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第七章 帰るための計算

 槇原は古びたノートを取り出した。


 表紙には泥で汚れた文字が書かれていた。


『入退記録』


 葵は首を傾げた。


「……何ですか、それ」


 槇原はノートを開いた。


 そこには数字が並んでいた。


 日付、場所、矢印、そして正と負の符号。


「俺が四年かけて考えたことだ」


 彼は言った。


「間違ってるかもしれん。だが、少なくとも、これで説明できることは多い」


 葵は黙って聞いた。


 槇原はノートの中央に一本の線を引き、数字を書いた。


 0。


「ここが、俺たちのいた世界だ」


「……ゼロ?」


「ああ。便宜上な」


 槇原は続けた。


「普通の世界。人が生きて、時間が進んで、物が落ちる。俺たちが当たり前だと思ってた場所だ」


 それから、線の上に数字を書き足した。


 +1。


「鳥居をくぐって中へ入る」


 さらに、下に書いた。


 -1。


「帰るとき、同じ鳥居を逆からくぐる」


 葵は数字を見つめた。


 槇原が言った。


「それで帳尻が合う」


 葵は瞬きをした。


「……帳尻?」


「ああ」


 槇原は鉛筆で数字を囲った。


「一つ入って、一つ戻る。足して引いて、元に戻る。それなら何も起きない」


 葵は口を開いた。


 何かが、頭の中で繋がろうとしていた。


「でも、戻らなかったら?」


 槇原は葵を見た。


「戻らずに、横から出たら」


 葵の声が震えた。


「……どうなるんですか」


 槇原は答えた。


「戻ってないんだよ」


 葵は黙った。


「体は外へ出ても、戻るための手順を踏んでない。だから、こっちに残る」


「こっち……」


「俺は、ずっと世界が壊れたんだと思ってた」


 槇原は言った。


「けど、違うのかもしれん」


 壁に貼られた写真を指差した。


 そこには、静止した人間たちの姿が写っていた。


 駅のホーム。


 スーパー。


 公園。


 同じような景色が何枚も並んでいる。


「壊れたのは世界じゃない」


 槇原は葵を見た。


「俺たちの位置なんだ」


 葵は無意識にノートを見下ろした。


 0。


 +1。


 -1。


 子供でもわかる計算だった。


「……座標」


 彼女は呟いた。


 槇原が頷く。


「そうだ。俺はそう呼んでる」


 葵は顔を上げた。


「鳥居をくぐるたびに、世界の座標が変わる?」


「そう考えると辻褄が合う」


 槇原は言った。


「本当のところ、整数なのかどうかもわからん。境目が不安定になると、半分だけ向こうへずれたような場所もある。時間が遅くなったり、景色が繰り返されたりな」


 葵は今まで見たものを思い出した。


 同じ交差点。


 二つの現在地。


 空中で止まった五百円玉。


 動かない人間たち。


「……じゃあ、あの人たちは」


 彼女が尋ねる。


「時間が止まったんじゃなくて……」


「俺たちと、同じ場所にいない」


 槇原は答えた。


「目の前に見えてても、別のところにいるんだろう。だから、こっちから見りゃ止まってる」


 葵の胸が苦しくなった。


 美香の母親。


 包丁を持ったまま立ち尽くしていた女性。


 あの人は、どこにいたのだろう。


 自分たちが立っていた場所とは、少しだけ異なる世界。


 そこから、こちらを見ていたのだろうか。


「……じゃあ、私たちは……」


 葵は唇を舐めた。


「昨日、入ったまま……」


 槇原は頷いた。


「おそらく、お前の座標はまだ一つずれてる」


 葵はノートを見た。


 +1。


 たった二文字。


 それだけで、友人たちが消えた。


 そう思うと、怒りがこみ上げてきた。


「……そんなの」


 葵の声が震えた。


「そんなのおかしい」


 槇原は何も言わなかった。


「鳥居を通らなかっただけですよ」


「そうだな」


「そんなことで、人が死ぬんですか」


「……ああ」


「私たち、何も知らなかったんですよ!」


 葵は叫んだ。


 涙が頬を伝う。


「知らなかったのに!」


 槇原は黙っていた。


 葵は膝の上で拳を握り締めた。


 法律を知らなかったからといって、違反が許されるわけではない。


 自然の法則は、人間が理解しているかどうかに関係なく働く。


 そんなことはわかっていた。


 けれど、あまりにも残酷だった。


 何も知らずに入ってしまった。


 何も知らずに出てしまった。


 ただ、それだけのことなのに。


 槇原はノートを閉じた。


「俺も、ずっとそう思ってた」


 低い声だった。


「今でも思ってる」


 葵は顔を上げた。


 槇原は自分の手を見ていた。


「けどな」


 彼は続けた。


「怒ったって、戻れん」


 葵は黙った。


「戻りたきゃ、戻る方法を考えるしかない」


「……戻れるんですか」


 葵が尋ねた。


 槇原はすぐには答えなかった。


 それから、ノートをもう一度開いた。


 0の横に、+1を置く。


 その下に、-1を書く。


「お前は、まだ可能性がある」


 葵は数字を見つめた。


「一度入って、まだ戻ってない。それだけなら、同じ鳥居を逆にくぐればいい」


「……本当に?」


「俺の考えが合ってればな」


 葵は槇原を見た。


「じゃあ、あなたも」


 槇原は首を横に振った。


「俺は無理だ」


「どうして」


「何回くぐったか、わからん」


 槇原はノートに数字を書いた。


 +1。


 +2。


 +3。


 その下に、別の数字。


 +5。


 -2。


 そして、いくつもの疑問符。


「俺たちはパニックになって、何度も行ったり来たりした。別の鳥居を見つけたこともあった。あの山だけじゃない。街の中にも、ときどき入口ができる」


 葵は息を呑んだ。


「……別の鳥居?」


「ああ。いつも同じ場所にあるとは限らんが」


 槇原はノートを指で叩いた。


「途中で何回入ったのか、何回出たのか。もうわからん。どっちが表でどっちが裏なのかさえ、わからなくなる」


「でも、何度も戻れば……」


「途中で正しい場所を通り過ぎるかもしれん。それどころか、もっとひどいところへ行くかもしれん」


 槇原は目を伏せた。


「何度か試した。戻れなかった。いつの間にか、ここのほうがまだましだと思うようになった」


 葵は壁の地図を見た。


 無数の赤い印。


 書き込み。


 何度も消しては書き直した跡。


 四年間。


 この男は、一人で考え続けていたのだ。


 戻る方法を。


 生き延びる方法を。


 そして、いつか誰かに説明する方法を。


「……四年間、ずっとここに?」


 葵が尋ねた。


「ずっとじゃない。逃げ回ってる」


 槇原は頷いた。


「街が完全に止まると、連中が増える。そうなったら、動けるやつを見つけに来る」


「連中って……」


「お前が見たものだ」


 槇原はランタンを見つめた。


「世界の間違いを直そうとしてるんだろうな」


 葵は眉をひそめた。


「直す?」


「ああ」


 彼は少し考えた。


「例えば、パソコンで変なデータが見つかったら、どうする」


「……消す、とか」


「そう」


 槇原は葵を見た。


「俺たちは、ここの連中にとって変なデータなんだと思う」


 葵は自分の手を見た。


 指先が震えている。


 生きている。


 体温がある。


 呼吸をしている。


 それなのに。


 この世界では、自分が間違いなのだ。


「……じゃあ、あいつらは」


 葵は尋ねた。


「私たちを消そうとしてる?」


 槇原は答えた。


「そう考えといたほうがいい」


     *


 葵は壁にもたれた。


 頭が痛かった。


 恐怖と疲労と寝不足で、思考が鈍っている。


「……神社まで、戻りたいです」


 しばらくして言った。


 槇原は頷いた。


「だろうな」


「場所、わかりますか」


「わかる」


 槇原は壁の地図を指差した。


 山の中に、小さな赤い円が描かれていた。


「ここだ」


 葵は身を乗り出した。


「今いる場所から、どのくらい?」


「普通なら一時間もかからん」


「じゃあ」


「ただし」


 槇原は遮った。


「普通なら、だ」


 葵は黙った。


「今の道はまともに繋がってない。トンネルを抜けたと思ったら、街へ戻されることもある。さっき見ただろ」


 葵は頷いた。


「それに、夜はまずい」


「どうして?」


 槇原は少し考えた。


「昼と夜の区別があるのかどうかも、正直わからん」


 彼は壁の時計を見た。


 針のない時計だった。


「ただ、暗くなると連中が活発になる」


 葵は顔を伏せた。


「朝まで待ったほうがいいってことですか」


「そうだな」


 槇原は立ち上がった。


「少し寝ろ」


「……眠れません」


「眠らなくても横になれ。体力が要る」


 葵は頷いた。


 槇原は古い毛布を渡した。


 葵はそれを膝にかけた。


 毛布からは、乾いた土と埃の匂いがした。


 誰かが長く使っていたものの匂いだった。


 葵は目を閉じた。


 暗闇の中に、蓮の顔が浮かんだ。


 車の運転席。


 こちらを見つめる目。


 最後に言った言葉。


 またね。


 葵は唇を噛んだ。


 もう会えない。


 そう考えようとした。


 けれど、心のどこかで、まだ期待していた。


 もしかしたら、彼は生きているかもしれない。


 自分が見たものは、すべて幻覚だったのかもしれない。


 明日の朝、鳥居の前で待っているかもしれない。


 そんなことを考えた。


 そして、眠った。


 眠りに落ちる直前、遠くで誰かが自分の名前を呼んだような気がした。


 葵。


 よく知っている、優しい声だった。


 葵は返事をしなかった。


 返事をしたら、その声のいる場所へ行ってしまうような気がした。

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