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『大国主神、昭和五十五年に生まれ直す 〜失われた三十年を始まる前に叩き潰す〜』  作者: あちゅ和尚


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第8話 薬の町の小さな神

 大阪・道修町の朝は、薬の匂いで始まる。


 表通りには、背広姿の男たちが早足で行き交う。


 薬種問屋。


 製薬会社の看板。


 古い蔵を残した店。


 新しいビルに建て替わった会社。


 軒先には、昔からの商いの気配と、これから大きくなっていく時代の匂いが混じっていた。


 その一角に、小槌薬業という古い薬問屋がある。


 大きな会社ではない。


 だが、町医者、薬局、産婆、鍼灸院、地方の小さな診療所まで、細い取引先をいくつも持っていた。


 広い帳場には、木の棚が並んでいる。


 棚には薬草、軟膏、消毒薬、胃腸薬、湿布薬、包帯、体温計、ガーゼ、古い木箱に入った煎じ薬の材料。


 新しい薬も扱うが、昔ながらの薬も残している。


 店の奥で、赤子が泣いた。


「真名彦、また起きたんか」


 祖母の小槌千代が、手を拭きながら奥の座敷へ向かった。


 赤子の名は、小槌真名彦。


 生まれてまだ間もない。


 だが、この子は妙だった。


 抱いても泣き止まない時がある。


 白湯でも、揺り籠でも駄目な時がある。


 ところが薬草の箱を少し開けると、ぴたりと泣き止む。


 苦い匂い。


 乾いた根の匂い。


 刻んだ葉の匂い。


 煎じた湯気の匂い。


 大人でも顔をしかめるような匂いに、この子は安心したように目を細める。


「ほんま、変わった子やねえ」


 千代は笑いながら、真名彦を抱き上げた。


 赤子は、小さな手を空へ伸ばした。


 その指先の向こうで、見えない糸が震えている。


 薬。


 医者。


 町。


 病人。


 商い。


 古い連絡札。


 そして遠く東京で眠る、大きな神の気配。


 真名彦の内に宿る小さな神の御魂は、その全てをぼんやりと感じていた。


 だが、身体は赤子である。


 首も据わらない。


 舌も回らない。


 手足は頼りない。


 世を救う知恵があっても、泣くことと眠ることしかできない。


 それが、腹立たしかった。


「おお、怒っとる怒っとる」


 千代は赤子の顔を見て、また笑った。


「何をそんなに急いどるんや」


 真名彦は答えない。


 ただ、小さな拳を握った。


      ◇


 帳場では、真名彦の父、小槌清吾が伝票を睨んでいた。


 三十代後半。


 細身で、神経質そうな目をしている。


 数字には強い。


 だが、近頃はその数字が、どうにも気に食わなかった。


「また大口優先か」


 清吾は低く呟いた。


 机の上には、二つの注文票がある。


 一つは、大きな病院へ納める消毒薬と包帯のまとまった注文。


 もう一つは、町外れの小さな診療所からの注文。


 量は少ない。


 利益も薄い。


 だが、その診療所は夜間往診もする。


 近くに大病院がない地域で、年寄りや子供を診ている。


 そこから、ガーゼと消毒薬と胃腸薬、それから解熱用の坐薬が足りないと連絡が来ていた。


 清吾は、その診療所を知っている。


 先代からの取引先だ。


 古くて、支払いも早いとは言えない。


 だが、あそこが止まると困る人間がいる。


 それも知っている。


 番頭の野口が言った。


「若旦那、大病院の方を先に回しましょう。数が大きいです」


「それはわかってる」


「小口は明日でも」


「明日で間に合うのか」


「そこまでは」


 清吾は唇を噛んだ。


 商売として見れば、大口を優先するのは当然である。


 まとまった注文。


 確実な支払い。


 配送効率。


 倉庫の在庫。


 どれを取っても、大病院が先だ。


 だが、医薬は普通の商品ではない。


 遅れてもいい物と、遅れたら困る物がある。


 それを同じ帳面で見ると、間違う。


 清吾はそう感じていた。


 しかし、どう分ければよいのかがわからない。


 その時、奥から真名彦の泣き声が響いた。


 高い泣き声だった。


 清吾は顔を上げた。


 泣き声は、まるで何かを叱っているようだった。


「また始まったか」


 野口が苦笑する。


「元気なお子ですな」


 清吾は返事をしなかった。


 なぜか、その泣き声が胸に引っかかった。


 もう一度、机の上の注文票を見る。


 大口。


 小口。


 金額。


 利益。


 納期。


 それだけでは足りない。


 必要度。


 代わりがあるか。


 今日届かなければ誰が困るか。


 そこが帳面にない。


 清吾は、伝票の端に鉛筆で線を引いた。


 そして、小さく書いた。


 急ぎの理由。


 野口が覗き込む。


「若旦那、何ですかそれは」


「注文票に、急ぎの理由を書く欄を作る」


「理由、ですか」


「ああ。大口か小口かだけで見たら、医薬は間違う」


 野口は少し困った顔をした。


「しかし、全部聞くとなると手間です」


「全部ではない。小口でも急ぎそうなものだけでいい」


「基準は」


 清吾はそこで詰まった。


 基準。


 それがいる。


 思いつきでは店は回らない。


 感情だけで動けば、倉庫は乱れる。


 だが、数字だけで動けば、薬が届くべきところに届かない。


 奥で、真名彦がもう一度泣いた。


 清吾は、はっとしたように顔を上げた。


「野口さん」


「はい」


「昔、うちに連絡札があっただろう。夜間に医者を呼ぶ時や、薬を急ぎで出す時の」


「ありましたな。先代の頃の」


「まだ残っているか」


「お母様が昨日、古い木箱を出しておられました。たぶん、その中に」


 清吾は立ち上がった。


「持ってきてくれ」


      ◇


 古い連絡札は、薄い木の板だった。


 墨で書かれた文字は、ところどころ薄れている。


 医者。


 産婆。


 荷車。


 夜間に起こしてよい家。


 急病人が出た時に走る若い衆。


 薬湯を用意できる家。


 そこには、古い町の知恵があった。


 今の帳面ほど細かくはない。


 しかし、何が急ぎで、誰に声をかければいいかが一目でわかる。


 清吾は、それをじっと見つめた。


「これや」


 千代が真名彦を抱いたまま、帳場に立っていた。


「急にどうしたんや」


「おふくろ、これを今の注文に使えないかと思って」


「昔の札を?」


「ああ。今は電話もある。車もある。伝票もある。けど、誰が本当に急いでいるか、帳面だけでは見えない」


 千代は、赤子の背を軽く叩きながら頷いた。


「昔はな、薬は物だけやなかった。誰が届けるか、誰が煎じるか、誰が飲ませるか、そこまで含めて薬やった」


 清吾は黙った。


 その言葉は、胸に落ちた。


 薬は、物だけではない。


 届いて、使われて、効いて、初めて薬になる。


 倉庫に積まれているだけでは、ただの在庫だ。


 大国主が東京で感じた「金は血である」という感覚に似たものが、ここにはあった。


 真名彦の小さな神の御魂は、父の腕の中ではなく、祖母の腕の中でそれを聞いていた。


 薬は、巡らねばならない。


 必要な場所へ。


 必要な時に。


 必要な形で。


 そのためには、古い札を新しい帳面に変えればいい。


 赤子は泣き止んだ。


 清吾が、ふと真名彦を見る。


「泣き止んだな」


 千代が目を細める。


「この子、薬の話が好きなんかもしれんね」


「赤子が薬の話をわかるわけないやろ」


 そう言いながら、清吾はなぜか笑えなかった。


 真名彦の黒い目が、じっと自分を見ていたからだ。


      ◇


 その日の午後、小槌薬業では新しい紙が作られた。


 急配札。


 清吾がそう名づけた。


 連絡札ではない。


 注文票でもない。


 急ぎの薬を、どこへ、なぜ、いつまでに届けるかを見るための札である。


 紙には、いくつかの欄があった。


 届け先。


 薬の種類。


 数。


 急ぎの理由。


 代わりがあるか。


 誰が運ぶか。


 支払い見込み。


 後で確認すること。


 野口は最初、渋い顔をした。


「手間が増えますな」


「増える」


 清吾は認めた。


「だが、全部の注文に使うわけではない。迷った時に使う」


「迷った時」


「大口が先か、小口が先か。利益が大きい方か、急ぎの方か。そういう時に、この札を挟む」


「若旦那、商売は情だけでは続きませんよ」


「わかってる。だから支払い見込みも書く」


 清吾は、急配札の下の欄を指で叩いた。


「ただで出すわけじゃない。踏み倒されても困る。だが、急ぎの理由を見ずに後回しにするのも違う」


 野口はしばらく紙を見ていた。


 やがて、少しだけ肩の力を抜いた。


「先代に似てきましたな」


「親父に?」


「ええ。先代もよく言ってました。薬問屋は、儲けるだけなら薬でなくてもええ。薬を扱うなら、届け方まで商いだと」


 清吾は、父のことを思い出した。


 厳しい人だった。


 金に細かく、情にも細かい人だった。


 若い頃の清吾には、その二つが矛盾して見えていた。


 だが今なら少しわかる。


 情だけでは潰れる。


 金だけでは薬が死ぬ。


 その間に、商いがある。


「まず、あの診療所からやる」


 清吾は言った。


「大病院の分は午前便で半分出す。残りは午後便。診療所の急ぎ分は、野口さん、薬局への便に乗せられるか」


「途中で少し回れば行けます」


「回った分の手間賃は付ける」


「よろしいんですか」


「ただで急げと言えば、次から急ぎが雑になる」


 野口は、にやりと笑った。


「それは、その通りですな」


 清吾は急配札を一枚取り、診療所の注文票に挟んだ。


 小さな紙だった。


 だが、その紙を挟んだ瞬間、注文票の意味が変わった。


 ただの小口注文ではない。


 今日届かせる理由のある薬になった。


      ◇


 夕方、野口が戻ってきた。


 額に少し汗をかいている。


「間に合いました」


「診療所は何と言っていた」


「助かったと。今夜、子供の熱で呼ばれている家があるそうです。坐薬が切れていたら困るところだったと」


 清吾は、息を吐いた。


「そうか」


「あと、先生から伝言です」


「何だ」


「急ぎなら急ぎの理由を書けと言われる方が、こちらも気が楽だそうです。ただ急がせているみたいで、いつも言いにくかったと」


 清吾は驚いた。


「向こうもか」


「はい」


 薬を出す側だけではない。


 頼む側も、気を遣っている。


 急げと言えば迷惑かもしれない。


 金払いが遅れているのに強く言いにくい。


 そんな遠慮が、必要な薬を遅らせることがある。


 清吾は急配札を見た。


 これは、こちらのためだけの札ではない。


 向こうが「急ぐ理由」を言いやすくする札でもある。


 清吾は、帳面の余白に書いた。


 急ぎの理由を聞くことは、相手を疑うことではない。


 必要な順番を共に決めること。


 その文字を見て、野口が小さく頷いた。


「若旦那、それは店の決まりにしましょう」


「まだ早い」


「早くありません。こういうのは、最初に決めないと人によって変わります」


 清吾は苦笑した。


「番頭に言われるとは思わなかった」


「手間を増やすなら、せめてきれいに増やしてください」


 その言い方に、清吾は初めて声を出して笑った。


      ◇


 その夜、小槌家の座敷では、真名彦が布団の上で眠っていた。


 母の美津子が、そっと団扇を動かしている。


 千代は古い連絡札を磨いていた。


 清吾は、急配札の控えを見ながら座っている。


「そんなに見つめて、穴でも開ける気ですか」


 美津子が笑った。


「いや。今日、少しわかった気がしてな」


「何がです」


「薬は、物じゃない」


 美津子は団扇を止めた。


「物じゃなかったら、何です」


「流れや。必要なところに届くまでが薬なんや」


 千代が嬉しそうに笑った。


「先代が聞いたら喜ぶわ」


「親父なら、まだ遅いと言うやろ」


「言うやろねえ」


 清吾は真名彦を見た。


 赤子は眠っている。


 小さな胸が、規則正しく上下している。


「この子が泣いた時、なぜか伝票を見直そうと思った」


 美津子が微笑む。


「親馬鹿ですね」


「そうかもしれん」


「でも、いい親馬鹿なら構いません」


 清吾は笑った。


 その時、真名彦の指が小さく動いた。


 夢を見ているようだった。


 その夢の中で、小さな神の御魂は、東京の光を見ていた。


 まつ乃弁当の結び札。


 大国製作所の灯。


 南東京信用金庫の机。


 片倉医院の往診鞄。


 そして大阪の急配札。


 二枚の札が、遠く離れた町で同じ意味を持ち始めている。


 困った時、誰に声をかけるか。


 必要なものを、どう届けるか。


 ただの善意ではなく、続けられる形にするか。


 それは、国の身体を作る骨であり、血であり、神経だった。


 真名彦は夢の底で笑った。


 ――大国主、そっちだけで進めるなよ。


 声にはならない。


 だが、遠く東京で眠る誠の夢に、その気配は届いた。


      ◇


 東京。


 大国家の二階で、誠は夜中に目を開けた。


 外では、遠くの工場の音がまだかすかに聞こえている。


 澄子は眠っている。


 徹も、疲れ切って布団に沈んでいる。


 誠は赤子の身体で、天井を見た。


 大阪から、薬の匂いが届いた気がした。


 消毒薬。


 煎じ薬。


 古い木箱。


 紙に墨の匂い。


 そして、小さな神の笑い。


 急配札。


 結び札。


 名前は違う。


 だが、同じものだ。


 必要な時に、必要な相手へ、必要なものを届けるための札。


 大国主神は、夢と目覚めの境で、静かに頷いた。


 食が動いた。


 医が動いた。


 金が動いた。


 工場が動いた。


 次は、それらを町ごとにつなぐ。


 東京だけでは足りない。


 大阪だけでも足りない。


 大田の町工場と、道修町の薬問屋。


 弁当屋と、町医者。


 信用金庫と、薬局。


 古い町の知恵を、新しい形に変える。


 それができれば、失われるはずだった三十年の最初のひびに、楔を打てる。


 誠は、赤子の喉で小さく声を出した。


「あ……」


 澄子が眠りの中で身じろぎした。


「誠……?」


 誠はすぐに目を閉じた。


 まだ早い。


 大人たちは、もう動き始めている。


 神は急ぎたい。


 だが、急ぎすぎれば人の足が追いつかない。


 結び目は、強く締めすぎれば切れる。


 少しずつ。


 しかし確実に。


      ◇


 翌朝、小槌薬業の帳場に、急配札が三枚並んだ。


 一枚目は、昨日の診療所。


 二枚目は、町の薬局からの不足品。


 三枚目は、産婆から頼まれた消毒綿とガーゼ。


 野口が渋い顔をしながらも、札の順番を並べ替えている。


「若旦那、これ、思ったより便利ですわ」


「手間が増えると言っていたじゃないか」


「手間は増えます。けど、迷う時間が減ります」


 清吾は、その言葉を聞いて笑った。


 迷う時間が減る。


 それは大きい。


 迷いが減れば、薬は早く動く。


 早く動けば、人が助かる。


 人が助かれば、店への信用も残る。


 清吾は、新しい帳面の表紙に文字を書いた。


 急配控。


 その横に、少し考えてから小さく書き足した。


 薬は、届いて初めて薬となる。


 千代がそれを見て、静かに頷いた。


「ええ言葉や」


 奥の座敷で、真名彦が小さく笑った。


 昭和五十五年。


 東京の町で結び札が生まれた翌日、大阪の薬の町では急配札が生まれた。


 まだ誰も知らない。


 その二つの札が、やがて食と医療と物流を結ぶ、最初の仕組みになることを。


 小さな神は、薬草の匂いに包まれながら眠っている。


 その眠りの奥で、もう一柱の神と、遠く離れた国造りの夢を分け合っていた。



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