第四章 見えないもの
午後三時。
佐倉家の時計は、午前九時零分十二秒を指したままだった。
葵はその数字を何度も確認した。時計が壊れているだけなのか、それとも時計が示す時刻に何か意味があるのか、判断できなかった。
リビングのテレビは電源が入っていた。
画面には朝のニュース番組が映っている。男性アナウンサーが何かを話している姿勢で静止していた。
リモコンを操作しても、画面は変わらなかった。
葵はテレビの前に立った。
映像は止まっている。
しかし、アナウンサーの目が、ゆっくりと動いた。
ぎち。
画面の右端から、中央へ。
そして、葵を捉えた。
葵は反射的に後ずさった。
「……どうしたの?」
蓮が尋ねる。
「今、テレビの人が……」
言いかけて、葵は口を閉じた。
もう一度画面を見る。
アナウンサーは元の姿勢で静止していた。
目も動いていない。
自分の見間違いだったのかもしれない。
けれど、もうそう考えることに疲れていた。
「……何でもない」
葵はテレビから離れた。
拓巳はソファに座り、美香のスマートフォンを握っていた。彼女の部屋に置かれていたものだった。画面には何度も着信履歴が表示されていたが、その大半は拓巳自身からの電話だった。
「……何なんだよ」
拓巳が呟いた。
葵は顔を向けた。
「美香、何でいなくなったんだよ」
答えられなかった。
拓巳は両手で顔を覆った。
「俺、昨日さ」
しばらくして、彼が言った。
「美香が帰りたいって言ったとき、もっと早く帰ればよかった」
葵は黙って聞いていた。
「鍵とか、あんなふざけたことしなきゃよかった」
拓巳の声が震えた。
「石蹴ったのだって、別に本気で神様馬鹿にしたかったわけじゃなくて」
葵は彼を見た。
拓巳は顔を上げなかった。
「……怖がらせたら面白いと思っただけなんだよ」
その言葉を聞いて、葵は胸の奥が痛くなった。
拓巳は確かに軽率だった。
ふざけてはいけない場所でふざけたし、美香の不安を面白がっていた。けれど、だからといって、こんな目に遭っていいはずがなかった。
そのとき、キッチンから小さな音がした。
とん。
何かが落ちる音だった。
蓮が顔を上げた。
「……今の」
三人はキッチンへ向かった。
美香の母親は、相変わらず包丁を持った姿勢で立っていた。
しかし、まな板の上にあった大根の切れ端が、一つだけ床に落ちていた。
葵はそれを見つめた。
さっきまでは、確かにまな板の上にあった。
誰も触れていない。
それなのに。
「……動いた?」
蓮が呟いた。
葵は頷いた。
そのとき、母親の目が動いた。
ぎち。
視線が葵を捉える。
それから、キッチンの奥へ向いた。
勝手口があった。
ドアはわずかに開いていた。
「……何か、見てる」
葵は小さく言った。
蓮が隣に来た。
「何を?」
「わからない。でも、何か伝えようとしてるみたい」
葵は勝手口へ近づいた。
ドアの隙間から、狭い通路が見えている。
隣家との境界に設置されたブロック塀。植木鉢。使い古された園芸用品。
その地面に、黒い染みがあった。
葵は目を凝らした。
足跡だった。
裸足の、人間の足跡。
ただし、右足のものしかなかった。
一歩。
もう一歩。
足跡は勝手口から家の中へ続いていた。
「……誰か入った?」
葵が呟く。
蓮が隣にしゃがんだ。
「何かある?」
「これ」
葵は足跡を指差した。
蓮はしばらく地面を見つめていた。
「……どれ?」
葵は彼を見た。
「見えない?」
「何が?」
蓮は本当に困惑しているようだった。
葵はもう一度地面を見た。
黒い足跡が並んでいる。
勝手口の敷居を越え、キッチンの床まで続いていた。
そして、美香の母親のすぐ後ろで途切れている。
そこには何もいなかった。
何もいないはずだった。
葵はゆっくりと立ち上がった。
母親の目が、激しく動いていた。
ぎちぎちぎち。
何かを追いかけている。
葵には見えない、何かを。
「……野村くん」
葵が小さく言った。
「ここ、出よう」
蓮は頷いた。
そのときだった。
「……あ?」
拓巳が声を漏らした。
二人が振り返る。
拓巳は自分の右手を見つめていた。
指を開いたり閉じたりしている。
「どうしたの?」
葵が尋ねる。
「いや、何か……」
拓巳は眉をひそめた。
「指、痛え」
右手の人差し指を、左手で押さえる。
「何だこれ」
彼は小さく笑った。
「めっちゃ痛えんだけど」
その笑いが、途中で消えた。
「……え?」
拓巳の顔から血の気が引いた。
右手を胸元へ引き寄せる。
「待って」
その声は、葵たちに向けられたものではなかった。
「……待てって」
彼は右手を激しく振った。
「痛っ!」
葵は駆け寄ろうとした。
しかし、その直前に見てしまった。
拓巳の人差し指の爪が、ゆっくりと浮き上がっていた。
根元から。
何かに引っ張られるように。
「……何だよ、これ」
拓巳が呟いた。
爪がさらに浮く。
指先から血が滲む。
拓巳は絶叫した。
「痛え!」
爪が剥がれた。
乾いた音がして、床に落ちる。
葵は息を呑んだ。
誰も触れていない。
拓巳自身も、爪に触れていない。
それなのに。
中指の爪が浮いた。
次に、薬指。
拓巳が床に膝をつく。
「やめろ! やめろって!」
右手を左手で押さえ、必死に何かから逃れようとする。
「拓巳!」
蓮が近づこうとした。
「来るな!」
拓巳が叫んだ。
「そこにいる!」
彼は何もないキッチンの中央を指差していた。
「お前ら、見えねえのかよ!」
葵は指差された方向を見た。
何もなかった。
美香の母親。
冷蔵庫。
窓から差し込む午後の光。
ただ、それだけだった。
「何がいるの!」
葵が叫ぶ。
拓巳は目を見開いた。
その視線は、葵たちの頭上を通り越していた。
「……何だよ、お前」
拓巳の唇が震える。
「何で、そんな……」
彼は後ずさった。
背中が流し台にぶつかる。
「顔……」
視線がゆっくりと上へ動く。
「顔、どこにあんだよ……」
葵には何も見えなかった。
しかし、拓巳の表情だけで、それが人間の理解を超えたものであることはわかった。
彼は泣いていた。
子供のように。
「やだ」
拓巳が呟いた。
「やだ、やだ、やだ」
次の瞬間、右腕が前方へ引っ張られた。
まるで誰かに手首を掴まれたようだった。
拓巳の肩が持ち上がり、体が不自然に傾く。
彼は絶叫した。
「食うな!」
葵は動けなかった。
「やめろ! 俺の手だろ!」
拓巳は右腕を引き戻そうとした。
何かと綱引きをしているように。
首の血管が膨らみ、肩の筋肉が浮き上がる。
しかし、右手は前方に固定されたままだった。
「食われてる!」
拓巳が叫んだ。
「手が! 俺の手が食われてる!」
葵は彼の右手を見た。
爪が剥がれた指先。
床に落ちた血。
しかし、それ以外の損傷はなかった。
それなのに、拓巳は何かに腕を噛み砕かれているかのように苦しんでいた。
「蓮、何か!」
葵が叫ぶ。
蓮は拓巳の肩を掴んだ。
「落ち着いて! 何もいない!」
「いるんだよ!」
拓巳が蓮を突き飛ばした。
「見えてねえだけだろ!」
その直後、拓巳の表情が変わった。
恐怖でも、怒りでもなかった。
何かを思いついた顔だった。
助かる方法を見つけた人間の顔。
葵は、その変化に気づいた。
拓巳が流し台へ目を向ける。
包丁立てに、数本の包丁が入っていた。
「……だめ」
葵は小さく言った。
拓巳の左手が伸びる。
包丁の柄を掴む。
「拓巳、だめ!」
葵は走った。
しかし、間に合わなかった。
拓巳は包丁を振り下ろした。
鈍い音がした。
一度目。
そして、もう一度。
葵は悲鳴を上げた。
拓巳は、何かを断ち切ろうとするように刃を振るった。
彼の右手首が、ありえない角度に曲がった。
その瞬間、何かが床に落ちた。
重く、柔らかい音だった。
拓巳の叫び声が途切れた。
葵はゆっくりと目を開けた。
床に右手が落ちていた。
手首から先。
五本の指が、まるでまだ何かを掴もうとしているかのように曲がっている。
拓巳はそれを見つめていた。
彼の顔は、奇妙なほど穏やかだった。
「あ……」
小さく息を吐く。
「……いなくなった」
その声は、ひどく安心していた。
葵は口元を押さえた。
拓巳は笑おうとした。
「ほら……」
唇が震える。
「助かった……」
その直後、彼の膝が折れた。
体が傾く。
床へ倒れ込む。
赤い血が、白いタイルの上を広がっていった。
蓮が駆け寄った。
「拓巳くん!」
葵も膝をついた。
出血を止めなければならない。
何かで傷口を圧迫しなければならない。
頭の中では、何度も同じ言葉が繰り返されていた。
蓮が布を掴み、傷口へ押し当てる。葵も手を添えたが、血は止まらなかった。
現実の人間が、こんなふうに壊れるところを、葵は見たことがなかった。
拓巳の顔が白くなっていく。
唇が小刻みに震える。
その目が、葵を見た。
「……あおい」
「喋らないで」
「美香……」
葵は泣きそうになった。
「探すから。絶対探すから」
拓巳は微かに頷いた。
そのとき、彼の視線が葵の肩越しへ移った。
何もない空間を見つめる。
そして、表情が凍りついた。
「……違う」
拓巳が呟く。
「まだ、いる」
葵は振り返った。
キッチンの奥。
勝手口の前。
何もいない。
しかし、床には新しい足跡があった。
右足だけの、濡れた足跡。
一歩。
また一歩。
葵たちのほうへ近づいている。
「……逃げろ」
拓巳が囁いた。
蓮が彼の肩を抱き起こそうとした。
その瞬間。
拓巳の体が、床を滑った。
まるで足首を掴まれ、後方へ引きずられたように。
「拓巳!」
蓮が腕を掴んだ。
しかし、異常な力で引っ張られる。
拓巳の背中が床を擦る。
彼はもう叫んでいなかった。
ただ、目を見開いていた。
見えているのだ。
最後まで。
葵たちには見えない何かが、彼のすぐそばにいる。
拓巳の体は勝手口へ向かって滑っていった。
途中で、ふっと動きが止まった。
誰かが一時停止のボタンを押したように。
次の瞬間。
彼の全身が、暗い水に沈むように床の向こうへ消えた。
音もなく。
何の抵抗もなく。
そこにあったはずの肉体が、世界から抜け落ちた。
葵は動けなかった。
蓮も、拓巳の服を掴もうとした姿勢のまま固まっていた。
床に残っていたのは、血の跡だけだった。
それから、切り離された右手。
葵はその手を見つめた。
何もかも消えてしまったわけではない。
血は残っている。
傷は残っている。
あの出来事のすべてが幻覚だったのなら、ここにあるものは何なのだろう。
そのとき、葵は理解した。
拓巳が見ていたものは、自分たちには見えなかった。
けれど、彼の苦痛は本物だった。
そして、その苦痛から逃れようとして彼がしたことも、現実だった。
何かが、人間の感じる痛みを利用している。
肉体を直接壊す必要さえない。
人間は、痛みから逃げるためなら、自分で自分を壊してしまう。
葵は胃の中のものを吐いた。
*
それからしばらくして、飛び出すように家を出た。
蓮が葵を支えていた。
葵は自分の足で歩いているつもりだったが、何度も膝が折れそうになった。
玄関の外に出る。
住宅街は静まり返っていた。
通りに人の姿があった。
隣家の前で、買い物袋を持った女性が立っている。
少し先には、自転車に跨ったまま動かない少年。
交差点には、片足を踏み出した姿勢の老人。
誰も動かなかった。
庭の木々も揺れていない。
電線に止まった鳥も、翼を開きかけた姿勢で静止していた。
空には飛行機があった。
白い機体が、雲の下に浮かんでいる。
まるで写真の中の景色だった。
「……何これ」
葵が呟いた。
蓮は答えなかった。
道路の向こうでは、自動車が一台、交差点の中央で停車している。
運転席の男性は、ハンドルを握った姿勢で動かなかった。
信号機の表示は青だった。
しかし、車も、人も、鳥も。
何ひとつ動いていない。
葵は空を見上げた。
雲の形が変わらなかった。
風が吹かない。
葉が落ちない。
時間だけが、どこかへ失われていた。
「水原さん」
蓮が静かに言った。
「僕たち、帰れるのかな」
葵は彼を見た。
いつも遠慮がちな表情をしていた男が、今は何も隠していなかった。
怖いのだ。
彼も。
自分と同じように。
葵は蓮の手を握った。
「帰ろう」
そう言った。
「絶対に」
それが何を意味するのか、まだわかっていなかった。
ただ、そう言う以外に何もできなかった。




