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『大国主神、昭和五十五年に生まれ直す 〜失われた三十年を始まる前に叩き潰す〜』  作者: あちゅ和尚


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第4話 金は血である

 金は、米ではない。


 金は、鉄でもない。


 食えぬし、鍛えられぬし、機械の部品にもならない。


 だが、金が止まれば米は届かず、鉄は買えず、機械は回らない。


 人の世に降りた大国主神は、赤子の眠りの奥でそれを見ていた。


 金とは、血である。


 多すぎれば腐る。


 少なすぎれば枯れる。


 心臓だけに集まれば手足は冷え、手足に回らねば国は動かない。


 ならば、金を増やすだけでは足りない。


 正しく巡らせねばならない。


 昭和五十五年の東京には、まだその血流が残っていた。


 町工場。


 商店街。


 魚屋。


 米屋。


 薬局。


 町医者。


 信用金庫。


 顔の見える金の流れ。


 大きな銀行では拾わない声を、地域の金庫が拾っている。


 それが失われれば、国は痩せる。


 だから次の一手は、母だった。


      ◇


 大国澄子は、産後の身体をまだ持て余していた。


 赤子を抱けば腕が重い。


 夜中に泣かれれば眠れない。


 家計簿を開いても、途中で誠がむずがる。


 信用金庫で働いていた頃とは、まるで時間の進み方が違った。


 だが、不思議と頭は冴えていた。


 誠が生まれてから、数字の見え方が変わった気がする。


 前なら、売上、返済、預金残高、担保。


 そういう項目を順に見ていた。


 今は違う。


 その数字の向こうに、人の暮らしが見える。


 朝早くシャッターを開ける八百屋。


 夜遅くまで機械を回す工場。


 給料日まで小銭を数える若い夫婦。


 帳面に書けない不安。


 帳面に書かなければ消えてしまう努力。


 数字が、急に生々しくなった。


「あなた、今日、信金に行くの?」


 澄子が尋ねると、徹は作業着の袖を直しながら振り返った。


「ああ。三橋さんの仕事で、少し材料を買う。手元の金を崩すより、短期で借りられるか相談してくる」


「短期?」


「支払いは入る。でも材料と刃物代が先に出る。そこがきつい」


 徹は少し照れたように笑った。


「前なら、なんとなく親父に言われるまま支払ってた。でも今は、先に出る金と後から入る金を分けて見たい」


 澄子は目を細めた。


 変わった。


 夫は確かに変わり始めている。


 仕事を受けるか断るかだけではない。


 金の流れを、自分の言葉で見ようとしている。


「なら、私も行くわ」


「え?」


「産休の書類もあるし、支店長にも挨拶しないと。誠も連れていく」


「いや、無理するなよ」


「無理はしない。でも、あなた一人で行くより話が早いわ」


 徹は一瞬、反論しかけた。


 だが澄子の顔を見て、やめた。


 澄子がこういう顔をする時は、止めても無駄だと知っている。


 誠は布団の中で、目を閉じたまま聞いていた。


 よし。


 母が動く。


 工場の帳面は父が開いた。


 次は、金庫の帳面を母が開く。


      ◇


 大森南信用金庫の蒲田支店は、商店街の角にあった。


 入口のガラス戸を開けると、紙とインクと人の声が混じった匂いがする。


 窓口には、通帳を持った主婦。


 小銭を数える商店主。


 融資の相談に来た作業着の男。


 奥では、若い職員がそろばんを弾いている。


 大きな銀行のような威圧感はない。


 だが、ここには町の血が集まっていた。


「澄子さん!」


 窓口の女性職員が顔を明るくした。


「赤ちゃん、連れてきたんですか?」


「ええ。産休の書類を出しに。うるさくしたらごめんなさい」


「まあ、可愛い」


 誠は母の腕の中で眠っていた。


 眠っているように見せていた。


 本当は、見ていた。


 窓口に並ぶ人々の手。


 通帳。


 小切手。


 融資申込書。


 判子。


 伝票。


 その一つ一つから、細い糸が伸びている。


 金の糸。


 暮らしの糸。


 商売の糸。


 不安の糸。


 希望の糸。


 その中に、濁った糸がいくつかあった。


 金が足りないから濁っているのではない。


 金の流れ方が悪い。


 売れているのに苦しい。


 忙しいのに残らない。


 担保はあるのに未来がない。


 逆に、目立たないが強い糸もある。


 小さな町工場。


 地味な薬局。


 家族でやっている弁当屋。


 帳面は薄いが、客の顔を覚えている店。


 この支店は、まだそれを見分ける力を持っている。


 だが、いずれ失う。


 数字だけを見るようになる。


 担保だけを見るようになる。


 大きい取引先の顔色だけを見るようになる。


 そうなれば、地域の金は地域を育てなくなる。


 誠は小さく息を吐いた。


 まだ間に合う。


 ここも、まだ間に合う。


「大国さん」


 奥から、丸い眼鏡をかけた男が出てきた。


 支店長の井原である。


 五十に近い男で、腹は少し出ているが、目はよく動く。


 澄子が信頼していた上司だった。


「おめでとう。元気そうで何よりだ」


「ありがとうございます。産休の書類を持ってきました」


「急がなくてもよかったのに」


「家にいると、逆に落ち着かなくて」


 井原は笑い、誠を覗き込んだ。


「この子が誠くんか」


 誠はその瞬間、目を開けた。


 井原は少し驚いた。


 赤子の目にしては、妙に静かだったからだ。


「……賢そうな目をしているな」


「親馬鹿じゃなくても、そう見えます?」


 澄子が笑う。


 井原も笑った。


「見えるとも。父親似かな」


「そこは母親似と言ってください」


「失礼した」


 軽い会話だった。


 だが誠は、井原の縁を見ていた。


 この男は悪くない。


 地域の商売を見ようとしている。


 だが、上からの数字に押され始めている。


 貸出残高。


 回収率。


 担保。


 不良債権。


 まだ昭和五十五年の今、それらは未来ほど冷たくはない。


 だが芽はある。


 金庫が町を見る目を失う芽。


 そこを早いうちに折らねばならない。


「ご主人も一緒か」


 井原は徹に目を向けた。


「はい。少し相談がありまして」


「工場の資金繰りかね」


「材料と刃物代です。受注は決まっています。支払いも見えています。ただ、先に出る分がある」


「なるほど。つなぎ資金だな」


 井原は徹を奥の応接へ案内した。


 澄子も誠を抱いたまま同席する。


 徹は少し緊張していた。


 工場では職人でいられる。


 だが信用金庫の応接では、借りる側になる。


 借りるという行為には、どうしても頭を下げる感覚がつきまとう。


 しかし、澄子は違った。


 彼女は静かに、夫の横に座った。


「あなた、仕事帳を」


「あ、ああ」


 徹は鞄からノートを出した。


 井原が興味深そうに見る。


「仕事帳?」


「最近、つけ始めました。見積もりと加工条件、材料費、刃物代、検査費。それから入金予定と支払い予定です」


 井原の目が少し変わった。


「見せてもらっても?」


「はい」


 徹はノートを差し出した。


 井原は一ページずつめくった。


 試作費。


 段取り費。


 図面変更時は再見積。


 検収期限。


 材料費。


 刃物代。


 加工条件記録。


 失敗品の原因。


 次回改善点。


 派手な数字はない。


 だが、工場が自分の仕事を見ようとしている。


 その姿勢があった。


「これは……」


 井原は思わず呟いた。


「ご主人が?」


「はい」


 澄子が答えた。


「まだ始めたばかりです。でも、これがあると、何にいくら必要で、いつ戻るのか説明できます」


 井原は頷いた。


「なるほど。これは貸しやすい」


 徹が顔を上げる。


「貸しやすい、ですか」


「ええ。担保の話だけではありません。こういう帳面があると、こちらも工場の動きがわかる。何に金が必要で、どこで回収できるのか。説明できる会社は強い」


 澄子は、その言葉を聞き逃さなかった。


 説明できる会社は強い。


 それは信金の言葉であり、工場の言葉でもあった。


 井原はノートを閉じた。


「つなぎ資金の件は、前向きに見ましょう。ただし、この仕事帳は続けてください。入金予定と支払い予定を、月ごとに追える形にしてほしい」


「わかりました」


 徹は深く頭を下げた。


 その顔には、借りる側の弱さだけではない。


 自分たちの仕事を説明できたという、小さな手応えがあった。


 相談は、思ったより早く終わった。


 井原は必要書類を揃えるよう伝え、徹はほっとした顔で立ち上がった。


「俺は先に工場へ戻る。親父が待ってる」


「ええ。私は産休の書類を出してから帰るわ」


「無理するなよ」


「大丈夫」


 徹は誠の顔を覗き込み、少し照れたように笑ってから支店を出た。


 澄子は誠を抱いたまま、井原の机の前に残った。


 その時、井原が机の上の書類を整理した。


 積まれていた融資ファイルの一冊が、机の端へずれた。


 薄い青いファイルだった。


 誠には、そのファイルから伸びる糸が見えていた。


 細いが、強い。


 だが今は、他の書類に押し潰されかけている。


 澄子の目が、自然とそこへ向いた。


「支店長」


「ん?」


「その青いファイル、止まっている案件ですか」


 井原は一瞬、驚いた顔をした。


「よくわかったな」


「端に避けられていたので」


「職員の目だな」


 井原は苦笑した。


 それから少し迷い、ファイルの表紙を指で叩いた。


「産休中の君に細かい数字は見せられん。ただ、筋だけなら話せる。弁当屋さんだよ」


「弁当屋?」


「商店街の外れにある、小さな弁当屋だ。近くの工場に昼の弁当を届けている。設備を少し入れたいという相談なんだが、担保が薄い。売上も大きくはない」


 井原はファイルを軽く押さえた。


「ただ、返済は真面目だ。遅れたこともない。評判も悪くない」


「なら、なぜ止まっているんですか」


「保証人が弱い。それと、設備を入れて本当に売上が伸びるのかが見えない」


 澄子は黙った。


 弁当屋。


 工場。


 昼飯。


 それは、単なる飲食店ではない。


 町工場の腹を支える店だ。


 忙しい職人が、昼にまともな飯を食えるかどうか。


 それは午後の集中力に関わる。


 事故にも関わる。


 体調にも関わる。


 工場の生産性にも関わる。


 小さな弁当屋の設備は、町の血流の一部だった。


 澄子は、自分でも驚くほど自然に言った。


「支店長。その弁当屋さん、配達先を見ましたか」


「配達先?」


「売上だけではなく、どこの工場に何食届けているかです」


 井原は眉を上げた。


「そこまでは、まだ」


「もし、届け先の工場が安定していて、昼食需要が続くなら、売上の見方が変わります。弁当屋単体では小さくても、地域の工場群に支えられているなら、ただの小口融資ではありません」


 井原は黙った。


「地域の工場群を、食で支える設備投資です」


 澄子は続けた。


「逆に、その弁当屋さんがなくなったら、工場の人たちは昼に困ります。近くに食べる場所が少ないなら、なおさら」


 井原は、青いファイルを見下ろした。


 そこには売上と仕入れと設備見積もりがある。


 だが、配達先の重みはまだ見えていない。


「……なるほど」


 井原は低く呟いた。


「金を貸す相手だけ見ていたら、見えないものがあるな」


 澄子の胸が、どくんと鳴った。


 自分で言った言葉なのに、どこか別の場所から降りてきたようだった。


 金を貸す相手だけ見ていたら、見えないものがある。


 金は、単独で動いているのではない。


 工場の腹。


 商店街の仕入れ。


 職人の昼飯。


 弁当屋の設備。


 信用金庫の小口融資。


 それらは全部、つながっている。


 誠は母の腕の中で、静かに目を閉じた。


 そうだ。


 それが国造りだ。


      ◇


 その日の午後。


 井原は、澄子の言葉が頭から離れなかった。


 弁当屋のファイルだけではない。


 机の上の書類が、違って見え始めた。


 古い薬局の改装資金。


 町工場の中古旋盤購入。


 魚屋の冷蔵設備。


 米屋の配達用軽トラック。


 どれも小さい。


 銀行本店から見れば、取るに足らない金額かもしれない。


 だが、この町では違う。


 薬局が残れば、年寄りが助かる。


 魚屋の冷蔵設備が良くなれば、商店街の品が保つ。


 米屋の配達車が動けば、足の悪い家にも米が届く。


 町工場が旋盤を入れれば、職人が残る。


 それぞれの融資は小さい。


 だが、小さい金が正しく巡れば、町の体温が保たれる。


 井原は、融資係の若い職員を呼んだ。


「佐伯くん」


「はい」


「この弁当屋の件、配達先を見てきてくれ」


「配達先、ですか」


「そうだ。どこの工場に、何食くらい出しているか。昼時に見ればわかるだろう」


「担保ではなく?」


「担保も見る。だが、それだけでは足りん」


 佐伯は不思議そうな顔をした。


 井原は青いファイルを軽く叩く。


「これは弁当屋への融資だ。だが、見方を変えれば、町工場の昼を支える融資でもある」


「はあ」


「わからん顔をするな。俺も今わかりかけたところだ」


 佐伯は困ったように笑った。


 だが、ファイルを受け取った。


 それだけでいい。


 最初は、理解できなくていい。


 見に行けばわかる。


 紙の上だけでは見えない金の流れが、町にはある。


      ◇


 夕方。


 大国家に戻った澄子は、誠を寝かせると、家計簿を開いた。


 徹の仕事帳。


 自分の家計簿。


 信用金庫の融資ファイル。


 それぞれ別のものに見えていた。


 だが、今日、同じものに見えた。


 どれも、暮らしを続けるための帳面だった。


「あなた」


 澄子は台所から声をかけた。


「何だ?」


「信金でね、あなたが帰った後、弁当屋さんの話があったの」


「弁当屋?」


「工場にお昼を届けてる店。設備資金を借りたいけど、担保が弱い」


「厳しそうだな」


「でも、その弁当屋さんがなくなったら、近くの工場が困るかもしれない」


 徹は少し考えた。


「確かにな。昼飯って大事だぞ。忙しい時に遠くまで食いに行くのはきつい」


「でしょ」


「ああ。飯が悪いと、午後の手元が鈍る」


 澄子は、その言葉を家計簿の余白に書いた。


 飯が悪いと、午後の手元が鈍る。


 徹が笑う。


「何を書いてるんだ」


「大事なこと」


「そんなのが?」


「ええ。信金の帳面には出てこないけど、大事なこと」


 徹は少し驚いたように妻を見た。


 澄子の目が、以前よりも遠くを見ている気がした。


 誠が生まれてから、徹だけではなく、澄子も変わっている。


「澄子」


「何?」


「無理するなよ」


「してないわ」


「いや、なんか……すごく考えてる顔してる」


 澄子は少し笑った。


「考えない方が疲れるのよ」


 その時、布団の中の誠が小さく声を漏らした。


 泣き声ではない。


 まるで笑ったような声だった。


 澄子は誠の頬に触れた。


「この子、何か知ってるみたいな顔をするのよね」


「またそれか」


「あなたも思わない?」


「……たまに」


 徹は否定しきれなかった。


 病室での見積もり。


 夢の帳面。


 赤字仕事を断った後に来た三橋理工商会。


 そして今日の信用金庫。


 全部が偶然だと言えば、偶然で済む。


 だが、偶然が続く時、人はそれを縁と呼ぶ。


      ◇


 二日後。


 佐伯が弁当屋の配達先を見て戻ってきた。


 井原の机の前で、彼は少し興奮していた。


「支店長、あの弁当屋、思ったより配達先が多いです」


「どこに出していた」


「大国製作所の近くの工場群です。小さいところばかりですが、毎日まとまった数が出ています。それと、工場の人たちがかなり頼りにしていました」


「聞いたのか」


「はい。昼に温かい飯が届くから助かると。近くの食堂は混むし、遠い工場だと戻りが遅くなるそうです」


 井原は頷いた。


「設備を入れたら?」


「朝の仕込みと配達数を増やせそうです。ただし、人手が足りないようです」


「そこも見ろ。商店街のつながりで、午前中だけ働きたい人がいないかもしれん。人手の見込みが立てば、返済の見込みも変わる」


 佐伯は目を丸くした。


「そこまで見るんですか」


「金を貸して終わりなら、誰でもできる」


 井原は、昨日までなら言わなかった言葉を口にした。


「金が返ってくる流れを作るのも、地域の信金の仕事だ」


 佐伯はしばらく黙っていた。


 それから、深く頷いた。


「わかりました。もう一度見てきます」


 若い職員が出ていく。


 井原は椅子にもたれ、天井を見上げた。


「澄子くんが戻ったら、うちの融資係は少し変わるかもしれんな」


 そう呟きながら、井原は青いファイルの表紙に赤鉛筆で印をつけた。


 再調査。


 前向き。


 まだ融資決定ではない。


 だが、死にかけていた一つの小さな案件が、息を吹き返した。


      ◇


 その夜、誠は夢を見ていた。


 夢と言っても、赤子の夢ではない。


 神の見る夢である。


 町の上に、血管のような光の筋が走っていた。


 工場から弁当屋へ。


 弁当屋から米屋へ。


 米屋から農家へ。


 魚屋から市場へ。


 薬局から町医者へ。


 信用金庫から、それぞれの店へ。


 金が流れる。


 物が流れる。


 人が流れる。


 感謝が流れる。


 その流れが滑らかな場所は、町が温かい。


 逆に、どこかで詰まると、周りが冷えていく。


 誠は、その詰まりを見た。


 安すぎる仕事。


 遅すぎる支払い。


 担保だけを見る融資。


 数字だけを見る審査。


 大きな会社の都合で、小さな会社の血が抜かれていく流れ。


 いずれ日本中に広がる病。


 だが今は、まだ小さい。


 小さいうちなら、押し返せる。


 赤子の手は何も掴めない。


 だが、縁は掴める。


 大国主は、夢の中で光の糸を一本引いた。


 弁当屋。


 大国製作所。


 信用金庫。


 商店街。


 その四つが、淡く結ばれる。


 すると、町の光がわずかに強くなった。


 まだ一つの町角にすぎない。


 日本全体から見れば、米粒ほどの変化である。


 しかし、国とは米粒の集まりだ。


 米粒を軽んじる国に、豊かな飯は炊けない。


      ◇


 数日後。


 澄子のもとに、信用金庫から電話があった。


 井原だった。


『澄子くん、少しだけ礼を言いたくてね』


「礼、ですか?」


『弁当屋の件だ。まだ決まったわけではないが、見方が変わった。あれは店一軒の話ではなかった』


「配達先を見たんですね」


『見た。佐伯にも見せた。あの子にはいい勉強になったよ』


 井原は電話の向こうで小さく笑った。


『金庫にいると、金だけ見ているつもりになる。だが金は、町の中を動いて初めて意味があるんだな』


 澄子は受話器を握ったまま、黙った。


 胸の奥が熱くなっていた。


 それは、自分が褒められたからではない。


 見えたからだ。


 金が町を動かすのではない。


 町が生きるために、金を流す。


 順番を間違えれば、金は人を痩せさせる。


 順番を正せば、金は人を生かす。


「支店長」


『何かな』


「復帰したら、そういう案件を見たいです」


『そういう案件?』


「数字だけでは小さいけれど、地域の流れを支えている仕事です。工場、店、配達、医療、食。そういうつながりを見ながら融資を考えたいんです」


 井原は、しばらく黙った。


 そして、静かに言った。


『待っているよ』


 電話が切れた。


 澄子はしばらく受話器を見つめていた。


 台所では、鍋から湯気が上がっている。


 布団では、誠が眠っている。


 小さな家。


 小さな工場。


 小さな信用金庫。


 小さな弁当屋。


 だが、その小ささを馬鹿にしてはならない。


 ここに国の根がある。


 根が腐れば、大木は倒れる。


 根が強ければ、嵐にも耐える。


「誠」


 澄子は、眠る我が子にそっと声をかけた。


「お母さん、少しだけわかった気がするわ」


 誠は答えない。


 赤子として、ただ眠っている。


 だが、その眠りの奥で、大国主神は静かに頷いた。


 父は、技術の値段を知った。


 母は、金の血流を見た。


 工場と信用金庫。


 手と金。


 ものを作る場所と、ものを続けるための血。


 二つの縁が結ばれた。


 これで、ようやく一つ目の輪ができた。


      ◇


 その頃、大阪・道修町では、薬問屋の赤子がまた笑っていた。


 乾いた薬草の匂い。


 古い木箱。


 帳場に置かれた算盤。


 薬もまた、金と似ている。


 必要な場所に届かねば意味がない。


 良い薬があっても、買えぬ者に届かなければ人は救えない。


 小さな神の御魂は、まだ目覚めきっていない。


 だが、東京から伸びた縁に、確かに反応していた。


 医療には、工場が要る。


 工場には、金が要る。


 金には、見る目が要る。


 見る目には、人を生かす意思が要る。


 その意思を結ぶ者が、東京にいる。


 昭和五十五年。


 日本を造り直す神々の戦いは、まだ誰にも知られていない。


 だが、町の血流は、ほんの少しだけ温かくなった。



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