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第二章 九時零分

 翌朝、葵は七時四十二分に目を覚ました。


 寝不足のはずだったが、頭は妙にはっきりしていた。ベッドから起き上がり、カーテンを開ける。曇り空の下に、いつもの住宅街が広がっていた。


 向かいのマンションでは、女性が洗濯物を干していた。道路を挟んだコンビニには配送トラックが停まり、作業服姿の男性が段ボール箱を運んでいる。


 何ひとつ変わらない朝だった。


 昨夜の出来事も、明るい部屋の中ではずいぶん現実味を失っていた。


 社殿の奥に見えた腕のようなもの。ルームミラーに映った、奇妙な姿勢の人影。どちらも暗い場所で一瞬だけ目撃したものだった。


 葵は大学で心理学を専攻していた。


 だから、脳が不完全な情報をどのように補完するのか、ある程度は知っている。暗闇の中で人影を見るのは珍しいことではないし、恐怖によって感覚が鋭くなれば、些細な刺激にも過剰に反応してしまう。


 パレイドリア。知覚的補完。期待による認知の歪み。


 説明のつく現象だった。


 少なくとも、説明がつくと思うことはできた。


 葵は洗面所へ向かい、顔を洗った。鏡の中には、目の下に薄い隈を作った自分が映っている。


「……寝不足」


 声に出してみる。


 いつもと同じ声だった。


 冷蔵庫から牛乳を取り出し、トーストを焼く。テレビをつけると、朝の情報番組が流れていた。


『週末は広い範囲で晴れる見込みですが、日曜日の夕方からは――』


 葵はパンをかじった。


 そのとき、テレビの映像が一瞬だけ止まった。


 気象予報士が口を開いたまま静止する。


 ほんの一秒にも満たない時間だった。


 すぐに映像は動き始め、何事もなかったように予報が続いた。


『――雨が降るところもありそうです』


 葵はリモコンを見た。


 通信障害だろうか。


 最近はテレビをつける機会も少なかったし、機械の調子が悪くなっていてもおかしくはない。


 深く考えず、電源を切った。


 八時三十五分、家を出た。


     *


 異変に気づいたのは、駅前の交差点だった。


 信号待ちをしている人が十五人ほどいた。


 スーツ姿の会社員。制服を着た高校生。ベビーカーを押した若い母親。買い物袋を持った老人。


 葵は彼らの後ろに立ち、信号が変わるのを待っていた。


 ふと、前の男性が瞬きをした。


 その隣の女性も、同時に瞬きをした。


 さらに、その隣にいた高校生も。


 葵は少し眉をひそめた。


 偶然だと思った。


 しかし、次の瞬間。


 全員が、同時に目を閉じた。


 十五人のまぶたが、まったく同じタイミングで下がる。そして、同じタイミングで上がった。


 葵は息を止めた。


 もう一度。


 全員が同時に瞬きをした。


 まるで一つの機械に制御されているかのように。


 葵は隣の女子高生を見た。彼女はスマートフォンを操作している。指先は動いていたし、呼吸もしていた。イヤホンから漏れる音楽に合わせて、わずかに首を揺らしている。


 ただ、瞬きのタイミングだけが、周囲の人間と完全に一致していた。


 葵は腕時計を見た。


 八時五十八分。


 信号が青になった。


 人々が一斉に歩き始める。


 葵は動けなかった。


 目の前で、十五人が同時に右足を踏み出した。


 続いて、左足。


 足音が重なった。


 たん。


 十五人分の足音が、ひとつに聞こえた。


 葵は後ずさった。


 人々は横断歩道を渡っていく。


 笑っている者もいた。電話をしている者もいた。何かを話しながら歩いている者もいた。


 すべてが、ごく普通の朝の風景だった。


 瞬きと足音を除けば。


 そのとき、スマートフォンが鳴った。


 画面には、佐倉美香の名前が表示されていた。


 午前九時ちょうどだった。


「……もしもし?」


『葵?』


 美香の声だった。


 ただし、昨夜とはまるで違っていた。


 喉が潰れそうなほど掠れている。呼吸が浅く、言葉の途中で何度も息を吸い込んでいた。


「どうしたの?」


『ねえ、葵、今どこ?』


「駅前だけど」


『お願い、来て』


「え?」


『お願いだから、うち来て』


 泣いていた。


 葵は横断歩道から離れ、建物の壁際へ移動した。


「美香、落ち着いて。何があったの?」


『お母さんが』


 電話の向こうで、何かを擦るような音がした。


『お母さんが、動かないの』


「動かない?」


『朝ごはん作ってたの。キッチンで、大根切ってて、それで、ずっと……』


「倒れたの?」


『違う!』


 美香が叫んだ。


『立ってるの! ずっと立ってるの!』


 葵は黙った。


『声かけても返事しないし、触っても全然動かないし、救急車呼ぼうとしたんだけど電話が繋がらなくて、それで……』


「美香」


『でもね』


 美香の声が急に小さくなった。


『目が』


「……目?」


『目だけ動くの』


 葵は交差点を見た。


 さっきまで一斉に歩いていた人々が、向こう岸へ渡り終えようとしている。


『お母さん、私のこと見てるの』


 美香が息を吸った。


『ずっと。目だけで追いかけてくるの』


「美香、家から出て」


『ねえ、何これ』


「聞いて。いったん外に出よう。私も行くから」


『お母さん、泣いてる』


 葵の指先が冷たくなった。


『動かないのに、涙だけ出てる』


「美香!」


『ごめんなさい』


 葵は言葉を失った。


「……何?」


『ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい』


 美香は同じ言葉を繰り返していた。


 葵に謝っているわけではなかった。


 もっと近くにいる、別の誰かに向かっているようだった。


『もうしないから』


「美香、誰に話してるの?」


『もう、あそこ行かないから』


 葵は息を呑んだ。


 昨夜の神社。


 それ以外に、思い当たる場所はなかった。


『お願い、だから……』


 美香の声が途切れた。


 しかし、通話は切れていない。


 画面には通話中の表示が残っていた。


「……美香?」


 葵は耳を澄ませた。


 呼吸音が聞こえない。


 生活音も、何もない。


 完全な静寂。


 やがて、遠くから小さな音がした。


 からん。


 硬いものが床に落ちる音。


 昨夜、神社で聞いた音に似ていた。


「美香!」


 返事はなかった。


 葵は震える手で通話を切り、拓巳の番号を押した。


     *


 三人が集まったのは、正午を少し過ぎた頃だった。


 大学の正門前にあるファミリーレストラン。普段なら学生で混雑している時間帯だったが、店内は妙に空いていた。


「美香、連絡つかねえんだけど」


 拓巳はスマートフォンを操作しながら言った。


 昨日までとは別人のように落ち着きがない。テーブルに置いた水にも手をつけず、何度も美香へ電話をかけていた。


「俺にも朝、電話があったんだよ。何か変なこと言ってたけど」


「何時?」


 葵が尋ねる。


「九時くらい」


「私にもあった」


 拓巳は顔を上げた。


「マジで?」


「うん。お母さんが動かないって」


「そう、それ!」


 拓巳は指を鳴らした。


「俺にも同じこと言ってた。けど、意味わかんねえじゃん。動かないって何だよって聞いたら、いきなり切れたんだよ」


 葵は少し迷ってから、今朝見た交差点の話をした。


 信号待ちの人々が、同時に瞬きをしていたこと。


 同じタイミングで歩き始め、足音まで揃っていたこと。


 拓巳は眉をひそめた。


「それ、何かの偶然じゃねえの?」


「私も最初はそう思った」


「葵、昨日の神社でビビりすぎなんじゃない?」


 いつもの拓巳なら、そこで笑っていたはずだった。


 しかし、今日は笑わなかった。


 蓮が二人の会話を聞いていた。


「……昨日のことと、関係あるのかな」


 彼が言った。


 葵は顔を向けた。


「わからない。でも、美香は最後に、もうあそこへ行かないって言ってた」


 拓巳が舌打ちした。


「あいつ、昨日のことまだ気にしてんのか」


「拓巳くんが石碑蹴ったからでしょ」


「だから、悪かったって」


 珍しく反論しなかった。


 葵はその顔を見て、少しだけ驚いた。


 拓巳は怖がっていた。


 自分で認めたくないだけで、美香からの電話を聞いて以来、何かがおかしいと感じているのだろう。


「とりあえず、美香さんの家に行ってみよう」


 蓮が言った。


「ここで考えてても、わからないし」


 葵は頷いた。


 拓巳はすぐに立ち上がった。


「行こう」


 三人が店を出るとき、女性店員がレジの前で頭を下げた。


「ありがとうございました」


 ごく普通の接客だった。


 しかし、葵がドアの前で振り返ると、女性はまだ同じ姿勢で立っていた。


 腰を深く折り曲げたまま。


 頭を上げずに。


 まったく動かなかった。

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