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『大国主神、昭和五十五年に生まれ直す 〜失われた三十年を始まる前に叩き潰す〜』  作者: あちゅ和尚


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第5話 先生、工場に立つ

 東都医科大学の研究棟は、夜になると妙に寒かった。


 昼間は学生と医師と研究員が行き交い、白衣の裾が廊下を忙しく揺らす。


 だが夜になると、蛍光灯の白さばかりが残る。


 人の気配が減った研究室で、加納健一は一人、机に両肘をついていた。


 目の前には、試作中の小さな装置がある。


 薬液を、ほんの少しずつ送り出すための装置。


 大きなものではない。


 世界を変えるような姿にも見えない。


 だが、加納にとっては違った。


 薬は、量を間違えれば毒になる。


 速すぎれば身体が耐えない。


 遅すぎれば効かない。


 一定の量を、一定の速さで、必要な場所へ届ける。


 言葉にすれば簡単だ。


 だが、現実は簡単ではなかった。


 装置は何度も失敗している。


 薬液が詰まる。


 漏れる。


 送り出す量が揺れる。


 研究室にある部品を組み合わせても、どうしても安定しない。


 上の教授には言われた。


「加納くん、そういう装置は海外製を買えばいいんじゃないかね」


 確かに、買えば早い。


 買えば、論文も出るかもしれない。


 だが、加納は納得できなかった。


 必要なものを、必要な時に、必要な形で作れない国は、いずれ誰かに首根っこを押さえられる。


 医療も同じだ。


 薬も、機械も、部品も、すべて外から買えばいい。


 そう言い続けた先に何があるのか。


 加納には、まだそこまで大きな言葉はなかった。


 ただ、胸の奥に妙な苛立ちだけがあった。


 自分たちで作れないことへの苛立ち。


 作ろうとする者が軽く見られることへの苛立ち。


 そして、自分に力が足りないことへの苛立ち。


 机の上に置かれた紙袋の中には、三橋理工商会から届いた試作部品が入っていた。


 大国製作所。


 町工場。


 聞いたことのない名だった。


 だが、部品と一緒に入っていた加工記録を見て、加納は眠気を失った。


 材料。


 刃物。


 回転数。


 送り。


 固定方法。


 測定値。


 失敗品の原因。


 職人の所感。


 音が高い。切り込みを欲張らない。


 その一文を見た時、加納は思わず笑った。


 これはただの記録ではない。


 現場の息遣いが残っている。


 研究室の言葉だけではない。


 工場の言葉でもある。


 この記録を書いた者に、会わなければならない。


 加納はそう思った。


      ◇


 三日後。


 大国製作所の前に、三橋と加納が立っていた。


 加納は三十代前半。


 背は高くない。


 髪は少し乱れていて、眼鏡の奥の目だけが異様に鋭い。


 白衣ではなく、少しくたびれた背広を着ていた。


 三橋が工場の入口で声をかける。


「大国さん、お世話になります」


 奥から徹が出てきた。


「三橋さん。そちらが」


「東都医科大学の加納先生です」


 加納は慌てて頭を下げた。


「加納です。先生と言われるほど偉くありません。今日は無理を言ってすみません」


 岩男が旋盤の横から顔を出した。


「大学の先生が、うちみたいな油臭いとこに何の用ですかね」


 言い方はぶっきらぼうだった。


 三橋が苦笑する。


 だが加納は、嫌な顔をしなかった。


 むしろ工場の中を見回し、目を輝かせた。


「油の匂いがする場所でないと、部品はできませんから」


 岩男の眉が少し動いた。


「口がうまいな」


「本音です」


 加納は鞄から、試作部品と記録表を取り出した。


「この記録を書いたのは、どなたですか」


「俺です」


 徹が答える。


「一部、親父の言葉も入っています」


「素晴らしいです」


 加納は即座に言った。


 徹は面食らった。


 岩男も少し嫌そうに視線を逸らす。


「いや、まだ始めたばかりで」


「それでもです。研究室では、結果だけが残りがちです。成功したか、失敗したか。それだけでは次に進めません。なぜそうなったのか。そこを追える記録が必要なんです」


「先生、工場の記録なんて読みにくかったでしょう」


「読みにくいところが良いんです」


 加納は真顔で言った。


「きれいに整った報告書は、現場の迷いが消えます。でもこの記録には、迷った跡が残っている。そこが大事です」


 岩男が、小さく鼻を鳴らした。


「失敗した跡まで見せられて、恥ずかしいだけだ」


「失敗が見えるなら、次は避けられます」


 加納は、岩男をまっすぐ見た。


「医療では、失敗を隠す方が怖いです」


 工場の空気が、一瞬だけ締まった。


 岩男の顔から、からかうような色が消えた。


「……そうかい」


「はい」


 加納は頷いた。


「だから、こちらも正直に言います。部品は良かった。けれど、装置としてはまだ失敗しています」


 徹の表情が固まった。


 三橋もわずかに肩をすくめる。


 岩男が腕を組んだ。


「寸法が悪かったか」


「いえ。寸法は出ています。だから困っています」


「どういうことだ」


「薬液を流すと、一定のところで抵抗が変わるんです。最初は滑らかに送れる。しばらくすると、流量が乱れる」


 加納は鞄から、手描きのグラフを出した。


 縦軸に流量。


 横軸に時間。


 最初は安定していた線が、途中から波打っている。


「部品の問題ではないかもしれません。ですが、部品の形状か、表面か、組み合わせか。どこかに原因がある」


 徹は黙ってグラフを見た。


 図面だけなら、寸法で話が終わる。


 だが、装置になれば別だ。


 流れるものがある。


 圧がある。


 時間がある。


 熱がある。


 薬液そのものの性質もある。


 工場で測った数字だけでは見えないものが、研究室では起きている。


「現物はありますか」


 徹が尋ねた。


「持ってきました」


 加納は、慎重に箱を開けた。


 中には、小さな試験装置が収められていた。


 徹と岩男が覗き込む。


 誠は、二階の住居で母に抱かれていた。


 だが、その気配を見ていた。


 工場に、医療が入ってきた。


 紙の図面ではない。


 生きた目的を持った装置が、工場の机に置かれた。


 この瞬間が大事だった。


 下請けとして削るだけではない。


 研究者と共に考える工場になる。


 そこへ進めるかどうか。


 未来の線が、ここで分かれている。


      ◇


 岩男は装置を前に、しばらく黙っていた。


 加納は緊張している。


 大学の研究室では、町工場の職人を見下す者もいる。


 逆に町工場の職人には、大学の人間を机上の空論と嫌う者もいる。


 両者の間には、見えない壁がある。


 その壁が、この小さな装置の前に立っていた。


 最初に口を開いたのは岩男だった。


「先生」


「はい」


「これ、どうやって使う」


 加納は一瞬、言葉に詰まった。


 馬鹿にされたと思ったのではない。


 逆だった。


 岩男は本気で聞いていた。


 何のために使い、どこに力がかかり、何が困るのか。


 そこを知らなければ、部品の意味はわからない。


「薬液をこの管から入れます。ここで圧をかけて、この小さな穴から一定量を送り出します」


「どのくらいの量だ」


「一分間に、これくらいです」


 加納は紙に数字を書いた。


 岩男は顔をしかめた。


「少ねえな」


「はい。だから乱れます」


「中を通る液は水じゃないな」


「薬液です。水より少し粘ります」


「なら、水で試しても駄目だ」


 加納の目が見開かれた。


「そこです。研究室でも水では安定するんです。薬液に近い粘度の試験液にすると乱れる」


 岩男は部品を指先で転がした。


「ここの角、図面ではこのままでいいのか」


「はい。寸法上は」


「寸法上は、な」


 岩男は徹を見た。


「徹、拡大鏡を持ってこい」


「ああ」


 徹が拡大鏡を持ってくる。


 岩男は部品の内側を覗いた。


「仕上げは悪くねえ。だが、液が粘るなら、ここで引っかかるかもしれん」


「引っかかる?」


「流れが変わる。角で溜まる。溜まれば、そこから乱れる」


 加納は息を呑んだ。


 研究室で何度も見ていた装置。


 だが、工場の職人は違う見方をする。


 数式ではなく、指先と音と削り跡で見る。


「丸めればいいんですか」


「簡単に言うな。丸めすぎたら別の寸法が死ぬ」


「では」


「三種類作る」


 岩男は言った。


「図面通りのものと、角をほんの少し逃がしたもの。あと、仕上げを変えたもの。三種類だ」


 徹が頷いた。


「比較ですね」


「そうだ。どれが効いたか見えなきゃ意味がねえ」


 その言葉に、加納が笑った。


「それです」


「あ?」


「比較です。研究室では当たり前の言葉ですが、工場でそう言っていただけるとは思いませんでした」


 岩男は面白くなさそうに顔を背けた。


「当たり前だ。適当に変えたら、次に同じもんが作れねえ」


 徹は仕事帳を開いた。


 新しいページに、鉛筆を走らせる。


 試作二回目。


 一、図面通り。


 二、角をわずかに逃がす。


 三、仕上げ変更。


 薬液に近い粘度の試験液で流量確認。


 水だけでは判断しない。


 加納がその文字を覗き込み、表情を変えた。


「大国さん」


「はい」


「この記録、こちらでも写しをいただけますか」


「もちろんです」


「大学に持って帰ります。研究室の連中に見せます」


 徹は少し驚いた。


「こんな手書きでいいんですか」


「手書きだからいいんです」


 加納は、真剣だった。


「研究と工場が、同じものを見て話すための紙です」


      ◇


 その日の午後、大国製作所は予定していた仕事を少し組み替えた。


 岩男は文句を言いながらも、試作二回目の段取りに入った。


「先生、今日中に一個くらいは削る。見ていくか」


「よろしいんですか」


「見たいんだろ」


「見たいです」


 加納は子供のように頷いた。


 白衣の代わりに作業用の前掛けを借り、旋盤から少し離れた位置に立つ。


 徹が機械を動かす。


 金属が回る。


 刃物が触れる。


 細い切り屑が、光りながら流れる。


 加納は息を詰めて見ていた。


 研究室では見えなかった時間が、そこにあった。


 部品は、図面から突然生まれるのではない。


 材料を掴む手がある。


 刃物を選ぶ目がある。


 音を聞く耳がある。


 熱を気にする指がある。


 測る時間がある。


 一つ一つの手順が積み重なって、ようやく形になる。


 加納は、思わず呟いた。


「……これは、手術に似ていますね」


 徹が機械を止めた後、振り返った。


「手術?」


「はい。切る場所、力のかけ方、順番、器具の癖。雑にやれば、結果が変わる」


 岩男が鼻で笑った。


「人の身体と鉄を一緒にするな」


「一緒ではありません。でも、似ています」


 加納は引かなかった。


「どちらも、相手を知らないと壊します」


 岩男は、その言葉には返さなかった。


 ただ、少しだけ真面目な顔で部品を測った。


「徹、書け」


「ああ」


「今の送りは少し重い。角を逃がすなら、最後は押すな。撫でるくらいでいい」


 徹は書いた。


 最後は押すな。撫でるくらい。


 加納がまた笑う。


「いい言葉ですね」


「笑うな」


「笑っていません。感動しています」


「余計悪いわ」


 工場に、小さな笑いが起きた。


 その笑いを、二階の誠は聞いていた。


 良い。


 壁が薄くなっている。


 大学と工場。


 研究と現場。


 医療と加工。


 互いに相手を見下せば、縁は切れる。


 だが、互いの言葉を一つずつ覚えれば、縁は太くなる。


 それは、大国主の得意とするところだった。


 縁を結ぶとは、ただ出会わせることではない。


 互いの役目を知り、互いの価値を認め、次も会う理由を作ることだ。


      ◇


 試作二回目の最初の一個ができたのは、夕方だった。


 加納はそれを掌に載せ、しばらく黙っていた。


「これが、患者の身体に入る薬を支えるかもしれないんですね」


 徹は、はっとした。


 今まで、部品は部品だった。


 図面通りに削るもの。


 納期までに納めるもの。


 寸法が合えば合格するもの。


 だが、加納の言葉で、部品の先が見えた。


 薬。


 患者。


 命。


 工場の手が、そこまで届く。


 徹は自分の手を見た。


 油と細かな傷のある手。


 この手は、ただ鉄を削っているだけではなかったのかもしれない。


「先生」


「はい」


「この仕事、ちゃんとやらせてください」


「もちろんです」


「ただ、条件があります」


 加納は姿勢を正した。


「聞かせてください」


「図面変更は、必ず記録に残す。急ぎの追加は、追加分として見積もる。試験結果は、こちらにも教えてほしい」


 三橋が驚いた顔をした。


 大学の先生相手に、町工場の徹が条件を出している。


 以前なら考えられなかった。


 だが加納は、迷わず頷いた。


「それは、こちらからお願いしたいくらいです」


「本当に?」


「はい。工場に結果を戻さなければ、改善できません。こちらだけで抱え込んでも意味がない」


 徹は息を吐いた。


 岩男が横から言う。


「あと、先生」


「はい」


「無茶な納期は勘弁してくれ」


 加納は真面目に頭を下げた。


「努力します。ただ、研究費の締切に追われることはあります」


「あるのかよ」


「あります」


 加納が正直に言うと、岩男は呆れたように笑った。


「なら、早めに言え。前日に言われても、鉄は急に機嫌よくならねえ」


「覚えておきます」


 工場の空気が、少し柔らかくなった。


 徹は仕事帳に、新しい項目を書いた。


 試験結果を共有。


 変更は記録。


 納期は早めに相談。


 その横に、加納が遠慮がちに言った。


「私も一つ書いていいですか」


「どうぞ」


 加納は鉛筆を借り、仕事帳の端に一行書いた。


 工場は、研究の外ではない。


 徹はその文字を見た。


 岩男も見た。


 三橋も見た。


 誰もすぐには喋らなかった。


 その一文は、大国製作所にとって小さな勲章だった。


      ◇


 夜。


 加納と三橋が帰った後、工場には静けさが戻った。


 岩男は旋盤の前に立ち、今日削った部品を眺めていた。


「徹」


「何だ」


「大学の先生ってのは、もっと偉そうなもんだと思ってた」


「俺も」


「あの先生、変わってるな」


「変わってる」


「だが、悪くねえ」


 徹は笑った。


「親父がそう言うなら、相当だな」


「うるせえ」


 岩男は部品を置いた。


「それと、記録は続けろ」


 徹は顔を上げた。


「いいのか」


「ここまで来たら、やめる方が気持ち悪い」


「親父」


「勘は紙に書けねえと思ってた。だが、紙に書こうとすると、勘の方も少しはっきりする」


 岩男は、自分でも意外そうな顔をしていた。


「変なもんだな」


 徹は仕事帳を閉じた。


「工場も変わるんだな」


「変わらねえ工場は、錆びるだけだ」


 岩男がそう言った。


 それは、昔の岩男なら言わなかった言葉だった。


 二階では、澄子が誠を寝かしつけていた。


 工場から上がってくる声を聞きながら、彼女は小さく笑った。


「おじいちゃんも、お父さんも、少しずつ変わってるわね」


 誠は目を閉じていた。


 眠っているように見える。


 だが、その奥で大国主神は、今日結ばれた縁を確かめていた。


 工場。


 研究室。


 医療。


 商社。


 信用金庫。


 まだ細い。


 だが、線は一本ではなくなった。


 線が増えれば、網になる。


 網になれば、人を受け止められる。


 国を造るとは、巨大な城を一夜で建てることではない。


 落ちそうな者を受け止める網を、先に張っておくことだ。


      ◇


 同じ頃。


 大阪・道修町の薬問屋では、一人の赤子が薬湯の匂いに笑っていた。


 湯気の立つ茶碗を、祖母が慎重に冷ましている。


 赤子が飲むものではない。


 寒気を訴えた父のために用意した、家伝の薬湯だった。


 だが、薬草の匂いが部屋に広がった瞬間、泣きかけていた赤子がぴたりと静かになった。


 母が首を傾げる。


「あら。この子、また薬の匂いで泣き止んだわ」


 祖母が笑った。


「薬問屋の子やからなあ。血かもしれんね」


 赤子は答えない。


 ただ、小さな鼻を動かすようにして、湯気の匂いを追っている。


 苦い匂い。


 草の匂い。


 乾いた根の匂い。


 人の身体を温める匂い。


 その全てに包まれながら、小さな神の御魂は夢を見ていた。


 東京の工場。


 金属の部品。


 薬液に似せた試験液の流れ。


 人を救うための小さな仕組み。


 そして、その向こうにいる懐かしい大きな気配。


 ――急かすな、大国主。


 言葉にはならない。


 だが、夢の中で小さな神はそう笑った。


 ――こっちは、まだ首も据わっておらん。


 東京で眠る誠の口元が、わずかに緩んだ。


 そうだ。


 神々は、まだ赤子である。


 だが、国は待ってくれない。


 だから大人たちを動かす。


 父を。


 母を。


 祖父を。


 研究者を。


 商人を。


 信用金庫を。


 すでに盤面は動き始めている。


 そして次に動くのは、食だった。


 弁当屋の融資。


 工場の昼飯。


 商店街の台所。


 人は腹が減っては、国を造れない。


 昭和五十五年の東京で、町工場の灯がともる。


 大阪の薬の町で、小さな神が薬湯の匂いに笑う。


 まだ誰も知らない。


 その二つの灯が、やがて日本の医療と食を結び直す火種になることを。



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