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『大国主神、昭和五十五年に生まれ直す 〜失われた三十年を始まる前に叩き潰す〜』  作者: あちゅ和尚


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第1話 滅びゆく国を見た神

 日本は、爆発して滅びたわけではなかった。


 炎に包まれたわけでもない。


 黒い軍靴に踏みにじられたわけでも、巨大な怪獣に海へ沈められたわけでもない。


 ただ、静かに。


 水が干上がるように。


 火が灰になるように。


 人の声が、町から消えていった。


 西暦二〇五〇年。


 かつて子供らの声が響いていた小学校には、錆びた鉄棒だけが残っていた。


 商店街の看板は半分落ち、シャッターの隙間から枯葉が吹き込んでいた。


 山間の村では、田が荒れ、猪が道を歩き、寺の鐘だけが誰にも聞かれず風に鳴っていた。


 海辺の町では、港のクレーンが止まり、かつて世界へ品物を送り出した工場の窓ガラスが、ひび割れたまま放置されていた。


 それでも、地図の上に日本という名は残っている。


 役所もある。


 会社もある。


 電波も飛んでいる。


 画面の中では、誰かが笑っている。


 だが――国は、もう痩せ細っていた。


 子が生まれない。


 若者が残らない。


 技術は売られ、土地は買われ、食は外に握られ、金は見えぬ流れに吸い上げられていく。


 人々は怒る力さえ失い、諦めを賢さと呼ぶようになっていた。


 その光景を、雲よりも高い場所から見下ろしている神がいた。


 大国主神おおくにぬしのかみ


 かつて国を造った神である。


 多くの名を持つ神。


 大己貴命おおなむちのみこと


 八千矛神やちほこのかみ


 葦原色許男神あしはらしこおのかみ


 だが今、彼はただ一柱の名で呼ばれるべきだった。


 国を、失いかけた神。


「……これは、我らの国か」


 声は静かだった。


 静かすぎるほどに、怒っていた。


 隣に立つ小さな神が、笠の下から目を細める。


 少彦名神すくなひこなのかみ


 薬と知恵と技の神。


 その身体は小さいが、目だけは誰よりも深い。


「病やな」


「病?」


「国の病や。血が巡っておらん。腹に飯が入っておらん。手足の先が冷えとる。せやのに頭だけが、自分はまだ健康やと思い込んどる」


 大国主は何も言わなかった。


 病。


 確かに、そうだ。


 この国は殺されたのではない。


 自ら弱るように仕組まれ、弱ったことに気づかぬまま、未来を削り取られていた。


 その背後には、無数の糸が見えた。


 金の糸。


 情報の糸。


 法律の糸。


 教育の糸。


 食料の糸。


 海の向こうへ伸びる糸。


 大陸へ伸びる糸。


 そして、さらに奥。


 国境すら持たぬ影の集まり。


 名を持たぬ支配者たち。


 彼らは王ではない。


 将軍でもない。


 旗も掲げない。


 ただ、国々の心臓に細い針を刺し、少しずつ血を抜いていく。


 人はそれを、陰謀と笑う。


 陰謀などないと笑う。


 だが、大国主には見えていた。


 陰謀とは、煙の中にいる怪人のことではない。


 欲を持つ者が、金と制度と情報を使い、長い年月をかけて得をする仕組みを作ることだ。


 それが積もれば、国ひとつくらい簡単に傾く。


「笑えんな」


 武の神、建御名方神たけみなかたのかみが低く唸った。


 その拳は岩のように大きい。


「敵が軍勢なら叩き潰す。だがこれは、刀で斬れる相手ではない」


「だから厄介なのです」


 穏やかな声で告げたのは、事代主神ことしろぬしのかみだった。


 商い、言葉、交渉、そして決断の気配をまとう神である。


「この滅びは、戦ではありません。契約です。条約です。規制です。報道です。投資です。選挙です。習慣です。人々が自分で選んだと思い込まされる、長い長い誘導です」


「ならば、どうする」


 大国主が問う。


 事代主は微笑まなかった。


「同じ盤上に降りるしかありません」


 風が止まった。


 神々の世界に、沈黙が満ちる。


 同じ盤上。


 つまり――人として生まれる、ということだ。


 神が神のまま国を救えば、それは奇跡で終わる。


 奇跡で救われた国は、また奇跡を待つだけの国になる。


 それでは意味がない。


 国とは、神が持ち上げるものではない。


 人が立ち上がることでしか、続かない。


「いつへ戻る」


 少彦名が問うた。


 大国主は、二〇五〇年の日本から視線を外した。


 時間の川を遡る。


 二〇四〇年。


 遅い。


 二〇三〇年。


 まだ遅い。


 二〇〇〇年。


 傷は浅くなるが、すでに根は食われている。


 一九九五年。


 分岐は多い。


 だが、その前から手を打たねば足りない。


 一九八五年。


 円が揺れ、金が暴れ、泡が膨らむ。


 そのさらに前。


 一九八〇年。


 まだ国に体力がある。


 工場に火がある。


 商店街に声がある。


 農村に人がいる。


 企業に技がある。


 学校に熱がある。


 家庭に未来がある。


 そして何より。


 人々が、まだ「明日は今日より良くなる」と信じている。


「昭和五十五年」


 大国主は言った。


「一九八〇年の東京に降りる」


 建御名方が口の端を上げた。


「赤子からやり直しか」


「赤子であって、赤子ではない」


 大国主の瞳に、八千矛の光が宿る。


「記憶は封じぬ。神眼も封じぬ。縁を見る力も封じぬ」


「力そのものは?」


 少彦名が問う。


「肉体の器に合わせる。赤子の身で山を動かせば、国を救う前に化け物として囲われる」


「ほな、最初から全開。ただし出し方は選ぶ、いうことか」


「そうだ」


 大国主は、静かに二〇五〇年の空を見た。


「遠慮している暇はない。だが、雑に暴れれば敵に気づかれる」


 少彦名がにやりと笑った。


「ええやん。神のくせに、やることが詐欺師みたいや」


「国造りと言え」


 大国主は、わずかに笑った。


「三十年を失わせぬ。失われる前に奪い返す」


 神々の間に、ざわめきが走る。


 それは恐れではなかった。


 久しく忘れていた、国造りの熱だった。


 宗像三女神むなかたさんじょしんが海の方を見た。


「海路は私たちが見る。物流、港、外との交渉。島国の命脈は海にある」


 豊受大神とようけのおおかみが頷いた。


「食は任せなさい。米、魚、野菜、畜産、流通。腹を握られた国は、必ず頭を下げることになります」


 少彦名が指を鳴らす。


「医療、薬、半導体、素材、機械、情報技術。小さい技が大きい国を支える。そこを押さえる」


 事代主は、静かに告げた。


「金と言葉は私が見ます。銀行、証券、報道、教育、広告。人は剣より言葉で動く」


 建御名方は拳を鳴らした。


「災害、治安、現場、武。国を守る手足は俺が鍛える」


 最後に、全員の視線が大国主へ集まった。


 大国主は、眼下の列島を見つめた。


 北海道から沖縄まで。


 山も川も海も町も村も。


 かつて自分たちが、人と共に形にした国。


 奪われるために造ったのではない。


 諦めるために造ったのでもない。


「私は縁を結ぶ」


 大国主は言った。


「人と人。町と町。技と金。志と力。古いものと新しいもの。神と人」


 その声に、神々の世界そのものが震えた。


「この国を救うのは、我らだけではない。人だ。だが人は、繋がらねば力にならぬ」


 大国主の足元に、光の糸が現れる。


 それは無数に分かれ、時の川へ降りていく。


 工場の二代目。


 役所の若手。


 町医者の息子。


 魚屋の娘。


 農家の少年。


 大学へ進む少女。


 まだ名もない政治家。


 潰れかける中小企業。


 後に世界を変える研究者。


 誰にも見向きされない発明家。


 未来で絶望するはずだった者たち。


 その縁を、一本ずつ結び直していく。


 少彦名が笑った。


「派手にやるんか?」


「派手にやる」


 大国主は答えた。


「だが、最初は静かにだ」


「静かに?」


「赤子が国を動かせば、怪しまれる」


「そらそうや」


「だから、まずは親を動かす」


 少彦名が一瞬だけ黙り、それから腹を抱えて笑い出した。


「最低やな、国造りの神」


「最高と言え」


 大国主は、わずかに笑った。


 その笑みは、二〇五〇年の死にかけた国を見た神のものではない。


 これから盤面をひっくり返す者の笑みだった。


「最初は互助会だ」


 事代主が言った。


「宗教を名乗るには早い。まずは人を救い、家を救い、町を救う。信仰は看板ではなく、実績の後からついてくるものです」


 豊受が続ける。


「子供食堂、共同購入、農村支援、災害備蓄、地域医療。腹と暮らしを支える場を作りましょう」


「次に教育」


 少彦名が言う。


「理科、数学、歴史、金融、情報。国民が騙されんようにする」


「そして産業」


 建御名方が言う。


「現場を鍛える。安売りで技術を殺させん」


「やがて財団へ」


 事代主が言う。


「さらに宗教法人へ」


 豊受が続ける。


「農業法人へ」


 宗像三女神が言う。


「海運と商社へ」


 建御名方が言う。


「防災と警備へ」


 そして大国主が、最後に告げた。


「政界へ」


 神々の世界に、雷鳴のような沈黙が落ちた。


 それは、人が最も汚れた場所と呼ぶ場所。


 だが同時に、制度を変える場所でもある。


 金の流れを変える場所。


 国の優先順位を決める場所。


 逃げてはならない。


 嫌っているだけでは、国は救えない。


「来るぞ」


 建御名方が空を睨んだ。


 時の川の向こうに、黒い影が見えた。


 深層評議会。


 国境を持たぬ欲望の群れ。


 彼らはまだ、大国主たちの介入を知らない。


 だが、時間の揺らぎには必ず気づく。


 やがて妨害が来る。


 金融危機。


 買収。


 情報工作。


 スキャンダル。


 暗殺。


 外圧。


 戦争の火種。


 宗教弾圧。


 選挙妨害。


 全部来る。


 だが、大国主は笑った。


「どんと来い」


 その一言で、神々は時の川へ身を投げた。


      ◇


 昭和五十五年、一月。


 東京。


 冬の空気は乾いていた。


 病院の窓の外では、車の排気が白く揺れている。


 まだ街には携帯電話もなく、インターネットもない。


 人々は新聞を読み、テレビを見て、駅の伝言板に文字を書き、喫茶店で待ち合わせをした。


 日本はまだ若かった。


 疲れてはいたが、倒れてはいなかった。


 未来を疑う者は少なかった。


 その日、都内の小さな産婦人科で、一人の男児が生まれた。


 父は町工場の技術者。


 母は信用金庫に勤めていた女性。


 どちらも特別な家柄ではない。


 政治家の家でも、財閥の家でもない。


 だが大国主は、この家を選んだ。


 技術と金。


 現場と帳簿。


 日本の背骨に、最初から触れられる家だった。


「元気な男の子ですよ」


 産声が響く。


 母は涙を浮かべた。


 父は不器用に笑い、何度も頭を下げた。


 看護師が赤子を抱き上げる。


 その赤子は、泣いていた。


 赤子として、正しく泣いていた。


 だが次の瞬間。


 その目が開いた。


 黒く、深く、静かな目だった。


 赤子の目ではない。


 国を見た神の目だった。


 大国主神は、人の世に降りた。


 名は、大国誠おおくにまこと


 後に日本を揺るがす男。


 宗教家と呼ばれ、政治家と呼ばれ、革命家と呼ばれ、怪物と呼ばれ、救世主と呼ばれる男。


 だが今はまだ、ただの赤子である。


 母の腕に抱かれながら、誠は小さく息を吸った。


 そして、世界を見た。


 病院の壁の中を流れる古い配管。


 看護師の腰痛。


 父の工場が三年後に受ける不当な値下げ圧力。


 母が勤める信用金庫の融資先。


 近所の商店街の後継者不足。


 十年後に膨らむ泡。


 十五年後に崩れる神話。


 二十年後に始まる諦め。


 三十年後に定着する停滞。


 五十年後に訪れる、静かな滅び。


 全部見えた。


 記憶はある。


 神眼もある。


 縁も見える。


 ただ、身体だけが赤子だった。


 誠は思った。


 ――まずは、父の工場を潰させない。


 それが最初の一手だった。


 国家再建。


 互助会の立ち上げ。


 教育財団。


 宗教法人。


 政界進出。


 国際金融との対決。


 大国との駆け引き。


 そんな巨大な未来も、最初の一手はいつだって小さい。


 一つの町工場。


 一つの家庭。


 一つの融資。


 一つの縁。


 国造りとは、そういうものだ。


 誠は母の胸に抱かれ、赤子らしく泣いた。


 その泣き声を聞いた父が、目を細める。


「強そうな声だなあ」


 母が笑った。


「この子、将来すごい子になるかもね」


 誠は内心で答えた。


 なる。


 この国を、もう一度造る。


 窓の外で、昭和五十五年の東京が光っていた。


 まだ誰も知らない。


 この日、日本の滅亡予定表に、神の赤字修正が入ったことを。


 そして、神々が人間として生まれ直したことを。


 さらに同じ夜。


 別の病院で、小さな男児が生まれた。


 少彦名神の御魂を宿す子だった。


 別の町で、少女が生まれた。


 宗像三女神の一柱、その御魂を宿す子だった。


 信州では、拳を握ったまま泣く男児が生まれた。


 建御名方神の御魂を宿す子だった。


 東京湾近くでは、眠る前から人の嘘を聞き分ける赤子が生まれた。


 事代主神の御魂を宿す子だった。


 神々は、盤上に降りた。


 さあ。


 失われた三十年を、始まる前に叩き潰そう。

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