第2話 赤子、父の帳面を救う
大国誠が最初に覚えた人の世の感覚は、重さだった。
まぶたが重い。
首が重い。
腕も、足も、自分のものとは思えぬほど言うことを聞かない。
神であった時ならば、山の向こうの縁さえ指先ひとつで引き寄せられた。
だが今は、母の腕の中で寝返りを打つことすらできない。
記憶はある。
神眼もある。
縁を見る力もある。
それでも、肉体は赤子だった。
大国主神は、内心で苦笑した。
――なるほど。人の器とは、かくも不自由か。
だが、不自由だからこそ意味がある。
神が空から国を直すのではない。
人の手で、人の世を動かす。
そのために、この不自由な肉体を選んだのだ。
「誠、よく寝てるわね」
母の声がした。
名を、大国澄子という。
信用金庫で働いていた女で、数字に強く、人の顔色を見るのもうまい。
産休に入った今も、枕元には家計簿と新聞が置かれている。
大国主がこの母を選んだ理由の一つが、それだった。
金の流れを見られる母。
もう一つは、父である。
「寝てる時はな」
不器用な声が、病室の入口から聞こえた。
父、大国徹。
大田区の町工場、大国製作所で旋盤とフライスを扱う技術者である。
まだ社長ではない。
社長は祖父の大国岩男。
徹は二代目候補という立場だった。
腕はいい。
真面目でもある。
ただし、真面目すぎた。
頼まれれば断れない。
無理な納期でも受ける。
安い単価でも、次につながるかもしれないと思って飲み込む。
それが三年後、大国製作所を沈める。
誠には見えていた。
昭和五十八年。
大手機械メーカーの購買担当が、笑顔で試作仕事を持ち込む。
最初は小さな仕事。
次に少し大きな仕事。
やがて、設備投資をしなければ間に合わない量になる。
だが単価は上がらない。
むしろ下がる。
図面変更は何度も来る。
検収は遅れる。
支払いも遅れる。
徹は「ここで切られたら終わりだ」と思い、すべて飲む。
職人は疲れ、祖父は倒れ、母は金策に走る。
そして最後には、技術だけを吸われて、仕事は別の安い工場へ流される。
大国製作所は潰れない。
潰れはしない。
だが、二度と伸びない。
徹は小さく折れる。
母は笑わなくなる。
誠は、その未来を許す気がなかった。
国を救う。
大きな言葉だ。
だが国とは、工場の集合であり、家庭の集合であり、商店街の集合であり、田畑の集合である。
一つの工場が赤字仕事で削られる。
一人の職人が誇りを失う。
一つの家庭が金の不安で笑えなくなる。
それが無数に積もれば、国は滅びる。
ならば、最初に救うべきはここだった。
父の工場。
父の帳面。
父の値段。
徹は、澄子の隣に腰を下ろした。
「親父がさ、これ見ろって持たせてきた。まだ病院だってのに」
「仕事?」
「ああ。試作の見積もり依頼」
徹は苦笑しながら、鞄から紙束を出した。
図面。
見積依頼書。
納期表。
誠は母の腕の中から、それを見た。
来た。
三年後の破滅へ直接つながる糸ではない。
だが、同じ匂いのする糸だった。
試作。
短納期。
材料支給なし。
支払いは検収後翌々月。
図面変更時の再見積記載なし。
表面上は普通の仕事に見える。
だが、縁の奥に黒い滲みがあった。
この仕事を何も考えずに受ければ、徹は「無理を飲む癖」を強める。
今は小さい。
だが、小さい癖が未来の首を絞める。
「安いわね」
澄子が紙を覗き込んで言った。
「わかるのか?」
「材料代と時間を考えたら、ほとんど残らないんじゃない?」
「まあ、最初だからな。顔つなぎってやつだ」
その言葉に、誠は泣いた。
遠慮なく泣いた。
腹の底から、赤子の肺を使って泣いた。
「お、おい。どうした?」
「誠? おむつ?」
違う。
顔つなぎではない。
首つなぎだ。
安値でつないだ顔は、次も安値でしか呼ばれない。
誠は泣き続けた。
徹が図面を鞄に戻すと、ぴたりと泣き止む。
徹がもう一度出す。
泣く。
戻す。
止まる。
出す。
泣く。
澄子が目を細めた。
「……この子、この紙が嫌いなのかしら」
「まさか」
「でも、今そうだったわよ」
「赤ん坊だぞ」
「赤ん坊でも、嫌なものは嫌なんじゃない?」
澄子は冗談めかして言ったが、その目は笑っていなかった。
数字に強い女は、偶然を偶然のまま捨てない。
徹は少し困った顔で、図面を膝の上に置いた。
「じゃあ、どうしろってんだよ。断ったら仕事にならないだろ」
誠は泣かなかった。
今度は、じっと父を見た。
赤子の視線。
だが徹は、なぜかその目から逃げられなかった。
「……なんだよ」
徹が呟く。
誠は手を伸ばした。
当然、届かない。
赤子の手は空を掴むだけだった。
だが、神の力は指の長さで決まるものではない。
誠は、縁を見た。
父の鞄。
中にある鉛筆。
母の家計簿。
病室の小さな机。
それらを、ほんの少しだけ結ぶ。
鉛筆が、ころりと転がった。
机から落ちる。
徹が反射的に拾う。
その拍子に、母の家計簿が開いた。
澄子の几帳面な文字が並んでいる。
米。
味噌。
電気代。
家賃。
積立。
そして、欄外に小さく書かれた言葉。
――残る金で考える。
徹の目が、そこで止まった。
「残る金……か」
澄子が首を傾げる。
「どうしたの?」
「いや。俺、いつも売上だけ見てたなって」
「売上?」
「この仕事、受けたらいくら入るか。そこばっかり見てた。だけど、残る金で見たら……」
徹は図面と依頼書を見直した。
材料。
段取り。
加工時間。
刃物。
検査。
納品。
やり直し。
図面変更。
急ぎの割増。
何も入っていない。
ただ、加工単価だけが相手の希望として書かれている。
「これ、安いな」
「だから言ったでしょ」
「いや、安いどころじゃない。下手したら赤だ」
徹の声が変わった。
誠は泣かなかった。
よし。
まず一つ。
父が、売上ではなく残る金を見た。
それだけで未来は少し変わる。
◇
その夜、徹は妙な夢を見た。
工場の夢だった。
大国製作所の古いシャッターが開いている。
中では旋盤が回っていた。
油の匂い。
鉄粉の匂い。
切削音。
いつもの工場だ。
だが、床に赤い水が流れていた。
血ではない。
赤字だった。
帳面から流れ出した赤い数字が、床を濡らしている。
徹は慌てて機械を止めようとした。
だが止まらない。
旋盤は回る。
フライスも回る。
ボール盤も回る。
職人たちは汗だくで働いている。
なのに、製品が完成するたびに、工場の壁が薄くなっていく。
仕事をすればするほど、工場が削られていく。
「やめろ!」
徹は叫んだ。
その時、赤ん坊の泣き声が聞こえた。
振り向くと、工場の中央に小さな布団が敷かれていた。
そこに誠が寝ている。
赤子のはずの誠が、徹を見上げていた。
何も言わない。
ただ、横に置かれた帳面を小さな手で叩いている。
帳面には、文字が浮かび上がっていた。
試作費。
段取り費。
刃物代。
検査費。
特急割増。
図面変更は再見積。
支払い条件。
検収期限。
徹は息を呑んだ。
その瞬間、夢の中の工場が静かになった。
機械の音が消える。
赤い水が止まる。
壁の薄さが戻っていく。
帳面をつけろ。
値段に魂を入れろ。
技術を安売りするな。
言葉はなかった。
だが、徹にはそう聞こえた。
目が覚めた時、夜明け前だった。
病室ではない。
自宅だった。
澄子と誠の退院準備のため、徹だけが先に帰っていたのだ。
額に汗が浮いている。
「なんだ、今の……」
徹は布団から起き上がった。
そのまま台所へ行き、裸電球の下でノートを開いた。
眠気はなかった。
鉛筆を握る手が勝手に動く。
試作費。
段取り費。
刃物代。
検査費。
特急割増。
図面変更時は再見積。
支払いは月末締め翌月末。
検収は納品後七日以内。
不良の定義は図面寸法基準。
徹は書いてから、自分で笑った。
「俺、こんなこと考えたことあったか?」
なかった。
だが、書いてみれば当たり前だった。
当たり前のことを、今まで書いていなかった。
口約束。
顔つなぎ。
次がある。
勉強させてもらう。
そういう言葉で、どれだけの町工場が削られてきたのか。
徹は、まだ知らない。
だが、誠は知っている。
未来の日本で、それがどれほど積み上がるかを知っている。
◇
翌朝。
大国製作所の事務所では、祖父の岩男が渋い顔をしていた。
「徹、お前、なんだこの見積もりは」
「昨日の夜、計算し直した」
「高い」
「高いんじゃない。これでやっと普通だ」
「最初からそんなこと言ってたら仕事なんぞ来ねえぞ」
岩男は古い職人だった。
腕に誇りはある。
だが、金の話を前に出すことを嫌う。
技術屋が銭勘定を細かく言うのは粋ではない。
そういう時代の人間だった。
徹も昨日までなら、同じように考えていた。
だが、夢の中で見た赤い床が頭から離れない。
「親父、仕事が来ても残らなきゃ意味がない」
「残る残らないじゃねえ。信用だ」
「赤字で受ける信用は、次の赤字を連れてくるだけだ」
岩男の眉がぴくりと動いた。
「誰にそんなこと吹き込まれた」
「誰でもない」
徹は、机の上に置いたノートを開いた。
試作費。
段取り費。
刃物代。
検査費。
特急割増。
図面変更時は再見積。
支払い条件。
検収期限。
そこに書かれた文字を見て、岩男はしばらく黙った。
「こんなもん、相手が飲むか」
「飲まなきゃ、うちが飲まれる」
「徹」
「親父。俺たちは仕事が欲しい。でも、工場を食わせる仕事が欲しいんだ。工場を削る仕事じゃない」
岩男は言い返そうとして、口を閉じた。
徹の言葉が、いつもの弱い言い訳ではなかったからだ。
職人が腹を括った時の声だった。
「……出してみろ」
岩男は低く言った。
「ただし、向こうが怒って切ってきても知らんぞ」
「わかってる」
徹は頷き、修正した見積書を封筒に入れた。
その紙は、ただの見積書ではなかった。
大国製作所が初めて、自分たちの技術に値段をつけた紙だった。
◇
三日後。
大国製作所の電話が鳴った。
黒いダイヤル式の電話を、岩男が取る。
「はい、大国製作所です」
相手の声を聞いた瞬間、岩男の眉間に皺が寄った。
「徹。東邦機械さんだ」
徹は、手についた油を布で拭き、受話器を受け取った。
「お電話代わりました。大国です」
『大国さん、見積もり見ましたよ。いやあ、ちょっと高いですねえ』
やはり来た。
徹は、腹の底に力を入れた。
「そうですか」
『前にお願いしていたところは、もっと勉強してくれましたよ』
「では、そちらにお願いされた方がいいと思います」
事務所の空気が止まった。
岩男が目を剥く。
電話の向こうも、一瞬黙った。
『いやいや、そういう話じゃなくてね。今後のお付き合いもあるわけですから』
「もちろんです。ですから、うちも長く付き合える条件を出しています」
『試作でしょう? 量産になれば数も出ますから』
「試作費と量産単価は別です」
『図面も少し変わるかもしれませんが』
「図面変更があれば再見積です」
『検収は社内の都合で少し遅れることがあります』
「納品後七日を超える場合は、事前に確認をお願いします」
『大国さん、ずいぶん強気ですねえ』
徹は一度、唇を噛んだ。
怖くないわけではない。
仕事が減るのは怖い。
父に怒られるのも怖い。
だが、ここで飲めば、夢の赤い床が現実になる。
「強気ではありません」
徹は言った。
「普通に続けられる値段です」
電話の向こうで、男が鼻で笑った。
『では今回は見送りで』
「承知しました」
徹は、受話器を置いた。
岩男が怒鳴った。
「馬鹿野郎! 何を勝手に断ってる!」
「断ったんじゃない。赤字を受けなかっただけだ」
「同じことだ!」
「違う」
徹は、机の上のノートを指で叩いた。
「親父、赤字で機械を回したら、工場は忙しい顔をして痩せていく。俺はそれが怖い」
岩男は言い返そうとして、言葉を失った。
その時、工場二階の住居から赤子の泣き声が聞こえた。
短く、一度だけ。
まるで、今の徹の言葉に判を押すような泣き声だった。
◇
さらに二日後。
大国製作所に、一人の男が訪ねてきた。
背広の肩に雨粒をつけた、三十代半ばの男だった。
「突然すみません。三橋理工商会の三橋と申します」
徹は手を止めた。
「理工商会?」
「はい。医療機器関係の試作部品をお願いできる工場を探しておりまして。大国製作所さんは、以前、別の取引先でお名前を聞いたことがありました」
岩男が奥から顔を出す。
「うちに、ですか」
「はい。数は少ないです。ですが精度が必要です。安さより、記録を残してきちんと作ってくれるところを探しています」
徹の目が変わった。
「記録、ですか」
「材料ロット、刃物、回転数、送り、検査結果。研究用なので、同じ条件で再現できることが大事なんです」
徹は、机の上のノートを見た。
夢の中で見た帳面。
そこに書いたばかりの項目。
偶然とは思えなかった。
「できます」
徹は答えた。
岩男が驚いた顔をする。
まだ、やったことはない。
だが、やると決めた。
「うちは、記録を残します」
三橋は、ほっとしたように笑った。
「それは助かります。条件も先に決めましょう。試作費、段取り費、図面変更時の再見積。こちらも曖昧なまま進めたくありません」
徹は、思わず息を吐いた。
まともな相手は、まともな条件を嫌がらない。
安く叩く相手を失った後に、初めてそれが見えた。
工場二階の住居では、誠が母の腕の中で静かに眠っていた。
泣かない。
もう泣く必要はなかった。
一つ目の赤字の縁は切れた。
そして、新しい縁が結ばれた。
◇
その夜。
澄子は、徹の書いたノートを読んでいた。
試作費。
段取り費。
刃物代。
検査費。
特急割増。
図面変更時は再見積。
支払い条件。
検収期限。
加工条件記録。
澄子は、赤子を寝かせた布団の横で、静かに頷いた。
「これ、続けた方がいいわ」
徹が驚いた顔をする。
「そう思うか?」
「思う。信用金庫でもね、売上が大きいのに苦しい会社があるの。逆に、売上はそこそこでも、ちゃんと残してる会社は強い」
「俺たちは前者になりかけてたか」
「まだ間に合うわ」
まだ間に合う。
その言葉を、誠は眠りながら聞いた。
そうだ。
まだ間に合う。
一九八〇年の日本は、まだ間に合う国だった。
工場には職人がいる。
銀行には地域を見る目が残っている。
商店街には顔の見える関係がある。
農村には土があり、港には人がいる。
学校には、未来を信じる子供たちがいる。
全部残っている。
これから失われるものが、まだ失われていない。
ならば、先に結ぶ。
先に守る。
先に鍛える。
「このノート、名前をつけたら?」
澄子が言った。
「名前?」
「ただの見積ノートじゃなくて、工場を守る帳面」
徹は少し照れたように頭を掻いた。
「大げさだな」
「大げさなくらいでいいのよ。あなた、すぐ安く受けるんだから」
「それを言うな」
澄子は笑った。
その笑い声を聞いて、誠は胸の奥が静かに熱くなるのを感じた。
この笑いを守る。
家の笑い。
工場の灯。
町の声。
国とは、それらの積み重ねだ。
徹はノートの表紙に鉛筆を走らせた。
大国製作所
仕事帳
少し考えてから、その下に小さく書き足す。
赤字で受けるな。
技術を安売りするな。
続く値段で受けろ。
澄子がそれを見て、満足そうに頷いた。
「いいじゃない」
「親父には笑われる」
「笑われても、工場が残れば勝ちよ」
誠は、布団の中で小さく手を握った。
一手。
まだ一手にすぎない。
国を救うには遠い。
政治もまだ動いていない。
宗教も、互助会も、教育財団も、何もない。
だが、父が赤字仕事を断った。
母が残る金を見た。
工場に帳面が生まれた。
まともな仕事の縁が結ばれた。
未来は、確かに一ミリ動いた。
その一ミリが、やがて国の進路を変える。
◇
同じ頃。
海の向こうでは、まだ誰もその変化に気づいていなかった。
国境を持たぬ欲望の群れも。
未来で日本の血を吸うはずだった者たちも。
安い技術。
安い労働。
安い土地。
安い誇り。
それらを当然のように刈り取るつもりだった者たちも。
まだ知らない。
昭和五十五年の東京の片隅で、一冊の小さな仕事帳が生まれたことを。
その帳面が、やがて無数の町工場に広がることを。
赤字で受けるな。
技術を安売りするな。
続く値段で受けろ。
それはまだ、ただの家訓だった。
だが、国を造り直す神にとっては、最初の布告だった。
大国誠は、赤子の姿で眠っている。
しかし、その眠りの奥で、大国主神は次の縁を見ていた。
父の工場。
母の信用金庫。
三橋理工商会。
医療機器の研究室。
そして、その先にいる一人の若い研究者。
彼はまだ無名だった。
予算も少なく、教授にも軽く見られている。
だが、手元の試作品さえ形になれば、一つだけ未来が変わる。
本来なら、資金不足と部品調達の失敗で潰えるはずだった小さな芽。
誠は、その縁を見つめた。
――次は、お前だ。
赤子の口元が、わずかに緩む。
神々の日本再建は、まだ始まったばかりだった。




