第一章 入る
人が何かを忘れるとき、そこには二つの種類がある。
ひとつは、覚えていたものを失うこと。もうひとつは、覚えておくべきだったことに、最初から気づかないことだ。
水原葵がその違いを知ったのは、十月の終わりだった。
もっとも、そのとき彼女は、自分が何を忘れたのかさえ理解していなかった。何かを忘れたという認識そのものが、後になってから生まれたものだった。
その夜、彼女は三人の友人と山奥の神社にいた。
ただ、それだけのことだった。
*
「だから、こんな山奥だなんて聞いてないって!」
助手席から佐倉美香の声が響いた。深夜の山道を走る車の中には、暖房の乾いた空気と、コンビニで買ったフライドチキンの匂いが漂っている。スマートフォンから流れる音楽は、三十分ほど前から同じプレイリストを繰り返していた。
「山奥の廃神社って言ったじゃん。むしろ街中にあったら怖くねえだろ」
江藤拓巳はハンドルに片手を添えたまま笑った。法学部の二年生で、誰に対しても物怖じしない男だった。もっとも、その性格が単なる無神経さなのか、ある種の社交性なのかについては、葵の中でもまだ結論が出ていない。
「普通さ、肝試しってもっとこう、すぐ帰れるところでやらない?」
「帰れるところだったら、肝試しにならねえじゃん」
「もう会話にならないんだけど」
「いつものことじゃん」
二人のやり取りを聞きながら、葵は窓の外へ目を向けていた。
道路の両側には杉の木が密集している。ヘッドライトが照らす範囲だけが薄く浮かび上がり、その向こうには奥行きのわからない暗闇が続いていた。ガードレールはところどころ途切れ、反射板の欠けた標識が、忘れられたように立っている。
時刻は午前零時を少し過ぎていた。
「水原さん、寒くない?」
隣から声がした。
野村蓮だった。
彼は葵と同じ大学の文学部に通っている。一般教養の講義で知り合い、何度か言葉を交わすようになった。普段は教室の後方で本を読んでいることが多く、拓巳とは対照的に、自分から会話の中心に入ろうとしない。
「少しだけ。でも大丈夫」
「窓、閉めようか」
「野村くんが暑くなければ」
蓮は小さく頷いて、電動ウインドウのスイッチを押した。窓が閉まると、隙間から入り込んでいた冷たい空気が途切れ、車内は再び暖房の音だけになった。
「野村くんって、こういうの好きなの?」
「肝試し?」
「うん。あんまり来るタイプに見えなかったから」
「好きっていうか、気になって」
「何が?」
「古い神社とか、廃墟とか。人が使わなくなった場所って、ちょっと面白いなと思う」
葵は彼の横顔を見た。
「文学部っぽいね」
「そうかな」
「なんとなく」
蓮は困ったように笑った。
その笑い方を、葵は嫌いではなかった。相手に何かを要求しない、静かな笑い方だった。四人でいるときはどうしても拓巳と美香が会話の大半を占めるから、蓮と話せるのはこうした移動中くらいだった。
葵が今夜の誘いを断らなかった理由のひとつも、そこにあった。
「そういえば、あの本読んだ?」
蓮が尋ねた。
「ああ、こないだ教えてくれたやつ? まだ半分」
「どう?」
「面白い。でも主人公が何考えてるのかわかんない」
「そこが面白いんだと思う」
「野村くん、そういうの好きだよね」
「全部説明されると、読むところがなくなる気がして」
葵は少し笑った。
「心理学専攻としては、説明できない人間って厄介なんだけど」
「現実でも?」
「現実ではもっと厄介」
蓮はその答えを聞いて、なぜか嬉しそうに笑った。
前の座席では、美香が拓巳のスマートフォンを奪っていた。ナビゲーションを確認しながら、目的地までの残り時間が表示されないことに文句を言っている。
「ねえ、あと何分?」
「もうすぐだって」
「さっきからそれしか言わないじゃん」
「もうすぐだからな」
「絶対迷ってるでしょ」
「迷ってねえよ。ほら」
拓巳がフロントガラスの向こうを指差した。
その瞬間、葵にも見えた。
道路の先。
木々の間に、赤黒いものが立っている。
鳥居だった。
*
車を停めた場所は、小さな待避所のようになっていた。舗装はところどころ剥がれ、白線もほとんど消えている。すぐ脇には山から流れてきた水が細い溝を作っており、落ち葉が黒い塊になって詰まっていた。
四人が車を降りると、冷えた空気が一斉に押し寄せてきた。
「寒っ」
美香が両腕を抱えた。薄いニットに短いスカートという格好で、どう考えても山奥へ来るための服装ではなかった。
「だから上着持ってこいって言ったろ」
「拓巳がすぐ終わるって言ったんじゃん」
「じゃあ俺の貸す?」
「最初からそうして」
拓巳は笑いながらパーカーを脱いだ。その様子を横目に、葵は鳥居へと視線を移した。
近づいてみると、想像していたより大きかった。
高さは四メートルほど。二本の柱は妙に細く、笠木だけが大きく左右へ張り出している。かつて朱色に塗られていたらしい表面は黒ずみ、ところどころ木肌が剥き出しになっていた。
その柱には、異様な数の傷があった。
爪で引っかいたような細いものから、刃物を深く押しつけたようなものまで、縦横に無数の溝が走っている。長い年月をかけて自然に傷んだというよりも、誰かが繰り返し削り取ろうとしたような、執拗な傷つき方だった。
左の柱には、膝ほどの高さに三角形の欠けがあった。
そこから上へ向かって細かな傷が続き、人間の胸ほどの位置で不自然に重なり合っている。
「これ、何か書いてあったのかな」
葵は柱へ顔を近づけた。
傷の中には一定の方向へ続くものもあったが、表面があまりに荒れていて、何かの形として捉えることはできなかった。
「昔の落書きじゃない?」
美香が後ろから覗き込んだ。
「肝試しに来た人がやったとか」
「それにしては古そうだけど」
「わかんないよ。こんなところ、何十年も前から来る人いたかもしれないし」
葵は頷いた。
確かに、その可能性はあった。
鳥居には太い注連縄が巻かれていた。縄は変色し、ところどころが擦り切れている。その上からさらに細い縄が何重にも巻きつけられ、白い紙垂が不規則に垂れ下がっていた。
風はない。
しかし、一枚だけ、紙垂の先がかすかに動いていた。
「おい、何やってんの。早く行こうぜ」
拓巳が先に進んでいた。
「ちょっと待って!」
美香が慌てて追いかける。
蓮は葵の隣に立ったままだった。
「気になる?」
「うん。何か変だなって」
「古い神社だからじゃない?」
「それもあるんだけど」
葵はもう一度柱を見た。
無数の傷。
三角形に欠けた木肌。
傷の奥に残った、暗い色。
何が気になったのか、自分でもよくわからなかった。
「まあ、いいか」
そう言って、鳥居から離れる。
蓮が先に歩き出した。
葵もその後ろを追った。
二本の柱の間を通り抜けた瞬間、耳の奥が詰まるような感覚があった。
高い山へ車で上ったときや、飛行機が離陸するときのような、気圧の変化に似ていた。
葵は思わず唾を飲み込んだ。
ぱちん。
耳の奥で、小さな音がした。
何かの留め具が外れるような音だった。
「……あれ?」
足を止める。
蓮が振り返った。
「どうしたの?」
「耳、変じゃなかった?」
「耳?」
「今、急に詰まった感じがして」
蓮は少し考えたあと、首を横に振った。
「僕は大丈夫だけど」
「そっか」
葵は耳に指を当てた。
違和感はもう消えている。
山の気圧のせいだろう。
そう結論づけて、再び歩き始めた。
その背後で、白い紙垂が一枚、音もなく落ちた。
*
境内は、想像していたより狭かった。
鳥居の先には六段ほどの石段があり、上りきったところに小さな拝殿が建っている。屋根の半分は崩れ、正面の扉も傾いていた。床板が何枚か外れており、内部には黒い空洞が見えている。
社殿の周囲は雑草に覆われ、石灯籠も片方しか残っていなかった。
参道の脇には苔むした石碑が立っている。
葵はその石碑を見て、少しだけ足を止めた。
何かが削られていた。
石の表面には、本来文字が刻まれていたらしい凹凸がある。しかし、中央から上半分にかけて深い傷が重なり、ほとんど判読できなかった。
「何これ、めっちゃ雰囲気あるじゃん」
拓巳がスマートフォンのライトを向けた。
「写真撮ろうぜ。心霊スポット来ました、みたいな」
「やだよ、絶対変なの写るって」
「写ったらバズるだろ」
「そういう問題じゃない!」
拓巳は石碑に片足を乗せ、ふざけたポーズを取った。
美香が笑いながら撮影する。
葵は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
「ねえ、これ神社の名前わかる?」
蓮が石碑を照らした。
「文字が削れてて読めない」
葵も近づいた。
石の下部に、かろうじて二つの文字が残っている。
片方は「帰」に見えた。
もう片方は、半分ほど欠けていてわからない。
「……変わった石碑だね」
蓮が言った。
「何が?」
「神社の名前なら、普通はもう少し上に書いてあると思うんだけど」
「確かに」
「これ、注意書きだったのかな」
葵は少し考えた。
「だったら、わざわざ削る意味がわかんないけど」
蓮は頷いた。
そこで拓巳が二人の間に割り込んできた。
「お前ら、研究しに来たんじゃねえんだからさ」
「何だよ、江藤くん」
「もっと怖がれよ。肝試しだぞ」
そう言うと、拓巳は石碑を軽く蹴った。
ごつん、と鈍い音が響いた。
「おい、神様。いるなら出てこいや!」
「ちょっと、やめなって!」
美香が彼の腕を引く。
「こういうことするから呪われるんだよ!」
「呪われるならとっくに呪われてるわ」
「そういうことじゃない!」
拓巳は笑いながら、もう一度石碑を蹴った。
そのときだった。
社殿の奥から、音がした。
からん。
何か硬いものが、木の床に落ちたような音だった。
四人は同時に振り返った。
拝殿の内部は暗い。
拓巳がライトを向ける。
崩れた床板。
湿った木の柱。
奥にある、小さな祭壇のような台。
誰もいない。
「……風じゃない?」
美香が呟いた。
「風、吹いてないけど」
葵が答える。
からん。
もう一度、音がした。
今度は先ほどより近い。
美香が拓巳の腕を強く掴んだ。
「もう帰ろ」
「え、まだ五分も経ってなくね?」
「いいから!」
拓巳は面倒くさそうに笑った。
「わかったって。帰ろうぜ」
彼はポケットから車の鍵を取り出した。
そして、美香の目の前で揺らした。
「ただし、鍵があればな」
美香の表情が固まった。
「……は?」
「うわー、どっか落としたかも」
「ちょっと、ふざけないで!」
拓巳は鍵を背中に隠した。
「探してみ?」
「拓巳!」
二人が境内を走り回り始めた。
葵は呆れてため息をついた。
「ほんと、よく付き合ってるよね」
蓮が小さく笑った。
「仲いいんだと思うよ」
「そうなのかな」
「喧嘩してても、いつも一緒にいるから」
葵は蓮を見た。
「野村くんって、意外と人のこと見てるよね」
「水原さんほどじゃないよ」
「私?」
「うん。よく見てると思う」
蓮は少し照れたように目を逸らした。
葵はその表情を見て、何か言おうとした。
しかし、その瞬間、背後から別の音が聞こえた。
ずる。
重いものが、木の床を擦るような音。
葵は振り返った。
拝殿の奥。
暗闇の中で、何か白っぽいものが動いた。
人間の腕に見えた。
ただし、関節の位置がおかしかった。
肘が二つある。
あるいは、腕が二本重なっているのかもしれない。
その先に、長い指が見えた。
床板の隙間を掴んでいる。
一本。
二本。
三本。
指が、ゆっくりと開いていく。
「……拓巳!」
葵は叫んだ。
自分でも驚くほど大きな声だった。
「もういいから、帰ろう!」
拓巳と美香が動きを止めた。
蓮も葵の視線を追った。
葵がもう一度拝殿を見たとき、白いものは消えていた。
「何だよ、葵まで怖くなった?」
「いいから、早く!」
拓巳は何か言い返しかけたが、葵の顔を見て黙った。
美香が彼の手から鍵を奪おうとする。
拓巳が反射的に腕を引いた。
その拍子に、鍵が手から滑り落ちた。
からん、からん。
鍵は石段を跳ね、参道の脇へ転がっていく。
「あっ、やべ!」
「もう最悪!」
拓巳が石段を駆け下りた。
美香がその後ろを追う。
葵も急いで歩き始めた。
拝殿から、また何かを引きずる音が聞こえた。
ずる。
ずる。
今度は、少し速かった。
葵は振り返らなかった。
*
鍵は鳥居の横に生えた茂みの中に落ちていた。
拓巳がそれを拾い上げたとき、美香は半泣きになっていた。
「ほんとにもう、いい加減にしてよ!」
「悪かったって!」
「全然反省してない!」
「してるしてる」
拓巳は立ち上がった。
その場所には、道路へ抜ける細い獣道があった。
草が踏み倒され、人が一人通れるほどの隙間ができている。
「こっちから出られるじゃん」
拓巳が言った。
「わざわざ戻らなくてよくね?」
そう言って、茂みをかき分けた。
美香が続く。
葵は一瞬だけ立ち止まった。
少し離れたところに、鳥居が立っている。
黒ずんだ柱。
巻きつけられた縄。
無数の傷。
そこを通って帰ったほうが、道としては自然だった。
しかし、蓮が呼んだ。
「水原さん、こっち足元悪いから気をつけて」
彼は獣道の入口で待っていた。
葵は頷いた。
「ありがとう」
蓮が差し出した手を借り、茂みを抜けた。
そして、鳥居の横から道路へ出た。
あのとき、葵は何も忘れたつもりがなかった。
鳥居をくぐらなかったことも、単なる近道だと思っていた。
だから、もう一度そこを通る必要があるなどとは、考えもしなかった。
*
帰りの車では、美香がずっと文句を言っていた。
拓巳がコンビニでアイスを買うことを約束し、ようやく機嫌が直ったのは山道を半分ほど下りた頃だった。
「絶対もう行かないからね、ああいうとこ」
「はいはい」
「次は普通に遊園地とか行こうよ」
「お化け屋敷は?」
「それは別にいい」
「何が違うんだよ」
「出口があるじゃん」
美香の何気ない言葉に、葵は少し笑った。
そういうものかもしれない。
出口があるとわかっていれば、人は安心して怖がれる。
お化け屋敷の怪物は人を殺さないし、暗い通路も必ず明るい場所へ繋がっている。恐怖を娯楽として楽しめるのは、結末が保証されているからだ。
そう考えていると、隣の蓮が小さな声で言った。
「さっき、ありがとう」
「何が?」
「神社で。早く帰ろうって言ってくれて」
葵は首を傾げた。
「野村くんも怖かった?」
「うん。少し」
「意外」
「僕、怖がりだよ」
蓮は笑った。
「でも、葵がいたから平気だった」
葵は彼を見た。
蓮は自分が何を言ったのか、遅れて気づいたようだった。
「……いや、変な意味じゃなくて」
「変な意味って?」
「その、落ち着いてる人がいると安心するっていうか」
葵は小さく笑った。
「私だって怖かったよ」
「そうなの?」
「当たり前じゃん」
蓮も笑った。
車の中に、ようやく普段の空気が戻ってきた。
拓巳が音楽を流し、美香がそれに合わせて歌っている。街の明かりが少しずつ増え、スマートフォンの電波も戻っていた。
葵はもう一度、山の方を見ようと思った。
何となく、そうしたかった。
けれど、直接振り返るのは少し怖かった。
そこで、フロントガラスの上にあるルームミラーへ目を向けた。
ミラーには、後部座席の自分と蓮、それからリアウインドウの向こうの夜道が映っていた。
赤いテールランプに照らされた道路。
黒い木々。
そして、遠ざかっていく鳥居。
葵は目を細めた。
鳥居の中央に、誰かが立っていた。
人間の形だった。
ただし、胴体が腰の位置から直角に折れ曲がっている。
上半身は地面と平行になり、頭がその先から垂れ下がっていた。
それなのに、顔だけがこちらを向いていた。
距離があるため、表情はわからない。
しかし、その目が自分を見ていることだけは、なぜかはっきりとわかった。
葵は息を呑んだ。
反射的に振り返る。
リアウインドウの向こうには、暗い道路が広がっていた。
鳥居はもう見えない。
何もいなかった。
「……どうしたの?」
蓮が尋ねた。
葵はゆっくりと前へ向き直った。
「……何でもない」
そう答えた。
説明しても、信じてもらえない気がした。
何より、自分自身が信じられなかった。
車は山道を下り続けた。
午前一時十七分。
最初の交差点に差しかかったとき、信号が赤になった。
拓巳がブレーキを踏む。
車が停まる。
横断歩道の向こうに、一人の男が立っていた。
黒いスーツを着た中年の男だった。
こんな時間に何をしているのだろう、と葵は思った。
男は信号が青になっても動かなかった。
車が横を通り過ぎる瞬間、葵はその横顔を見た。
男は目を閉じていた。
そして、車が彼の真横を通過した瞬間。
目を開けた。
まるで、何かの合図を待っていたように。




