第五章 忘れ物
街全体が動かなくなってから、時間の感覚は急速に失われていった。
時計が信用できない。
空の色も信用できない。
建物の中では蛍光灯が点滅し、外へ出ると、さっきまで夕方だった空が昼間のように明るくなっていることもあった。
葵と蓮は、拓巳の車で街を移動していた。
佐倉家のリビングに置かれていた鍵を、蓮が回収したのだ。
運転免許は持っていたが、普段はほとんど運転しないらしく、最初は何度かエンストしかけた。
幸い、道路を走っている車はなかった。
正確には、走っているはずだった車が、すべて止まっていた。
交差点の中央。
高速道路の入口。
コンビニの駐車場。
歩道に乗り上げたまま動かない車もあった。
その運転席には、ハンドルを握り締めた人間がいた。
みんな、生きているように見えた。
けれど、誰も動かなかった。
「何で僕らだけなんだろう」
蓮が言った。
葵は助手席から窓の外を見ていた。
「わからない」
「美香さんの家族は、昨日の神社に行ってないよね」
「うん」
「なのに動かなくなった」
「そうだね」
「じゃあ、神社は関係ないのかな」
葵は答えなかった。
関係がないとは思えなかった。
しかし、どう関係しているのか説明できなかった。
彼らが昨夜、何かを持ち帰ってしまったのだろうか。
病原体。
放射性物質。
あるいは、何かの呪い。
葵は自分の思考に嫌気が差した。
呪いなどという言葉を、今まで真面目に考えたことはなかった。
理解できないからといって、超自然的なものへ答えを求めるのは安易だ。
けれど、目の前に広がる景色は、人間が理解できる範囲をとうに超えていた。
「水原さん」
蓮が言った。
「昨日の夜、何か見なかった?」
葵は彼を見た。
「……何か?」
「帰りの車で」
彼は前を見たままだった。
「ルームミラー見て、驚いてたから」
葵はしばらく黙った。
あの鳥居。
体を折り曲げた影。
こちらを見つめていた何か。
「……人みたいなのがいた」
ようやく答えた。
「鳥居のところに」
蓮はハンドルを握り直した。
「人?」
「うん。でも、変な格好してた」
「どんな?」
「腰から上が、横に折れ曲がってた」
蓮は何も言わなかった。
「たぶん見間違いだと思う」
葵は付け足した。
「暗かったし」
「……そうか」
蓮は短く答えた。
その声には、妙な重さがあった。
「野村くんも何か見た?」
「いや」
彼は首を振った。
「ただ、昨日のこと、ずっと考えてた」
「何を?」
「僕たち、帰るとき急いでたよね」
「うん」
「だから、何か忘れ物してる気がして」
葵の胸が小さく跳ねた。
「忘れ物?」
「わからない。車に乗ったときから、何か変な感じがしてるんだ」
蓮は困ったように笑った。
「忘れたことだけ覚えてる、みたいな」
葵は窓の外へ目を向けた。
道路脇の街路樹。
歩道橋。
動かない人間たち。
忘れ物。
何を忘れたのだろう。
財布でも、携帯電話でもない。
もっと根本的な何か。
彼らが昨夜、当然するべきだった何か。
その答えは、まだ出なかった。
*
夕方、街の形が変わり始めた。
最初に気づいたのは葵だった。
「……ここ」
「え?」
「さっき通らなかった?」
車は大通りを走っていた。
左側にガソリンスタンド。
右側には閉店したパチンコ店。
そして、道路の向こうには大きな歩道橋。
見覚えがあった。
十分ほど前にも通った景色だ。
「一本道だったよね?」
葵が尋ねる。
「うん」
「曲がってないよね?」
「曲がってない」
葵は後ろを振り返った。
車の後方には、長い直線道路が伸びていた。
そのはずだった。
しかし、少し先で道路が左に曲がっている。
「……あれ?」
蓮がブレーキを踏んだ。
車が停まる。
前方には歩道橋。
後方には左カーブ。
葵は地図アプリを開いた。
現在地は表示されない。
灰色の地図上に、青い点だけが点滅していた。
それも、二つ。
ほとんど重なるように。
ひとつは道路の上。
もうひとつは、山の中。
「何これ」
葵が画面を見せる。
蓮は目を細めた。
その瞬間、二つの点がひとつになった。
そして、画面全体が白くなった。
スマートフォンの電源が切れる。
「……壊れた?」
蓮が尋ねる。
葵は答えず、前を見た。
歩道橋の上に人が立っていた。
白いシャツを着た男だった。
手すりに片手を置き、道路を見下ろしている。
その男の首が、ゆっくりと右へ傾いた。
四十五度。
六十度。
九十度。
そのまま止まる。
葵は息を呑んだ。
男の頭は、肩に触れるほど傾いていた。
しかし、体は動かない。
蓮が気づいた。
「……あれ」
葵は頷いた。
男の口が開いた。
ゆっくりと。
ありえないほど大きく。
顎が胸元まで下がったように見えた。
けれど、何の声も聞こえない。
男の口の中には、暗闇があった。
葵はその暗闇を見つめてしまった。
奥に何かがある。
喉の奥。
もっと奥。
人間の体の中には存在しないはずの、深い空間。
その暗闇の向こうで、何かが動いた。
葵は目を閉じた。
「……行って」
震える声で言った。
「早く」
蓮はアクセルを踏んだ。
車が動き出す。
歩道橋の下をくぐった瞬間、葵は上から何かが落ちてくるような気配を感じた。
しかし、何も起こらなかった。
車はそのまま走り続けた。
葵はしばらく顔を上げられなかった。
*
二人はコンビニに立ち寄った。
店内の照明は点いていた。
自動ドアも動いた。
しかし、店員はレジの前で静止していた。
若い男性だった。
片手を差し出し、小銭を受け取ろうとしている。
客らしい女性は、財布から硬貨を取り出した姿勢で止まっていた。
その二人の間に、五百円玉が浮いていた。
葵は目を疑った。
硬貨は空中に静止していた。
床に落ちる途中のような角度で。
蓮がそっと指を伸ばした。
「触らないで」
葵は反射的に言った。
蓮が手を引っ込める。
五百円玉はそのまま浮いていた。
周囲の空気だけが、そこだけ異なる密度を持っているようだった。
二人は飲み物と食料を取った。
蓮はレジの横に紙幣を置いた。
「……払っても意味ないかな」
葵は首を横に振った。
「でも、置いておこう」
蓮は頷いた。
店を出ようとしたとき、葵は店内の防犯カメラを見つけた。
天井の隅。
小さな赤いランプが点滅している。
葵はレジ裏のモニターに目を向けた。
そこには店内の映像が映っていた。
動かない店員。
動かない客。
そして、入口付近に立つ葵と蓮。
しかし、何かがおかしかった。
モニターの中で、葵は一人だった。
蓮が映っていない。
「……野村くん」
葵は振り返った。
蓮はすぐ隣にいた。
「どうしたの?」
葵はもう一度モニターを見た。
今度は二人とも映っていた。
葵は目を擦った。
画面の右上では時刻が進んでいる。
しかし、その数字は途中で何度も飛んだ。
十八時十二分四秒。
十八時十二分五秒。
十八時十二分九秒。
十八時十三分一秒。
そして、十八時十二分四秒に戻った。
同じ映像が繰り返される。
葵は背筋に冷たいものを感じた。
「ねえ、帰ろう」
そう言った。
蓮は何も聞かなかった。
二人はコンビニを出た。
そのとき、自動ドアが開いたまま止まった。
店内の照明が一斉に点滅する。
ぱち。
ぱち。
ぱち。
そして、消えた。
*
夜が来るのは、異様に遅かった。
空はいつまでも暗い橙色を保っていた。
太陽は見えない。
雲も動かない。
街の照明は点いているものと消えているものが混在し、遠くから見ると巨大な建物の内部に無数の穴が開いているようだった。
葵たちは、ようやく街の外れへ辿り着いた。
山へ続く道路。
昨夜通った道だった。
「ここ……」
蓮が言った。
葵は顔を上げる。
右側に、小さな道の駅があった。
昨夜、拓巳がトイレへ立ち寄った場所だ。
そのとき葵は、何かを思い出した。
鳥居。
境内。
石段。
拓巳が鍵を落としたこと。
藪の中を抜けたこと。
そして、車に乗ったこと。
「……私たち」
葵が呟いた。
蓮が横を見た。
「どうしたの?」
「帰るとき」
葵は言葉を探した。
「鳥居、通ってない」
蓮の表情が変わった。
葵は続けた。
「行くときは、あの鳥居の真ん中を通った。でも、帰るときは横の道から出た」
蓮はしばらく黙っていた。
その目が、少しずつ見開かれていく。
「……そうだ」
小さく呟いた。
「僕ら、通ってない」
葵は胸の奥に奇妙な感覚を覚えた。
何かが繋がった。
ただし、それが答えなのかどうかはわからなかった。
「だからって、何でこんなことになるの?」
自分で言いながら、馬鹿げていると思った。
鳥居を通らなかった。
ただ、それだけのことだ。
世の中には何百万人もの人間がいる。
神社の参道を途中で引き返す人もいるだろう。
鳥居の横を通って帰る人間もいるだろう。
そんなことが原因で、世界が壊れるはずがない。
しかし。
「……戻ろう」
蓮が言った。
葵は彼を見た。
「神社に?」
「うん」
「でも、何があるかわからない」
「ここにいたって同じだと思う」
蓮はハンドルを握り直した。
「それに、僕も気になってたんだ。あの場所だけ、何か違った気がする」
葵は黙った。
昨夜の鳥居の中央にいた影が、頭に浮かんだ。
あそこへ戻りたくなかった。
二度と近づきたくなかった。
それでも。
ここにいても、何も変わらない。
葵は頷いた。
「……行こう」
蓮は車を発進させた。
山道が近づいてくる。
暗闇の向こうで、何かが二人を待っているようだった。
*
トンネルに入ったのは、午後九時頃だった。
正確な時刻はわからない。
ただ、車の時計が二十一時を表示した瞬間、ラジオから雑音が流れ始めた。
ザー。
ザー。
蓮がラジオを切った。
しかし、雑音は止まらなかった。
今度は車の後部座席から聞こえていた。
葵が振り返る。
誰もいない。
昨日、美香が座っていた席。
今夜、そこにはコンビニで買った飲み物が置かれているだけだった。
ザー。
葵は耳を澄ませた。
雑音ではなかった。
誰かの呼吸音に似ていた。
喉の奥で空気が擦れる音。
何かが、ひどく苦しそうに息をしている。
「……野村くん」
葵が囁いた。
「聞こえる?」
蓮は頷いた。
前を見たまま。
「……うん」
トンネルの照明が、ひとつずつ消え始めた。
前方から。
ぱちん。
ぱちん。
ぱちん。
闇がこちらへ近づいてくる。
「飛ばして!」
葵が叫んだ。
蓮がアクセルを踏み込む。
エンジン音が大きくなる。
しかし、車は加速しなかった。
速度計の針が四十キロを指したまま動かない。
五十。
六十。
針は動かない。
「何で!」
蓮が叫ぶ。
トンネルの出口が見えない。
後方を見ると、入口も消えていた。
ただ、同じ形の照明が延々と続いている。
葵は背中に冷たいものを感じた。
後部座席から、何かが近づいている。
座席のクッションが沈む音。
ぎし。
ぎし。
まるで、誰かが四つん這いになって移動しているようだった。
「見ないで」
蓮が突然言った。
葵は顔を向けた。
「え?」
「後ろ、見ないで」
蓮の顔は蒼白だった。
額に汗が浮いている。
彼は前を見つめていた。
しかし、その視線は道路ではなく、フロントガラスの内側にある何かを追っていた。
「……何が見えるの?」
葵が尋ねた。
蓮は答えなかった。
唇が震えていた。
「野村くん?」
「顔が」
蓮が小さく呟いた。
「……顔が、ある」
葵は凍りついた。
「どこに?」
「ガラスの……」
蓮は言葉を切った。
その目がゆっくりと上を向く。
「内側」
次の瞬間、フロントガラスにひびが入った。
蜘蛛の巣状の細い亀裂。
それが中央から広がっていく。
葵には何も見えなかった。
しかし、何かが外側から押しているようだった。
ガラスが内側へ膨らんでいる。
「止めて!」
葵が叫んだ。
蓮が急ブレーキを踏んだ。
車が大きく揺れる。
葵はシートベルトに胸を強く打ちつけた。
エンジンが停止した。
照明が一斉に消えた。
真っ暗になった。
数秒間、完全な無音が続いた。
それから。
からん。
車の外で、何かが落ちる音がした。
葵は呼吸を止めた。
からん。
もう一度。
今度は、すぐ近くから。
「……逃げよう」
蓮が言った。
「外に出て」
「でも」
「早く!」
蓮は葵のシートベルトを外した。
助手席のドアを開ける。
その瞬間、冷たい空気が流れ込んできた。
トンネルの中とは思えない、湿った土の匂い。
「走って!」
葵は車を降りた。
靴が濡れた地面を踏んだ。
見下ろすと、アスファルトではなかった。
黒い泥だった。
いつの間にか、トンネルの床が土に変わっている。
葵は振り返った。
車はそこにあった。
けれど、その後ろにはもう道路がなかった。
闇が広がっている。
空間そのものが、黒く塗り潰されているようだった。
「蓮!」
葵が叫ぶ。
蓮は運転席から出ようとしていた。
そのとき、彼の体が止まった。
右足を車外へ出した姿勢で。
葵は一瞬、美香の母親を思い出した。
しかし、違った。
蓮は動いていた。
ただし、自分の意志ではない。
首がゆっくりと後ろへ向いていく。
肩が持ち上がる。
口が開く。
彼は車内の暗闇を見つめていた。
「……葵」
初めて、名前を呼ばれた。
水原さん、ではなく。
葵。
その声が、ひどく遠く聞こえた。
「……逃げて」
蓮の体が後方へ引っ張られた。
運転席のシートへ叩きつけられる。
さらに、その奥へ。
ありえない方向に。
車内には、それほどの空間はない。
それなのに、蓮の上半身が闇の中へ沈んでいく。
「蓮!」
葵は車へ駆け寄った。
彼の腕を掴む。
温かかった。
生きている人間の腕だった。
蓮も葵の手を握り返した。
「離して!」
「嫌だ!」
「葵!」
蓮は叫んだ。
彼の肩が、闇の奥へ引き込まれる。
骨が軋むような音がした。
「逃げろ!」
葵は手を離さなかった。
蓮の指が、葵の手首に食い込む。
痛いほど強く。
しかし、突然。
彼の手から力が抜けた。
蓮の顔が、妙に穏やかになった。
恐怖が消えた。
痛みも消えたようだった。
彼は葵を見つめた。
そして、微かに笑った。
「……またね」
その言葉を最後に、蓮の体は暗闇へ消えた。
葵の手の中には、何も残らなかった。
直後、車のドアが勢いよく閉まった。
がちゃん。
葵は尻餅をついた。
運転席は空だった。
シートベルトが揺れている。
車内灯が、ぼんやりと点灯している。
そこには誰もいなかった。
葵はしばらく、空の運転席を見つめていた。
蓮の最後の声が、何度も頭の中で繰り返された。
またね。
どうしてそんなことを言ったのだろう。
また会えるはずがないのに。
葵は泣いた。
声を出さずに。
ただ、涙が頬を伝った。
それからようやく、立ち上がった。
トンネルの奥では、何かが動いていた。
足音ではなかった。
重い布を引きずるような音。
ずる。
ずる。
葵は走った。
何も見えない暗闇の中を。
自分がどこへ向かっているのかもわからないまま。
ただ、走り続けた。




