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第六章 生存者

 暗闇の中を走り続けているうちに、葵は自分がどこにいるのかわからなくなった。トンネルの壁に沿って走っているつもりだったが、いつの間にか足元には落ち葉が積もり、頭上では木々の枝が絡み合っていた。遠くに車のヘッドライトらしい光が見えたこともあった。しかし、近づいてみると、それは月明かりを反射するだけの古い道路標識だった。


 呼吸が苦しい。足は痺れ、膝から下の感覚がほとんどなくなっていた。それでも立ち止まるわけにはいかなかった。背後からは、何かを引きずる音が聞こえ続けていたからだ。


 ずる、ずる。


 葵が走ると、音も速くなる。立ち止まると、音も止まる。距離は一向に縮まらず、かといって遠ざかることもなかった。


 とうとう足がもつれ、葵は斜面に倒れ込んだ。手のひらが小石に擦れて痛んだ。起き上がろうとしたが、腕に力が入らない。


 もう嫌だと思った。


 疲れた。眠りたい。何も見たくない。何も聞きたくない。どうして自分がこんな目に遭わなければならないのか、考える気力さえ残っていなかった。


「……誰か」


 声が掠れた。


「誰か、助けて」


 森は何も答えなかった。


 葵は地面に額をつけた。湿った土の匂いが鼻を満たす。頬に冷たいものが触れた。涙なのか、地面の水分なのか、もうわからなかった。


 そのとき、遠くで鈴の音がした。


 ちりん。


 葵は顔を上げた。


 木々の間に、小さな黄色い光が見えた。懐中電灯の光のようだった。光は一度消え、少し離れた場所で再び点灯した。


「……誰?」


 葵は声を絞り出した。


 すると、闇の奥から男の声が返ってきた。


「動くな」


 低く、掠れた声だった。年配の男の声に聞こえた。


「立とうとするな。そのまま足元を見ろ」


 葵は言われたとおりにした。右足のすぐ前に、細い糸が張られていた。釣り糸のようだった。糸は木の根元に結びつけられ、その先には小さな空き缶がいくつも吊るされている。


「右足を上げろ。ゆっくりだ」


 葵は従った。


「そのまま左へ二歩。……そうだ。今度は前に来い」


 黄色い光が近づいた。葵が数歩進んだところで、突然、何者かに腕を掴まれた。


 悲鳴を上げかけた瞬間、口を塞がれる。


「静かにしろ。死にたくなきゃ、声を出すな」


 葵は暗い隙間へ引き込まれた。木の幹だと思っていたものは、古いコンクリート壁を覆った板だった。奥には人が一人通れるほどの空洞がある。男は葵をそこへ押し込み、入口の板を閉じた。


 完全な暗闇になった。


 葵は男の手を振りほどこうとした。しかし、すぐに外から音が聞こえ、動きを止めた。


 ずる。


 ずる。


 何かが、壁の向こうを通り過ぎていく。


 距離はほんの数十センチしかないようだった。重く湿ったものが地面を擦り、そのたびに微かな振動が伝わってくる。


 葵は息を止めた。


 音が止まった。


 長い沈黙があった。


 こつ。


 壁の向こうを何かが叩いた。


 こつ、こつ。


 葵は目を見開いた。音はちょうど彼女の頭の高さから聞こえていた。まるで、壁の向こうにいる何かが、そこに人間の頭があると知っているかのようだった。


 男は動かなかった。


 こつ。


 もう一度。


 今度は、葵の耳のすぐ横だった。


 恐怖で体が震え始めた。心臓の音が大きくなり、この鼓動を聞きつけられるのではないかと思った。


 そのとき、少し離れたところで空き缶が鳴った。


 がらん、がらん。


 いくつもの金属音が、森の中へ響いた。


 壁の向こうの気配が動いた。今度は先ほどよりずっと速かった。重いものを引きずる音が遠ざかり、やがて完全に聞こえなくなった。


 男はそれでもしばらく動かなかった。


 やがて、葵の口から手を離す。


「……行ったな」


 小さなライトが点灯した。


 葵は目を細めた。


 目の前には、五十代半ばほどの男がいた。頬はこけ、無精髭が顔の半分を覆っている。髪には白いものが混ざり、額と目元には深い皺が刻まれていた。


 古い登山用のジャケットを着ていた。布地は何度も縫い直され、肩には別の服から切り取ったらしい布が当てられている。片方の手袋は指先がなく、露出した左手の薬指も途中から欠けていた。


 男は葵をじっと見つめた。


「……若いな」


 最初にそう言った。


「学生か?」


 葵は頷いた。


「名前は?」


「……水原、葵」


「水原葵か」


 男は小さく頷いた。


「俺は槇原。槇原泰三(まきはら たいぞう)だ」


 葵は男を見つめた。


 生きている人間だった。自分と会話をし、自分の意志で体を動かし、周囲の状況を判断している。


 ただそれだけのことが、信じられなかった。


「……あなたも」


 葵はようやく声を出した。


「あなたも、動けるんですか」


 槇原は葵を見つめたまま、少しだけ笑った。


「ああ」


 その笑顔はひどく疲れていた。


「まだな」


     *


 槇原の隠れ家は、古い保守用通路の奥にあった。


 山を貫くトンネルの側壁に設けられた狭い空洞から、さらに地下へ降りる。錆びた梯子を下り、低い天井の通路を進んだ先に、小さなコンクリートの部屋があった。


 かつては工事用の資材置き場だったのかもしれない。床には段ボールが敷かれ、壁には無数の紙が貼られていた。地図、日付、数字、名前、矢印。どれも長い時間をかけて書き足されたようで、書き込みのない余白を見つけるほうが難しかった。


 部屋の隅には、缶詰やペットボトル、乾パン、菓子パンの袋が積み上げられている。携帯用のガスランタンが、小さな橙色の光を放っていた。


 葵はその光を見つめた。


 誰かがここで暮らしている。


 一晩や二晩ではない。長い時間をかけて作られた生活の痕跡だった。


「座れ」


 槇原に言われ、葵は段ボールの上へ腰を下ろした。


 差し出されたペットボトルを受け取る。口に含んだ水は、驚くほど冷たかった。


 その水が喉を通った瞬間、涙が溢れた。


 葵はボトルを握ったまま泣いた。


 槇原は何も言わなかった。ただランタンの明かりを少し弱め、葵が落ち着くまで待っていた。


 やがて呼吸が整うと、男は尋ねた。


「何人で来た?」


「……四人です」


「神社へか?」


 葵は顔を上げた。


「知ってるんですか」


 槇原は答えなかった。


「今、何人残ってる?」


 葵は俯いた。


「……私だけ」


 槇原は短く息を吐いた。


 驚いていないようだった。


「そうか」


 それだけ言った。


「……友達が」


 葵は口を開いた。


「みんな、いなくなっちゃって」


 涙がまた溢れた。


「私、何もできなくて」


 美香の声。拓巳の血。蓮の手。次々に思い出した。


「一緒にいたのに……」


 槇原はランタンを見つめていた。


「最初は誰でもそうだ」


 しばらくして言った。


「わけがわからんうちに、一人ずついなくなる」


 葵は顔を上げた。


「……あなたも?」


 槇原は頷いた。


「俺も、最初は三人だった」


 その声には、長い疲労が滲んでいた。


「気づいたら、一人になってた」


     *


 槇原が行方不明になったのは、四年前の秋だった。


 登山仲間二人と近くの山を歩いていたとき、天候が悪化した。予定していたルートを外れ、日没が近づく中、三人は山中で古い神社を見つけた。


 そこに避難するつもりだった。


 しかし、鳥居をくぐった途端、何かがおかしくなった。


 コンパスが回り続けた。携帯電話の時計が止まり、来た道を戻ったはずなのに、同じ神社に出た。


 何度も。


 何度も。


 三人は焦った。出口を探し、境内を走り回り、鳥居を行ったり来たりした。


 そして、翌朝。


 一人が消えた。


 残った二人は街へ下りた。


 そこには人がいた。店も、車も、電車もあった。しかし、誰も動いていなかった。


「最初は、何かの実験だと思った」


 槇原は言った。


「映画の撮影か、大規模なドッキリか。そうじゃなきゃ説明がつかなかったからな」


 彼は自嘲するように笑った。


「説明がつかないものを見たとき、人間は自分の知ってるもので説明しようとする」


 葵は頷いた。


 自分と同じだった。


「それから?」


「もう一人は、三日目にいなくなった」


 槇原は淡々と答えた。


「何かが見えるって言い始めてな。俺には何も見えなかった。あいつはずっと首を振って、目を閉じて、やめてくれって叫んでた」


 彼はランタンの火を少し弱めた。


「最後は、自分から暗い場所へ入っていった」


「……どうして」


「わからん」


 槇原は首を振った。


「ただ、あのときのあいつは、何かに追われてるようにも、何かから逃げようとしてるようにも見えなかった」


 少し間を置いた。


「痛みを終わらせたかったんだと思う」


 葵は拓巳を思い出した。


 見えない何かに右手を食われていると叫んでいた男。そして、その痛みから逃れるために、自分自身を傷つけた男。


「……化け物は」


 葵が尋ねた。


「いるんですか」


 槇原はしばらく答えなかった。


「いる」


 やがて言った。


「ただし、見えるとは限らん」


 彼は壁の地図を指差した。


 赤い印が、街のあちこちに記されている。


「見たやつもいる。見なかったやつもいる。声だけ聞いた人間もいた。痛みだけ感じた人間もいた」


「人によって違う?」


「ああ」


 槇原は頷いた。


「そいつが何を怖がってるか、よく知ってるように思える」


 葵は拳を握った。


「じゃあ、私たちが見たものは……」


「全部が嘘ってわけじゃない」


 槇原は遮った。


「それだけは覚えとけ」


 彼は自分の左手を見せた。


 薬指がなかった。


「見えないものに触られたと思った次の日、指がこうなってた」


 葵は息を呑んだ。


「俺が何かしたのか、それとも本当に何かに食われたのか、今でもわからん」


 槇原は手を引っ込めた。


「ただ、ひとつだけわかったことがある」


「……何ですか」


「怖いと思ったことが、そのまま本当に起きるとは限らん」


 葵は彼を見つめた。


「見えてるものと、起きてることは別だ」


 槇原は言った。


「それを間違えると、死ぬ」

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