第三章 佐倉家
佐倉家は住宅街の端にあった。
白い外壁の二階建て住宅で、小さな庭には季節外れの朝顔の蔓が残っている。門柱には「佐倉」と書かれた表札があり、玄関脇には美香が以前SNSに投稿していたものと同じ鉢植えが置かれていた。
「美香!」
拓巳がインターホンを押した。
返事はなかった。
もう一度押す。
電子音が鳴る。
しかし、家の中からは何の物音も聞こえなかった。
「……入るぞ」
拓巳がドアノブを回した。
鍵はかかっていなかった。
扉が開く。
その瞬間、葵は奇妙な感覚を覚えた。
家の中が静かすぎる。
生活音がしない、というだけではなかった。周囲の音そのものが、玄関を境に薄くなっているようだった。外では車が通る音がしていたのに、敷居を越えた途端、それが急に遠くなった。
「……美香?」
拓巳が呼びかけた。
返事はない。
三人は靴を脱ぎ、廊下を進んだ。
リビングには、食べかけの朝食が残されていた。
トーストが二枚。半分ほど残ったオレンジジュース。新聞紙。開いたままのノートパソコン。
ソファにはクッションが無造作に置かれ、テレビのリモコンが床に落ちていた。
普通の朝の続きだった。
ただ、誰もいなかった。
「……お母さん?」
拓巳がキッチンへ目を向けた。
葵もそちらを見た。
女性が立っていた。
四十代半ばくらいだろうか。淡い水色のエプロンを着て、まな板に向かっている。右手に包丁を握り、左手で大根を押さえていた。
包丁の刃は、大根の中心あたりまで食い込んでいた。
女性はその姿勢のまま、まったく動かなかった。
「……佐倉さん?」
拓巳が近づいた。
女性の肩へ手を置く。
次の瞬間、彼は短い悲鳴を上げた。
「うわっ!」
「どうしたの?」
「……硬え」
拓巳が後ずさった。
「全然、動かねえ」
葵も近づいた。
女性は確かに生きているように見えた。肌には血色があり、手に触れると温かかった。しかし、腕も肩も、まるで彫刻のように固定されていた。
葵は恐る恐る女性の手首に触れた。
脈は感じられなかった。
しかし、それが脈拍の停止を意味するのか、自分がうまく測れていないだけなのか判断できなかった。
「救急車……」
スマートフォンを取り出し、番号を押す。
発信。
しかし、呼び出し音が鳴らなかった。
画面には接続中の表示が残り続けている。
「何で……」
葵はもう一度試した。
結果は同じだった。
そのとき、蓮が声を上げた。
「水原さん」
葵は顔を上げた。
「……こっち、見て」
女性の目が動いていた。
ぎち。
そんな音が聞こえたような気がした。
眼球だけが、ゆっくりと葵のほうへ向く。
そして、止まった。
女性は葵を見ていた。
まぶたは動かない。
頬も、口元も、眉も。
ただ、瞳だけがこちらを捉えていた。
葵は息を呑んだ。
次の瞬間、女性の目尻から涙が溢れた。
一滴。
頬を伝う。
表情は変わらない。
それなのに、涙だけが流れ続けていた。
「……生きてる」
蓮が呟いた。
葵は頷くこともできなかった。
女性の眼球が、突然ものすごい速さで動き始めた。
右。
左。
右。
左。
ぎちぎちぎち。
何かを訴えようとしている。
何かを伝えようとしている。
葵はその目を見つめた。
助けて。
そう言っているのかもしれない。
あるいは。
逃げて。
そう言っているのかもしれなかった。
*
二階にも人がいた。
美香の父親は書斎にいた。机に向かい、パソコンのキーボードに指を置いたまま動かない。
弟は自室で制服に着替えていた。右腕をシャツの袖へ通しかけた姿勢で、完全に静止している。
どちらも温かかった。
どちらも目だけが動いた。
葵は廊下の壁に手をついた。
吐き気がこみ上げてきた。
彼らは死んでいない。
意識も残っている。
だとすれば、いったいどんな感覚なのだろう。
体を動かそうとしても動かせない。呼吸しているのかどうかさえわからない。目を閉じることも、助けを呼ぶこともできない。
自分が生きていることを知っているのに、その証明を外へ伝える手段がない。
そんな状態で、どれほどの時間を過ごしているのだろう。
「……美香は?」
拓巳が言った。
「美香、どこだよ」
彼は部屋を開けて回った。
「美香!」
その声には、怒りが混ざっていた。
恐怖を怒りに変えているのだと、葵は思った。理解できない出来事を、自分が扱いやすい感情へ置き換えようとしている。
「ふざけんなよ!」
拓巳が壁を殴った。
「ドッキリならもう十分だろ!」
返事はなかった。
葵は美香の部屋へ入った。
薄いピンク色のカーテン。鏡台に並んだ化粧品。ベッドに置かれた小さなぬいぐるみ。机の上にはノートパソコンが開かれていた。
画面には、昨夜のグループチャットが表示されていた。
拓巳が撮った写真が並んでいる。
山道の看板。
鳥居の前で撮った四人の集合写真。
石碑の前でふざける拓巳。
葵は写真を見つめた。
鳥居の前の集合写真。
確かに四人が写っている。
しかし、背景の鳥居の中央だけが、異様に暗かった。
夜だからではない。
黒いペンで塗り潰したように、奥行きがなかった。
葵は画面を拡大しようとした。
そのとき、背後で蓮が息を吸った。
「……水原さん」
葵は振り返った。
蓮は部屋の隅を見つめていた。
そこには服が落ちていた。
白いブラウス。
黒いスカート。
薄いベージュのカーディガン。
美香が今朝着ていたと思われる服だった。
しかし、脱ぎ捨てられたようには見えなかった。
人間が立っていた姿勢のまま、中身だけを抜き取られたように崩れていた。
ブラウスの両袖は、前方へ伸びている。
スカートの中には下着が残っていた。
床には靴下が二つ。
片方は、かかとの形を保ったまま横倒しになっていた。
葵はゆっくり近づいた。
服の内側を覗く。
何もない。
血も、髪の毛も、皮膚の欠片も。
ただ、空っぽだった。
美香という人間が、そこから抜け落ちていた。
拓巳が部屋に入ってきた。
「……何だよ、これ」
葵は答えられなかった。
拓巳は床に膝をつき、ブラウスを拾い上げた。
香水の匂いが残っていたのだろう。
彼の表情が歪んだ。
「……美香?」
小さく呼んだ。
「おい」
ブラウスを揺らす。
「……どこ行ったんだよ」
葵は目を逸らした。
拓巳の手の中で、白い布が頼りなく揺れていた。
そのとき、部屋のドアがゆっくりと閉まった。
ぎい。
三人が一斉に振り返る。
誰も触れていない。
風も吹いていない。
扉は最後まで閉まりきらず、数センチの隙間を残して止まった。
その隙間から、廊下が見えていた。
白い壁。
茶色い床。
階段の手すり。
何もいない。
葵は、その隙間の向こうに立つ何かを想像した。
見えないものを、脳が補おうとしている。
それはわかっていた。
けれど、どうしても考えずにはいられなかった。
誰かが、こちらを覗いている。
そして、その誰かは。
こちらから見えていないことを、知っている。




