第八章 裏側の文字
目を覚ますと、槇原は壁の前に座っていた。ランタンの明かりの下で、何かをじっと見つめている。葵が体を起こすと、彼は振り返り、寝ぼけたような顔で笑った。
「起こしたか」
「いえ。……何、見てたんですか」
槇原は少し迷ってから、手に持っていたものを差し出した。古い写真だった。端が擦り切れ、表面には細かな傷が走っている。写っていたのは三人の家族だった。若い頃の槇原と、柔らかく笑う女性。それから、制服を着た十代半ばの少女。
「娘ですか?」
「ああ。美咲っていうんだ」
槇原は写真を見つめた。娘は父親の腕に軽く寄りかかっている。少し照れたような表情だった。
「俺がいなくなったときは十六だった。今なら、もう二十歳になってる」
「……大学生くらいですね」
「そうだな。大学行ったかもしれんし、就職したかもしれん。あいつ、昔から動物が好きでな。獣医になりたいとか言ってたんだが」
槇原は小さく笑った。しかし、その笑顔はすぐに消えた。
「四年も経ったら、顔だって変わるだろうな」
葵は写真を見つめた。そこには、当たり前の未来を信じている家族がいた。まさかこの数日後に父親がいなくなり、そのまま四年間も帰ってこなくなるとは、誰も想像していなかったはずだった。
「会いたいですよね」
槇原はしばらく答えなかった。
「そりゃ、会いたいよ」
やがて、ぽつりと言った。
「ただ、俺が帰ったら、あいつら困るかもしれんな」
「どうしてですか」
「四年も経ったんだ。もう、俺がいない生活ができてるだろ。そこへ突然、こんな格好の男が帰ってきたら……」
「嬉しいと思います」
葵は、考えるより先に答えていた。槇原が顔を上げる。
「きっと、嬉しいですよ。四年経ってても、十年経ってても。お父さんが帰ってきたら、絶対に」
槇原は葵を見つめた。何かを言おうとして、それを飲み込む。それから、小さく笑った。
「……そうだといいな」
写真をジャケットの内ポケットへしまい、彼は立ち上がった。床に置いていたリュックを背負い、腰のナイフを確かめる。
「そろそろ行くか」
葵も立ち上がった。眠ったことで多少は体力が戻っていたが、全身には鈍い痛みが残っている。服は泥で汚れ、膝には乾いた血がこびりついていた。それでも、昨夜よりは歩けそうだった。
槇原が出口へ向かいかけたところで、何かを思い出したように足を止めた。
「そうだ。大事なことを言い忘れてた」
彼はリュックから例のノートを取り出した。古い紙を何枚かめくり、鉛筆で描かれた鳥居の図を葵に見せる。
「いいか。戻るとき、どっちからくぐるか迷うことがある」
図には、鳥居の両側に矢印が描かれていた。片側には小さな丸印があり、その横に何かの文字が書き込まれている。
「鳥居には表と裏がある。普通は境内から外へ向かえばいい。だが、あそこの境内は時々、道のつながり方が変わる。自分がどっちに立ってるのかわからなくなることがあるんだ」
「……どうやって見分けるんですか」
「柱の文字だ」
槇原は図を指差した。
「片側の柱に、古い文字が彫ってある。傷だらけで見づらいが、一文字だけ残ってる」
「何て?」
「『帰』だ。帰る、の帰」
葵はノートを見つめた。
槇原は続けた。
「俺は、文字の見える側が帰り道だと思ってる。今まで見てきた連中も、その側からくぐったときに姿が消えた」
「……帰れたってことですか?」
「それは確かめようがない。ただ、少なくとも、連中に捕まったときとは消え方が違った。光に包まれて、すっと見えなくなるんだ」
葵は無言で頷いた。槇原の説明には、彼自身の推測が含まれている。しかし、四年間ここで生き延びてきた人間の経験だった。何も知らない自分の判断より、信頼できると思った。
「文字がある側から、くぐる」
確認するように呟くと、槇原が頷いた。
「ああ。それから、途中で別の鳥居を見つけても、絶対にくぐるな。数が合わなくなる。お前はまだ一つずれてるだけなんだ。それを忘れるな」
葵はノートに描かれた数字を見た。
+1。
-1。
0。
簡単な計算だった。難しいことなど何もない。余計なことをせず、一度だけ正しい方向へくぐればいい。
それで、帰れる。
葵はそう信じた。
*
外へ出ると、森は薄い灰色の光に包まれていた。
朝なのか夕方なのかはわからない。雲は動かず、風もない。それでも、昨夜に比べればずっと明るかった。木々の輪郭が見えるだけで、葵は少し安心した。
槇原は慣れた様子で山道を進んだ。時折立ち止まり、地面に張られた糸のようなものを確かめたり、木の幹についた小さな印を探したりする。その動作には迷いがなかった。
「これ、全部槇原さんが?」
葵が尋ねると、彼は頷いた。
「道を覚えるためにな。前は木に傷をつけてたんだが、気づくと消えてることがあった。最近は、こうやって糸を結ぶようにしてる」
「それなら消えないんですか」
「消えることもある。ただ、消えるなら消えるで、その場所がおかしいってわかる」
槇原は淡々と答えた。
葵はその背中を見つめた。四年間という時間の長さが、少しだけ実感できた。彼はこの世界を理解したのではない。理解できないまま、生き延びる方法だけを少しずつ覚えてきたのだ。
山道を下りきったところで、二人は古い商店へ立ち寄った。
店内では、老人が帳簿を開いた姿勢で静止していた。電卓の上に指を置き、目を伏せている。槇原は棚から保存食をいくつか取り、リュックへ詰めた。それから老人の前に立ち、静かに頭を下げた。
「いつも世話になってるよ」
葵はその様子を見つめた。
「……毎回、そうしてるんですか」
「まあな」
「返事、ないのに」
「だからって、何も言わずに持っていくのは気分が悪いだろ」
槇原は少し笑った。
「こんな世界でも、人間らしいことはしてたいんだよ」
葵は胸が詰まるのを感じた。
四年間、誰からも返事をもらえず、それでも礼を言い続けた男。
誰にも気づかれない場所で、誰にも知られない生活を続けてきた男。
葵は、この人だけは何としても連れて帰りたいと思った。
「……槇原さん」
「何だ」
「私が帰れたら、絶対に探します」
槇原が振り返った。
「あなたのこと。ちゃんと説明して、誰かに調べてもらって、それで、戻る方法を一緒に考えてもらいます」
槇原は何も言わなかった。
「だから、諦めないでください」
葵は続けた。
「私だけ帰って、それで終わりにはしたくないです」
しばらく沈黙が続いた。
槇原は葵を見つめたあと、ゆっくりと頷いた。
「……ありがとうな」
その声は、今まで聞いたどの言葉よりも柔らかかった。
「それだけで、少し救われるよ」
*
山の中腹まで来たところで、槇原が急に立ち止まった。
葵も足を止める。
前方には細い道が続いていた。両側には杉の木が立ち、地面には落ち葉が積もっている。何もおかしなところは見えなかった。
「……どうしました?」
槇原は答えなかった。ゆっくりとリュックを下ろし、中から小さな鈴を取り出す。
糸の先に吊るし、道の中央へかざした。
鈴が揺れた。
ちりん。
葵は息を止めた。
風はない。
しかし、鈴だけが小さく揺れている。
槇原は顔をしかめた。
「……来てるな」
その瞬間、道の奥で何かが動いた。
葵には見えなかった。
ただ、地面に積もった落ち葉が、一列に浮き上がった。
何かが通り過ぎている。
地面を這うように。
ゆっくりと。
葵は後ずさった。
「走れ」
槇原が言った。
「今すぐ」
二人は斜面を駆け上がった。背後で落ち葉が舞い上がる音がした。槇原は走りながらリュックから空き缶を取り出し、斜面の反対側へ投げた。
金属音が森に響く。
何かの気配が、一瞬だけそちらへ向いた。
「こっちだ!」
槇原が葵の腕を掴む。
二人は木々の間を抜け、細い獣道へ飛び込んだ。枝が顔を掠め、足元の小石が崩れる。葵は何度も転びそうになったが、槇原は一度も立ち止まらなかった。
やがて、木々の向こうに開けた場所が見えた。
石段だった。
葵は息を呑んだ。
見覚えがある。
苔に覆われた、六段ほどの石段。
その先に見える、崩れかけた屋根。
始まりの場所だった。
「……神社」
葵が呟いた。
槇原は頷いた。
「来たぞ」
その声には、かすかな安堵があった。
葵は石段を見つめた。
ここまで戻ってきた。
何度も道を間違え、恐ろしいものに追われ、それでも、とうとう始まりの場所へ戻ってきた。
あと少し。
あの鳥居をくぐれば、帰れる。
葵はそう思った。
そのとき、背後の森から何かを引きずる音がした。
ずる。
ずる。
槇原が振り返った。
遠くの木々の間で、黒いものが動いている。
枝が揺れた。
何かが近づいてくる。
「急げ!」
槇原が叫んだ。
二人は石段を駆け上がった。




