


 葵は顔を上げた。


 画面の中で、アナウンサーが口を開いていた。


 原稿を読む途中だった。


 唇が、半開きになっている。


 目はカメラを見ていた。


 右手には原稿用紙。


 左手は机の上。


 その姿勢のまま、まったく動いていなかった。


 葵は瞬きをした。


 通信障害。


 そう思った。


 朝の情報番組でも、同じようなことがあった。


 映像が一瞬止まり、また動き始めた。


 きっと、今回も。


 そう思った。


 しかし。


 一秒。


 二秒。


 三秒。


 アナウンサーは動かなかった。


 葵はリモコンを手に取った。


 音量を上げる。


 何も聞こえない。


 画面を見つめる。


 アナウンサーは、まるで写真のように静止していた。


 葵の指が震えた。


「……やめて」


 小さく呟いた。


 画面の中で、アナウンサーの目が動いた。


 ぎち。


 葵は息を止めた。


 眼球だけが、ゆっくりと右へ向く。


 それから、左へ。


 もう一度、右へ。


 何かを探しているようだった。


 葵はリモコンを落とした。


 かたん。


 床に落ちる音が、異様に大きく響いた。


 アナウンサーの目が、止まった。


 カメラを見つめている。


 いや。


 違う。


 画面の向こう側を見ている。


 テレビの前にいる葵を。


 まっすぐに。


 葵は後ずさろうとした。


 しかし、体が動かなかった。


 膝が震える。


 喉が詰まる。


 あのキッチンを思い出した。


 包丁を握ったまま動かない母親。


 目だけが動いていた。


 涙を流していた。


 同じだった。


 まったく。


 同じだった。


「……嘘」


 葵は呟いた。


 その瞬間、テレビの画面が乱れた。


 ザー。


 白い線が走る。


 画面全体が細かく震え始める。


 ザー。


 ザー。


 耳障りな雑音が、病室に響いた。


 葵は両手で耳を塞いだ。


 テレビを消そうとした。


 しかし、リモコンは床に落ちている。


 手が届かない。


 画面の中では、アナウンサーがまだ静止していた。


 その目だけが、何かを追っている。


 葵の背後を。


 葵は息を止めた。


 ゆっくりと、テレビの画面が暗くなっていく。


 ニュース映像が消える。


 黒い画面に、白い粒子が走る。


 ザー。


 ザー。


 そして、その黒い画面に、病室の景色が映り始めた。


 鏡のように。


 葵は自分の姿を見た。


 ベッドに座っている。


 青白い顔。


 震える手。


 開いたままのノート。


 その後ろには、病室の入口があった。


 白いドア。


 銀色の取っ手。


 廊下へ続く、四角い枠。


 葵はその映像を見つめた。


 何かがおかしかった。


 ドアの形が違っていた。


 いつもより、縦に長い。


 左右の柱が、黒い。


 葵は目を凝らした。


 病室のドア枠。


 その上部に、太い横木が渡されている。


 さらに、その上に、もう一本。


 黒ずんだ木材。


 古い注連縄。


 葵は口を開いた。


 声が出なかった。


 鳥居だった。


 病室の入口が、鳥居になっていた。


 葵はゆっくりと振り返ろうとした。


 しかし、首が動かなかった。


 筋肉が凍りついている。


 体が、命令を受けつけない。


 葵はテレビの画面を見つめるしかなかった。


 黒い鳥居。


 その中央。


 誰かが立っていた。


 紺色のパーカー。


 黒いズボン。


 少し長めの前髪。


 野村蓮だった。


 葵は息を呑んだ。


 彼は、こちらを見つめていた。


 ただし、その姿勢は異様だった。


 両膝が、逆方向へ曲がっている。


 腕は肘のあたりで不自然に折れ、手の甲が正面を向いていた。


 上半身は腰の位置から直角に曲がっている。


 頭が垂れ下がっている。


 しかし、顔だけがこちらを向いていた。


 あの夜。


 車のルームミラーに映っていた影。


 まったく同じ姿勢だった。


 葵は口を開いた。


 助けを呼ぼうとした。


 しかし、声が出なかった。


 蓮の口元が、ゆっくりと持ち上がった。


 笑っていた。


 人間の顔では不可能なほど大きく。


 口の端が、耳元まで裂けていく。


 歯が見えた。


 無数の白い歯。


 その奥には、暗闇が広がっていた。


 葵は目を見開いた。


 蓮が一歩近づいた。


 足音はしなかった。


 テレビの画面の中で、彼の体が少しずつ大きくなっていく。


 そして。


 蓮の唇が動いた。


 音は聞こえなかった。


 けれど、何と言っているのか、葵にはわかった。


 口の形を読んだのではない。


 その言葉を、もう何度も聞いていたからだった。


 またね。


 葵は泣いた。


 涙が頬を伝う。


 助けを呼ぶことも、目を閉じることもできなかった。


 テレビの画面では、蓮が笑い続けていた。


 そのとき、葵は最後にひとつの光景を思い出した。


 鳥居の前。


 蓮ともみ合っていたとき。


 激しく揺れる視界。


 流れていく木々。


 霧。


 枝の間に見えた、一本の黒い直線。


 左右を通り過ぎた、二本の柱。


 そして。


 頭上で軋んだ、何か。


 葵は息を呑んだ。


 あれは、木の枝ではなかった。


 もうひとつの鳥居だった。


 あのとき、自分は確かにその下を通り抜けた。


 しかし、それだけではなかった。


 葵の頭の中で、もう一つの記憶が浮かび上がった。


 最初に神社へ来た夜。


 車を降り、鳥居の前に立ったとき。


 左の柱に、無数の傷があった。


 膝ほどの高さには、三角形の欠けがあった。


 葵はそれを指で触った。


 あの場所から。


 あの角度から。


 その傷を見ていた。


 そして、最後に鳥居をくぐったときも。


 同じ柱。


 同じ傷。


 同じ三角形の欠け。


 同じ角度。


 同じ側。


 葵の目から涙が溢れた。


 槇原の声が蘇る。


 文字の見える側からくぐれ。


 帰る、の帰。


 あのとき、確かに文字はあった。


 しかし。


 葵が最初に神社へ入ったときも、あの傷は見えていた。


 あの柱を見ていた。


 あの側から、くぐったのだ。


 帰ったつもりだった。


 文字を確認した。


 正しい方向だと信じた。


 けれど。


 自分は、どちらへ向かっていたのだろう。


 葵の頭の中に、槇原のノートが浮かんだ。


 0。


 +1。


 -1。


 あの人は間違ったことを教えようとしたわけではなかった。


 四年間、必死に調べた。


 自分の知っているすべてを、葵に伝えてくれた。


 葵を生かそうとしてくれた。


 ただ。


 あの人も、知らなかったのだ。


 鳥居の表と裏が、いつまでも同じ場所にあるとは限らないことを。


 帰るための文字が、帰り道を示しているとは限らないことを。


 そして、自分が見た誰かの消失が、本当に帰還だったのかどうかさえ。


 葵はようやく理解した。


 自分が帰ってきたと思っていた世界は、最初から帰るべき場所ではなかった。


 あの病院も。


 警察も。


 母親も。


 動いていた人々も。


 すべてが、少しだけずれた場所にあった。


 だから、三人はいなかった。


 最初から存在しなかったのではない。


 存在していた世界へ、自分が戻れていなかったのだ。


 葵は泣きながら、声にならない声を上げた。


 テレビの画面では、蓮が笑っていた。


 その笑顔の奥に、見覚えのある優しさが残っているように見えた。


 あるいは、それさえも、最後の幻覚だったのかもしれない。


 やがて、画面全体が白い砂嵐に覆われた。


 ザー。


 ザー。


 ザー。


 病室から、すべての音が消えた。


 廊下を歩く足音も。


 看護師の声も。


 遠くを走る救急車のサイレンも。


 そして、葵自身の呼吸音も。


 すべてが止まった。


 テレビだけが、白い雑音を吐き続けていた。


 その画面の奥で。


 黒い鳥居が、ゆっくりと近づいてきた。


 鳥居の中央には、野村蓮が立っていた。


 笑ったまま。


 まったく動かずに。


 やがて、葵の視界が暗くなった。


 最後に聞こえたのは、蓮の声だった。


 昨日の夜、車の中で聞いたときと同じ、穏やかな声。


 少し遠慮がちで、優しい声。


「……おかえり」


 そして。


 何も見えなくなった。


     *


 人は、自分がしたことよりも、しなかったことを思い出すのが難しい。


 あの夜、彼女たちは鳥居をくぐって境内に入った。そして、帰るときにくぐることを忘れた。


 ただ、それだけだった。


 やがて一人になった彼女は、帰るための方法を知った。


 鳥居をくぐれば一つ増える。


 逆からくぐれば一つ減る。


 入った分だけ、戻ればいい。


 誰にでもわかる、簡単な計算だった。


 彼女はその計算を間違えなかった。


 ただ、計算するために必要なものを、正しく数えることができなかった。


 そして、その間違いに気づいたときには、もう一度戻るための鳥居はどこにもなかった。


 黒い鳥居の下で、誰かが笑っていた。


 それはいつまでも、そこに立っていた。


 帰る人間を待つように。


 あるいは、新しく入ってくる人間を迎えるように。


 その二つの違いを、もう誰も確かめることはできなかった。

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