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『大国主神、昭和五十五年に生まれ直す 〜失われた三十年を始まる前に叩き潰す〜』  作者: あちゅ和尚


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第6話 昼飯が町を動かす

 昼前の商店街は、朝とも夕方とも違う匂いがした。


 魚屋の氷。


 八百屋の土つき大根。


 肉屋の揚げ油。


 パン屋の甘い香り。


 そして、その奥から炊き立ての米の匂いが流れてくる。


 まつ乃弁当。


 商店街の外れにある、小さな弁当屋である。


 店の表には、手書きの札がぶら下がっていた。


 本日の日替わり。


 鯖の塩焼き。


 肉じゃが。


 卵焼き。


 漬物。


 白飯大盛り可。


 派手さはない。


 だが、昼前になると、店の奥は戦場になる。


「お母さん、大国さんとこの分、今日は一つ増えたんだよね」


「そう。大学の先生が来てるんだって」


「大学の先生も、うちのお弁当食べるの?」


「食べる人は偉い人よ」


 店主の松野富江は、額に汗を浮かべながら卵焼きを巻いていた。


 年は四十を少し過ぎた頃。


 夫を早くに亡くし、姑と娘の三人で店を回している。


 娘の由美は高校を出たばかりで、今は配達と盛りつけを手伝っていた。


 狭い厨房には、古い炊飯釜が二つ。


 片方は蓋の締まりが悪い。


 保温箱も傷だらけで、冬場は配達先に着く頃には飯が冷えかける。


 それでも、富江は毎朝暗いうちから米を研ぎ、煮物を作り、魚を焼いた。


 工場の男たちは、昼に温かい飯を待っている。


 それを知っているからだ。


      ◇


 南東京信用金庫の若い職員、佐伯は、店の隅でその様子を見ていた。


 手には帳面。


 胸ポケットには鉛筆。


 最初は、正直に言えば半信半疑だった。


 弁当屋の設備資金。


 金額は大きくない。


 だが担保は薄い。


 保証人も強くない。


 審査の紙だけ見れば、後回しにされても仕方ない案件だった。


 しかし支店長の井原は言った。


 配達先を見てこい。


 弁当屋単体ではなく、町工場の昼を見ろ。


 佐伯は内心、そこまで見る必要があるのかと思っていた。


 だが、厨房に立って十分もしないうちに、その考えは揺らぎ始めた。


 電話が鳴る。


「はい、まつ乃です。あ、大国製作所さん。はい、今日は十一個ですね。大盛り一つ。はい、若い職人さんの分ですね」


 富江が受話器を肩に挟んだまま、娘に声を飛ばす。


「大国さん、十一。大盛り一つ」


「いつもより一つ多いね」


「大学の先生の分よ。大盛りは若い職人さん」


「間違えないように、赤い輪ゴムにしとく」


「お願い」


 佐伯は、そのやり取りを帳面に書いた。


 大国製作所、通常十。来客時十一。大盛り指定あり。


 小さな数字である。


 だが、そこには工場の日常があった。


 大国製作所は大きな工場ではない。


 それでも旋盤、フライス、検査、配達の手伝いまで含めれば、昼には十ほどの弁当が並ぶ。


 一つ増える日には、誰かが外から来ている。


 誰かが来れば、仕事の話が動く。


 仕事の話が動けば、町の金も少し動く。


 弁当の数は、ただの食数ではなかった。


 町の動きの、かすかな脈だった。


 電話は続く。


「はい、まつ乃です。川端研磨さん、七つですね。今日は普通盛りで? はい。ありがとうございます」


 富江が注文を受けるたび、由美が紙に印をつける。


 川端研磨、七。


 大森ネジ、十三。


 田崎メッキ、六。


 小島歯車、九。


 配達先は、小さな工場ばかりだった。


 一件一件は小さい。


 だが合わせると、毎日かなりの数になる。


 昼飯は、売上表の数字以上に、町の中へ入り込んでいた。


「佐伯さん、そこ危ないですよ」


 由美が言った。


「え?」


「その箱、熱いです」


「あ、すみません」


 佐伯が慌てて足を引くと、由美は保温箱を持ち上げようとした。


 だが、重い。


 一瞬、腕が沈む。


 佐伯は反射的に手を出した。


「持ちます」


「いいですよ、仕事ですから」


「見ているだけでは、わからないので」


 由美は少し驚いた顔をした。


 それから、笑って箱の片側を渡した。


「じゃあ、そこまでお願いします」


 保温箱は、思っていたより重かった。


 飯とおかずが詰まっている。


 それだけではない。


 工場で待つ人間の昼が詰まっている。


 佐伯は、両腕にかかる重さで、ようやくそれを理解した。


      ◇


 配達は、古い軽と自転車の二手に分かれた。


 遠い工場は富江が軽で回る。


 近場は由美が自転車を押して回った。


 荷台の弁当が傾くと汁が漏れる。


 急ぎたいのに、急げない。


 だから佐伯も、由美の横を歩いてついていくことができた。


「自転車でこれだけ回るんですか」


「近いところだけです。雨の日は大変ですけど」


「設備資金というのは、炊飯器と保温箱でしたよね」


「あと、できれば配達用の原付です」


「原付」


「自転車だと、夏は汗だく、冬は冷えるんです。遅れたら怒られるし」


 由美は軽く言ったが、息は少し上がっていた。


 商店街を抜け、細い道に入る。


 そこから先は町工場の並ぶ一角だった。


 金属を削る音。


 溶接の光。


 油の匂い。


 昼が近づくにつれて、工場の中から人が出てくる。


「まつ乃さん、こっち!」


「はい、川端さん七つです」


「今日は鯖か。いいねえ」


「骨に気をつけてくださいね」


「若い子に言われる歳になったか」


 職人たちが笑う。


 弁当を受け取る手は、どれも傷があり、油が染みていた。


 佐伯はその手を見た。


 金を貸す時、彼はこれまで通帳と担保を見ていた。


 だが、ここにあるのは数字ではない。


 昼飯を受け取る手だった。


 由美が次の工場へ向かう。


 佐伯もついていく。


 大森ネジでは、若い職人が弁当の包みを開けるなり叫んだ。


「大盛りどれですか!」


「赤い輪ゴムのやつです」


「助かった。朝から腹減って死にそうだった」


 年配の職人が笑った。


「お前は飯食うために働いてるのか」


「働くために飯食うんです」


「いいこと言うじゃねえか」


 その言葉が、佐伯の胸に残った。


 働くために飯を食う。


 当たり前のことだ。


 だが、審査表には出てこない。


 昼飯が遅れれば、午後の作業が乱れる。


 飯が冷えれば、体が冷える。


 食べる場所がなければ、時間が失われる。


 小さな弁当屋は、町工場の時間と体力を支えている。


 これは飲食店一軒の話ではない。


 井原の言葉が、ようやく腹に落ちた。


      ◇


 大国製作所に着いた時、ちょうど昼のベル代わりに誰かが鉄の棒を鳴らしていた。


 工場の中から、徹と岩男、それに加納が出てくる。


「まつ乃さん、待ってたよ」


 徹が笑った。


「今日は十一個です。大盛り一つ」


「それ、先生の分じゃないですからね」


 加納が慌てて言う。


 岩男が鼻を鳴らした。


「先生は食わんと頭が回らんだろ。大盛りにしとけ」


「いや、私は普通で」


「遠慮するな。頭使うやつほど飯を食え」


 由美が笑いをこらえながら弁当を渡した。


 佐伯は徹に軽く頭を下げる。


「大国さん」


「あれ、佐伯さん。どうしたんですか」


「まつ乃さんの配達先を見させてもらっています」


「信金さんが?」


「はい」


 徹は少し考え、それから真顔で言った。


「それは見た方がいいです」


「やはり、必要ですか」


「必要です。うちなんか、納期が詰まると昼を食いに行く時間も惜しい。でも食わないと手元が狂う。まつ乃さんが来てくれるから助かってます」


 岩男が横から言う。


「昔は弁当くらい家から持ってこいって言ってたがな」


「今は違うんですか」


「女房も働く家が増えた。若いのは一人暮らしもいる。家から持ってこいで済ませたら、人が残らん」


 佐伯は、岩男を見た。


 頑固そうな老人だと思っていた。


 だが、この老人は現場を見ている。


 時代の変化を、好き嫌いとは別に見ている。


「もし、まつ乃さんが配達を増やせるようになったら、助かりますか」


 佐伯が尋ねると、徹はすぐ頷いた。


「助かります。近所の工場にも紹介できます」


「紹介?」


「ええ。うちに出入りしている三橋さんや加納先生が来る時も頼めますし、記録会をやる時にも弁当が要る」


「記録会?」


 佐伯が聞き返す。


 徹は少し照れたように頭を掻いた。


「まだ思いつきです。加工条件の記録を、近所の工場でも共有できないかって。失敗を隠すんじゃなくて、次に活かすための勉強会みたいなものです」


 佐伯の鉛筆が止まった。


 弁当屋の話を見に来たはずだった。


 だが、その先に別の線が見えた。


 工場の勉強会。


 そこに弁当が入る。


 人が集まる。


 情報が流れる。


 金も流れる。


 信金も関わる余地がある。


 これは、ただの融資ではない。


 小さな町の仕組みが、作られようとしている。


 加納が弁当を受け取りながら、ぽつりと言った。


「研究会も同じです。人を集めるなら、飯は大事です。飯がない会は、続きません」


 岩男が笑った。


「大学の先生も、まともなこと言うじゃねえか」


「今日は褒められたと思っておきます」


 その場に笑いが起きた。


 佐伯は、その笑いを帳面に書きたくなった。


 だが、何と書けばいいかわからない。


 代わりに、こう書いた。


 まつ乃弁当は、工場の昼休みを支えている。


 配達先同士の横のつながりあり。


 設備投資により、食数増加の見込み。


 工場勉強会等への展開可能性。


 書いてから、佐伯は自分の文字を見つめた。


 少し前の自分なら、こんなことは書かなかった。


 だが、今は書かずにはいられなかった。


      ◇


 その日の午後、佐伯はまつ乃弁当に戻った。


 配達を終えた富江は、厨房の隅でようやく茶を飲んでいた。


 由美は空になった弁当箱を洗っている。


 佐伯は帳面を開いた。


「松野さん」


「はい」


「設備を入れた場合、増やせる食数をもう一度教えてください」


 富江は少し身構えた。


「やっぱり、難しいですか」


「いえ。逆です。きちんと説明したいんです」


「説明?」


「この融資は、弁当屋一軒の設備ではなく、町工場の昼を支える設備です。そう見れば、数字の意味が変わります」


 富江は驚いたように佐伯を見た。


「そんなふうに、見てもらえるんですか」


「見なければいけないと、今日わかりました」


 佐伯は正直に言った。


「ただし、返済できなければ意味がありません。だから、増やせる数、人手、仕入れ、配達の順番を一緒に見たい」


 由美が手を止めた。


「一緒に?」


「はい。無理な数で計算しても、後で苦しくなるだけです。続けられる数を見たいんです」


 富江の顔が、少しずつ変わった。


 金を借りる相談に来た時、彼女はずっと小さくなっていた。


 担保が弱い。


 保証人が弱い。


 売上が小さい。


 言われなくても、自分でわかっていたからだ。


 だが今、佐伯は違うものを見ようとしている。


 店が町で何をしているのか。


 その仕事が続くには、何が必要なのか。


 そこを見ようとしている。


「佐伯さん」


「はい」


「うち、豪華な弁当は作れません」


「はい」


「でも、毎日食べても飽きないようには作ってます。油ものばかりにしないように。魚の日も、煮物の日も入れて。若い子には飯を多めにして」


「はい」


「それは、数字になりますか」


 佐伯はすぐには答えられなかった。


 数字にはしにくい。


 だが、数字にならないから価値がないわけではない。


「そのままでは、なりません」


 佐伯は言った。


「でも、続けて買ってくれる理由にはなります。理由がある売上は、見込みになります」


 富江は、ゆっくり頷いた。


「それなら、見せます」


「何をですか」


「献立帳です」


 富江は棚の奥から、古びたノートを出した。


 そこには、日付ごとの献立がびっしり書かれていた。


 魚。


 肉。


 卵。


 野菜。


 漬物。


 仕入れ値。


 残った数。


 苦情。


 好評だった品。


 雨の日に減った数。


 暑い日に出た数。


 佐伯は、息を呑んだ。


 これは帳面だ。


 ただの献立ではない。


 町工場の腹を支えるための記録だ。


 大国製作所の仕事帳と同じ匂いがした。


 佐伯は、なぜか背筋が伸びた。


「松野さん。これは、支店長に見せてもいいですか」


「恥ずかしい字ですけど」


「いいえ」


 佐伯は、真剣に首を振った。


「これは、強い帳面です」


 富江は目を丸くした。


 由美が、洗い物の手を止めて母を見た。


 富江は照れたように笑った。


「弁当屋の献立帳が、強いんですか」


「はい」


 佐伯は頷いた。


「強いです」


      ◇


 南東京信用金庫に戻った佐伯は、井原の机に帳面を置いた。


 配達先一覧。


 食数の推移。


 聞き取り。


 設備を入れた場合の増加見込み。


 そして、まつ乃弁当の献立帳の写し。


 井原はしばらく黙って読んでいた。


 読み終える頃には、目つきが変わっていた。


「佐伯くん」


「はい」


「これは、いい調査だ」


 佐伯は少しだけ肩の力を抜いた。


「ありがとうございます」


「最初は、面倒だと思ったか」


「思いました」


 佐伯は正直に答えた。


 井原が笑う。


「正直でよろしい」


「ですが、見ないとわかりませんでした。弁当が届くと、工場の人たちの顔が変わるんです」


「顔か」


「はい。あと、まつ乃さんは献立を記録していました。何が喜ばれたか、何が残ったか。あれは、売上表より店の力が見えます」


 井原は、献立帳の写しを指で叩いた。


「大国製作所の仕事帳。まつ乃弁当の献立帳。どちらも同じだな」


「はい。自分の仕事を見ている帳面です」


「なら、貸す側も見なければならん」


 井原は書類に赤鉛筆で線を引いた。


「前向きに進めよう。ただし、条件をつける」


「条件ですか」


「食数を無理に増やしすぎない。人手の見込みを確認する。配達先を広げる時は、一気に広げず、近場から。設備を入れて終わりではなく、半年は数字を見る」


「はい」


「それから、商店街の婦人会に話を聞け。午前中だけ働きたい人がいるかもしれん。こちらが雇うわけではない。ただ、地域の情報として確認する」


「わかりました」


 佐伯は力強く頷いた。


 その顔は、朝の顔とは違っていた。


 紙の上の審査だけをしていた若い職員が、町を見始めている。


 井原はそれを見て、心の中で思った。


 澄子くんが戻る前に、こちらも少しは変わっておかねばな。


      ◇


 その夜。


 大国家の二階では、澄子が誠をあやしながら、徹の話を聞いていた。


「まつ乃さんの弁当、今日も助かったよ」


「信金の佐伯くん、見に来てたんでしょう」


「ああ。最初は固かったけど、帰る頃には目が変わってた」


「目が?」


「工場を見る目だな。いや、町を見る目か」


 徹は少し考えてから言った。


「弁当ってさ、ただの昼飯だと思ってた。でも、あれがないと困るんだよな」


「そうね」


「うちだけじゃない。近所の工場も同じだ。まつ乃さんが配達できる数を増やせたら、助かるところは多い」


 澄子は誠の背中を軽く叩きながら頷いた。


「金は、必要な場所に流れた時に生きるのね」


「難しいこと言うな」


「難しくないわ。ご飯と同じよ」


「ご飯?」


「炊いたご飯を釜の中に置きっぱなしにしても、誰のお腹にも入らないでしょう。ちゃんとよそって、必要な人に渡すから力になる」


 徹は笑った。


「信金の人間は、飯の話でも金の話になるんだな」


「工場の人間は、飯の話でも手元の話にするじゃない」


「それもそうだ」


 二人が笑う。


 誠は母の腕の中で、その笑いを聞いていた。


 今日は、誠が泣いて何かを知らせたわけではない。


 鉛筆を転がしたわけでもない。


 ただ、前に結んだ縁が、人の足で進んだ。


 佐伯が歩いた。


 由美が配った。


 富江が献立帳を出した。


 井原が見方を変えた。


 徹が工場の昼を語った。


 澄子が金と飯を重ねた。


 それでいい。


 神が毎回、奇跡を起こす必要はない。


 人が自分の足で動き始めたなら、その方が強い。


 国は、神が背負うものではない。


 人が、自分の仕事の価値に気づいた時、少しずつ立ち上がるものだ。


      ◇


 数日後。


 まつ乃弁当の融資は、正式に前へ進むことになった。


 まだ満額ではない。


 炊飯器と保温箱を優先し、配達用の原付は少し時期を分ける。


 富江は最初、少し残念そうな顔をした。


 だが佐伯が説明した。


「一度に全部入れると、返済が重くなります。まず食数を安定して増やして、それから配達を広げましょう」


 富江は、しばらく考えた。


 そして頷いた。


「続けるため、ですね」


「はい」


「わかりました。うちは、続けたいです」


 由美が横から言った。


「お母さん、原付は私がもう少し自転車で頑張るよ」


「無茶しちゃだめよ」


「無茶じゃなくて、段取り」


 その言い方が少しだけ徹に似ていて、佐伯は笑いそうになった。


 町は、知らないうちに言葉を移し合う。


 赤字で受けるな。


 続く値段で受けろ。


 無理に広げるな。


 続けるために選べ。


 それは工場の言葉であり、信金の言葉であり、弁当屋の言葉にもなり始めていた。


      ◇


 融資が決まった日の夕方、まつ乃弁当はいつもより少し早く店を閉めた。


 富江は厨房の奥で、古い炊飯釜を撫でた。


「もう少しだけ、お願いね」


 長年使った釜は、ところどころ傷んでいる。


 それでも、今日まで店を支えてきた。


 由美が隣に立つ。


「新しいの来たら、もっと炊けるね」


「炊ける。でも、増やしすぎちゃだめ」


「佐伯さんみたいなこと言う」


「いいことは真似したらいいの」


 富江は献立帳を開いた。


 明日の日付を書く。


 鶏の照り焼き。


 切り干し大根。


 卵焼き。


 漬物。


 白飯。


 その横に、小さく書き足した。


 大国製作所、十。


 来客時は十一。


 川端研磨、七。


 大森ネジ、十三。


 小島歯車、九。


 新規は二件まで。


 無理せず、続ける。


 富江はその文字を見て、少し笑った。


 弁当屋の帳面に、未来の匂いがした。


      ◇


 夜。


 誠は夢の中で、町を見ていた。


 工場の灯。


 弁当屋の湯気。


 信用金庫の机。


 商店街の人の声。


 それらが細い光でつながっている。


 まだ弱い。


 吹けば消えそうな光だ。


 だが、昨日より太い。


 昨日より温かい。


 大国主神は、その光の網を見つめた。


 食は、国の土台である。


 腹が満ちねば、人は働けない。


 働けなければ、技は残らない。


 技が残らなければ、国は他人の手に頼る。


 ならば昼飯一つも、国造りから外れてはいない。


 誠は、夢の中で遠くを見た。


 米を作る農家。


 魚を運ぶ市場。


 野菜を仕入れる八百屋。


 弁当を作る店。


 それを食べる職人。


 職人が作る医療機器の部品。


 その部品が、やがて患者の命を支える。


 食と医療。


 工場と金融。


 商店街と研究室。


 別々に見えていたものが、少しずつ同じ網の目に入っていく。


 次は、この網を広げる。


 工場一つ。


 弁当屋一つ。


 信用金庫一支店。


 それだけでは、まだ小さい。


 だが、小さいものを馬鹿にする者に、国は造れない。


 小さいものを結び、続け、増やす。


 それが大国主の国造りである。


 その頃、大阪・道修町では、薬問屋の赤子が薬草の匂いに包まれて眠っていた。


 東京の夢は、かすかに届いている。


 飯。


 薬。


 身体。


 暮らし。


 小さな神は、夢の底で少しだけ笑った。


 ――腹と薬を結ぶか。いいではないか。


 誠もまた、眠りながら笑った。


 まだ会えない。


 まだ歩けない。


 まだ言葉も持たない。


 だが、縁はもう動いている。


 昭和五十五年。


 町工場の昼飯から、国の血流は変わり始めていた。



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