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『大国主神、昭和五十五年に生まれ直す 〜失われた三十年を始まる前に叩き潰す〜』  作者: あちゅ和尚


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第3話 記録する工場

 三橋理工商会が持ち込んだ図面は、小さかった。


 紙の上に描かれていたのは、手のひらに収まるほどの部品である。


 だが、その小ささに反して、図面の中身は甘くなかった。


 寸法公差は厳しい。


 穴の位置も、面の仕上げも、町工場が片手間に削って終わるようなものではない。


 徹は、図面を机に広げたまま黙っていた。


 岩男も腕を組んでいる。


 事務所の空気には、油と紙と、少しの緊張が混じっていた。


 三橋理工商会の三橋は、申し訳なさそうに頭を下げた。


「難しいのは承知しています。ただ、大学の先生方が困っておりまして」


「医療機器の試作、と言ってましたね」


 徹が尋ねると、三橋は頷いた。


「はい。薬液を少しずつ、一定の量で送り出す装置の部品です。まだ研究段階ですが、精度が出ないと試験そのものができません」


「数は?」


「まずは五個です」


 岩男が眉を上げた。


「五個?」


「はい」


「五個のために、この図面か」


 三橋は苦笑した。


「量産品ではありません。ですが、うまくいけば次があります」


 その言葉に、徹の顔が少しだけ硬くなった。


 次がある。


 昨日までの徹なら、その一言に弱かった。


 次があるなら、今回は安くしてもいい。


 次があるなら、無理を飲んでもいい。


 だが今は違う。


 徹の頭には、あの夢の赤い床が残っていた。


 仕事をすればするほど工場が痩せていく、あの嫌な夢。


「三橋さん」


「はい」


「次があるかどうかは、今は考えません」


 三橋は少し驚いた顔をした。


 岩男も徹を見た。


「まず、この五個をきちんと作る。そのための値段と条件を出します。次があるなら、その時にまた条件を決めます」


 三橋は一瞬黙り、それから深く頷いた。


「ありがたいです。こちらも、その方が助かります」


 岩男が、わずかに目を細めた。


 まともな相手は、条件を嫌がらない。


 徹の中で、その感覚が少しずつ形になっていく。


「ただし」


 三橋は鞄から別の紙を出した。


「加工条件の記録だけは、お願いしたいんです」


「記録、ですか」


「ええ。材料の種類、刃物、回転数、送り、切削油、測定結果。全部でなくても構いません。あとから同じものを作れるように、何をどうしたか残してほしい」


 岩男が鼻を鳴らした。


「そんなもん、職人の手が覚える」


 三橋は困ったように笑った。


「もちろん、そこが一番大事なのは承知しています。ただ、研究用ですので」


「紙に書いたからって、同じものが作れるわけじゃない」


「その通りです」


 三橋は素直に認めた。


「ですが、紙がなければ、なぜ違ったのかも追えません」


 その言葉に、徹は反応した。


 なぜ違ったのか。


 その問いは、工場にとっても大事だった。


 うまくいった。


 失敗した。


 それで終われば、次は勘に頼るしかない。


 だが、何が良くて、何が悪かったのかを残せば、勘は技術になる。


 技術は、人から人へ渡せる。


 渡せるものは、国の力になる。


 工場二階の住居で、誠は母の腕に抱かれていた。


 目は閉じている。


 だが、見えていた。


 事務所の机。


 広げられた図面。


 三橋の声。


 岩男の頑固さ。


 徹の迷い。


 そして、図面の向こうに伸びる細い縁。


 医療。


 精密加工。


 研究者。


 薬。


 命を支える小さな部品。


 それは、少彦名へと続く縁でもあった。


 大国主は、国を造る神である。


 国とは、山や川だけではない。


 田畑だけでもない。


 人が病に倒れた時、支える仕組み。


 技術が必要な場所に、技術が届く仕組み。


 小さな工場の手が、遠くの命に届く仕組み。


 それもまた、国である。


 誠は小さく息を吐いた。


 泣かない。


 騒がない。


 ただ、縁を見る。


 そして、ほんの少しだけ結ぶ。


      ◇


 加工は、翌日から始まった。


 岩男は不機嫌だった。


「記録、記録ってな。旋盤は帳面で回すもんじゃねえ」


「親父、今回はやってみよう」


「お前まで紙屋になったか」


「紙屋じゃない。残すだけだ」


 徹は、作業台の脇に新しい紙を置いた。


 加工条件記録表。


 そんな立派な名前をつけたものの、中身はまだ手書きの表にすぎない。


 材料。


 刃物。


 回転数。


 送り。


 切り込み。


 切削油。


 測定値。


 気づいたこと。


 岩男は、それを横目で見て鼻を鳴らす。


「どうせ途中で書かなくなる」


「書くよ」


「機械を止めてか」


「止めてでも書く」


「馬鹿か。手が遅くなる」


「でも、次が早くなる」


 岩男は言い返しかけて、黙った。


 徹の声が、弱くなかったからだ。


 その日、大国製作所の旋盤はいつもより少し遅く回った。


 いや、機械の回転が遅いのではない。


 仕事の進みが遅かった。


 一工程終えるたびに、徹が記録を書く。


 測る。


 また書く。


 岩男は苛立った。


「徹、そんなことしてたら日が暮れるぞ」


「暮れてもいい。今回は五個だ」


「五個だから急ぐんだろうが」


「五個だから残せる」


 その言葉に、岩男はまた黙った。


 五個だから、勘で押し切る。


 それが今までのやり方だった。


 だが徹は逆を言った。


 五個だから残せる。


 少ないからこそ、丁寧に見える。


 小さい仕事だからこそ、工場の癖が出る。


 岩男は面白くなさそうに、刃物台を見た。


「そこ、少し鳴ってるぞ」


「鳴ってる?」


「音が高い。切り込みを欲張るな」


 徹は手を止めた。


「今の、書いていいか」


「何をだ」


「音が高い。切り込みを欲張るな」


「そんなもん書いてどうする」


「次の俺が読む」


 岩男は呆れた顔をした。


 だが、止めなかった。


 徹は紙に書いた。


 音が高い。切り込みを欲張らない。


 その一行は、数字ではない。


 だが、工場の知恵だった。


 勘を殺すための記録ではない。


 勘を残すための記録。


 その意味に、徹はまだ完全には気づいていない。


 だが誠には見えていた。


 この一行が、後に若い職人を救う。


 この一枚が、後に別の工場へ渡る。


 この記録する癖が、大国製作所をただの下請けから、試作と改善の工場へ変えていく。


      ◇


 一個目は、失敗した。


 穴の位置が、わずかにずれた。


 図面の範囲から外れている。


 使えない。


 岩男は、ほら見ろと言わんばかりに顔をしかめた。


「やっぱり難しいな」


「そうだな」


 徹は悔しそうに部品を見つめた。


 だが、すぐに記録表へ目を落とした。


 材料の固定。


 穴あけ前の芯出し。


 治具の締め具合。


 切削時の熱。


 書いた文字を追う。


 岩男が眉をひそめた。


「何を見てる」


「どこでずれたか」


「見たらわかるのか」


「少なくとも、何をやったかはわかる」


 徹は一つずつ確認した。


 最初の芯出しでは問題がない。


 荒加工後の測定も悪くない。


 穴あけの前に、わずかな傾きが出ている。


 原因は、治具の締め方だった。


 締めればいいというものではない。


 締めすぎれば、薄い部品がほんの少し歪む。


 削った後に戻る。


 その戻りが、穴の位置を狂わせる。


「親父」


「なんだ」


「これ、締めすぎだ」


 岩男の眉が動いた。


「俺の締め方が悪いってか」


「そうじゃない。締め方が強すぎると、これだけ薄い部品は歪むんだと思う」


「思う、か」


「二個目で試す」


 岩男はしばらく黙っていた。


 怒るかと思った。


 だが、怒鳴らなかった。


「なら、当て板を変えろ」


「当て板?」


「真鍮の薄いやつを噛ませる。跡がつきにくい。締める場所も変えろ」


 徹は顔を上げた。


「それも書く」


「いちいち言うな」


 岩男はそっぽを向いた。


 だが、その口元はわずかに緩んでいた。


 二個目。


 寸法は出た。


 三個目。


 さらに安定した。


 四個目。


 仕上げ面も良くなった。


 五個目。


 最初より、明らかに早かった。


 徹は、完成した五個の部品と、一個の失敗品を並べた。


 その横に、五枚の記録表を置く。


 岩男は黙って見ていた。


「親父」


「なんだ」


「紙に書いたら、腕が落ちると思ってたか」


「思ってた」


「今は?」


 岩男は、失敗品を指で転がした。


「紙だけじゃ作れねえ」


「ああ」


「だが、紙があると、失敗が逃げねえな」


 徹は息を止めた。


 岩男は、完成品をもう一つ手に取った。


「失敗が逃げねえから、次に追いつける」


 それは、岩男なりの敗北宣言だった。


 同時に、新しい工場の始まりでもあった。


      ◇


 三橋が部品を受け取りに来たのは、その翌日だった。


 彼は五個の部品を一つずつ確認し、記録表を見て、目を丸くした。


「ここまで残してくださったんですか」


「足りませんか」


「いえ。十分です。いや、正直、ここまでしていただけるとは思っていませんでした」


 三橋の声には、本物の安堵があった。


 徹は少し照れたように頭を掻く。


「まだ慣れていないので、余計なことも書いているかもしれません」


「余計ではありません。こういう一言が助かるんです」


 三橋は、記録表の一行を指で叩いた。


 音が高い。切り込みを欲張らない。


「数字だけでは、現場の感覚が消えます。でも、感覚だけでは、研究室に伝わりません。これは、その間をつないでいます」


 つないでいる。


 その言葉を、二階で眠る誠は聞いた。


 よし。


 また一つ、縁が形になった。


 技術と記録。


 職人と研究者。


 工場と医療。


 勘と紙。


 結ぶべきものが、結ばれ始めている。


「実は、先生もお会いしたいと言っています」


 三橋が言った。


「先生?」


「東都医科大学の加納先生です。まだ若い先生ですが、現場を見たいと」


 岩男が渋い顔をした。


「大学の先生が、こんな工場に?」


「こんな工場だから、です」


 三橋はまっすぐ言った。


「研究室だけでは、ものはできません。先生もそれがわかっている方です」


 徹は、少しだけ背筋を伸ばした。


 大学。


 医療。


 研究。


 それは、今までの大国製作所には遠い世界だった。


 だが、遠いと思っていた世界は、一枚の図面と五個の部品でつながることがある。


 ならば、町工場はもっと遠くまで行ける。


「来ていただけるなら、こちらは構いません」


 徹が答えると、三橋は嬉しそうに頷いた。


「ありがとうございます。先生も喜びます」


      ◇


 その日の夜。


 澄子は、徹の話を聞きながら、台所で味噌汁をよそっていた。


「大学の先生が来るの?」


「ああ。俺も驚いた」


「すごいじゃない」


「すごいのかどうかはわからん。まだ五個作っただけだ」


「五個作って、記録も残したんでしょ」


「まあな」


「それは信用になるわ」


 澄子は、当たり前のように言った。


 徹が箸を止める。


「信用?」


「信用金庫でも同じ。お金を貸す時、見るのは売上だけじゃないの。帳面があるか。説明できるか。続けられるか。失敗した時に、原因を追えるか」


「工場も同じか」


「同じよ」


 澄子は、布団で眠る誠を見た。


「誠が生まれてから、あなた、少し変わったわね」


「そうか?」


「前は、仕事を断ると不安そうだった。でも今は、選ぼうとしてる」


「選ぶほど偉くない」


「偉いから選ぶんじゃないわ。続けるために選ぶのよ」


 徹は黙った。


 その言葉は、仕事帳の表紙に書いた言葉と同じ方向を向いていた。


 続く値段で受けろ。


 続く工場にしろ。


 続く町にしろ。


 誠は眠りながら、小さく息をした。


 母の目は、やはり良い。


 金の流れを見る目。


 人の変化を見る目。


 この母を通して、地域金融を変える。


 それが次の一手になる。


 だが、その前にもう一つ。


 医療の縁を、さらに深く結ぶ必要がある。


      ◇


 同じ夜。


 大阪・道修町。


 古くから薬の町として知られるその一角で、一人の赤子が泣いていた。


 薬問屋の家に生まれた男児である。


 その家の祖母が、乾燥させた薬草の箱を片づけていた時だった。


 赤子の泣き声が、ふいに止まった。


「あら?」


 祖母が振り返る。


 赤子は、薬草の匂いがする箱の方へ、小さな手を伸ばしていた。


 届くはずもない。


 だが、その目は笑っていた。


 まるで懐かしい友に出会ったように。


 まるで、自分の役目を思い出したように。


 祖母は不思議そうに首を傾げた。


「この子、薬の匂いが好きなんかねえ」


 赤子は答えない。


 ただ、小さく笑った。


 その眠りの奥で、小さな神の御魂が目を覚ましかけていた。


 東京では、国を結び直す神が工場と医療をつないだ。


 大阪では、医薬の神が薬の匂いに笑った。


 まだ二柱は出会っていない。


 だが、縁はもう結ばれている。


 大国誠は、遠く離れたその気配を夢の底で感じ取った。


 小さく、だが確かな光。


 医薬。


 発酵。


 温泉。


 酒。


 人の身体を支え、暮らしを温める知恵。


 誠は、赤子のまま静かに笑った。


 ――起きたか、少彦名。


 声にはならない。


 だが、縁は届いた。


 昭和五十五年。


 東京の町工場で、一枚の記録表が生まれた。


 大阪の薬の町で、一柱の小さな神が目を開きかけた。


 日本を造り直すための線は、少しずつ、だが確実に増えていた。



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