第1話 滅びゆく国を見た神
日本は、爆発して滅びたわけではなかった。
炎に包まれたわけでもない。
黒い軍靴に踏みにじられたわけでも、巨大な怪獣に海へ沈められたわけでもない。
ただ、静かに。
水が干上がるように。
火が灰になるように。
人の声が、町から消えていった。
西暦二〇五〇年。
かつて子供らの声が響いていた小学校には、錆びた鉄棒だけが残っていた。
商店街の看板は半分落ち、シャッターの隙間から枯葉が吹き込んでいた。
山間の村では、田が荒れ、猪が道を歩き、寺の鐘だけが誰にも聞かれず風に鳴っていた。
海辺の町では、港のクレーンが止まり、かつて世界へ品物を送り出した工場の窓ガラスが、ひび割れたまま放置されていた。
それでも、地図の上に日本という名は残っている。
役所もある。
会社もある。
電波も飛んでいる。
画面の中では、誰かが笑っている。
だが――国は、もう痩せ細っていた。
子が生まれない。
若者が残らない。
技術は売られ、土地は買われ、食は外に握られ、金は見えぬ流れに吸い上げられていく。
人々は怒る力さえ失い、諦めを賢さと呼ぶようになっていた。
その光景を、雲よりも高い場所から見下ろしている神がいた。
大国主神。
かつて国を造った神である。
多くの名を持つ神。
大己貴命。
八千矛神。
葦原色許男神。
だが今、彼はただ一柱の名で呼ばれるべきだった。
国を、失いかけた神。
「……これは、我らの国か」
声は静かだった。
静かすぎるほどに、怒っていた。
隣に立つ小さな神が、笠の下から目を細める。
少彦名神。
薬と知恵と技の神。
その身体は小さいが、目だけは誰よりも深い。
「病やな」
「病?」
「国の病や。血が巡っておらん。腹に飯が入っておらん。手足の先が冷えとる。せやのに頭だけが、自分はまだ健康やと思い込んどる」
大国主は何も言わなかった。
病。
確かに、そうだ。
この国は殺されたのではない。
自ら弱るように仕組まれ、弱ったことに気づかぬまま、未来を削り取られていた。
その背後には、無数の糸が見えた。
金の糸。
情報の糸。
法律の糸。
教育の糸。
食料の糸。
海の向こうへ伸びる糸。
大陸へ伸びる糸。
そして、さらに奥。
国境すら持たぬ影の集まり。
名を持たぬ支配者たち。
彼らは王ではない。
将軍でもない。
旗も掲げない。
ただ、国々の心臓に細い針を刺し、少しずつ血を抜いていく。
人はそれを、陰謀と笑う。
陰謀などないと笑う。
だが、大国主には見えていた。
陰謀とは、煙の中にいる怪人のことではない。
欲を持つ者が、金と制度と情報を使い、長い年月をかけて得をする仕組みを作ることだ。
それが積もれば、国ひとつくらい簡単に傾く。
「笑えんな」
武の神、建御名方神が低く唸った。
その拳は岩のように大きい。
「敵が軍勢なら叩き潰す。だがこれは、刀で斬れる相手ではない」
「だから厄介なのです」
穏やかな声で告げたのは、事代主神だった。
商い、言葉、交渉、そして決断の気配をまとう神である。
「この滅びは、戦ではありません。契約です。条約です。規制です。報道です。投資です。選挙です。習慣です。人々が自分で選んだと思い込まされる、長い長い誘導です」
「ならば、どうする」
大国主が問う。
事代主は微笑まなかった。
「同じ盤上に降りるしかありません」
風が止まった。
神々の世界に、沈黙が満ちる。
同じ盤上。
つまり――人として生まれる、ということだ。
神が神のまま国を救えば、それは奇跡で終わる。
奇跡で救われた国は、また奇跡を待つだけの国になる。
それでは意味がない。
国とは、神が持ち上げるものではない。
人が立ち上がることでしか、続かない。
「いつへ戻る」
少彦名が問うた。
大国主は、二〇五〇年の日本から視線を外した。
時間の川を遡る。
二〇四〇年。
遅い。
二〇三〇年。
まだ遅い。
二〇〇〇年。
傷は浅くなるが、すでに根は食われている。
一九九五年。
分岐は多い。
だが、その前から手を打たねば足りない。
一九八五年。
円が揺れ、金が暴れ、泡が膨らむ。
そのさらに前。
一九八〇年。
まだ国に体力がある。
工場に火がある。
商店街に声がある。
農村に人がいる。
企業に技がある。
学校に熱がある。
家庭に未来がある。
そして何より。
人々が、まだ「明日は今日より良くなる」と信じている。
「昭和五十五年」
大国主は言った。
「一九八〇年の東京に降りる」
建御名方が口の端を上げた。
「赤子からやり直しか」
「赤子であって、赤子ではない」
大国主の瞳に、八千矛の光が宿る。
「記憶は封じぬ。神眼も封じぬ。縁を見る力も封じぬ」
「力そのものは?」
少彦名が問う。
「肉体の器に合わせる。赤子の身で山を動かせば、国を救う前に化け物として囲われる」
「ほな、最初から全開。ただし出し方は選ぶ、いうことか」
「そうだ」
大国主は、静かに二〇五〇年の空を見た。
「遠慮している暇はない。だが、雑に暴れれば敵に気づかれる」
少彦名がにやりと笑った。
「ええやん。神のくせに、やることが詐欺師みたいや」
「国造りと言え」
大国主は、わずかに笑った。
「三十年を失わせぬ。失われる前に奪い返す」
神々の間に、ざわめきが走る。
それは恐れではなかった。
久しく忘れていた、国造りの熱だった。
宗像三女神が海の方を見た。
「海路は私たちが見る。物流、港、外との交渉。島国の命脈は海にある」
豊受大神が頷いた。
「食は任せなさい。米、魚、野菜、畜産、流通。腹を握られた国は、必ず頭を下げることになります」
少彦名が指を鳴らす。
「医療、薬、半導体、素材、機械、情報技術。小さい技が大きい国を支える。そこを押さえる」
事代主は、静かに告げた。
「金と言葉は私が見ます。銀行、証券、報道、教育、広告。人は剣より言葉で動く」
建御名方は拳を鳴らした。
「災害、治安、現場、武。国を守る手足は俺が鍛える」
最後に、全員の視線が大国主へ集まった。
大国主は、眼下の列島を見つめた。
北海道から沖縄まで。
山も川も海も町も村も。
かつて自分たちが、人と共に形にした国。
奪われるために造ったのではない。
諦めるために造ったのでもない。
「私は縁を結ぶ」
大国主は言った。
「人と人。町と町。技と金。志と力。古いものと新しいもの。神と人」
その声に、神々の世界そのものが震えた。
「この国を救うのは、我らだけではない。人だ。だが人は、繋がらねば力にならぬ」
大国主の足元に、光の糸が現れる。
それは無数に分かれ、時の川へ降りていく。
工場の二代目。
役所の若手。
町医者の息子。
魚屋の娘。
農家の少年。
大学へ進む少女。
まだ名もない政治家。
潰れかける中小企業。
後に世界を変える研究者。
誰にも見向きされない発明家。
未来で絶望するはずだった者たち。
その縁を、一本ずつ結び直していく。
少彦名が笑った。
「派手にやるんか?」
「派手にやる」
大国主は答えた。
「だが、最初は静かにだ」
「静かに?」
「赤子が国を動かせば、怪しまれる」
「そらそうや」
「だから、まずは親を動かす」
少彦名が一瞬だけ黙り、それから腹を抱えて笑い出した。
「最低やな、国造りの神」
「最高と言え」
大国主は、わずかに笑った。
その笑みは、二〇五〇年の死にかけた国を見た神のものではない。
これから盤面をひっくり返す者の笑みだった。
「最初は互助会だ」
事代主が言った。
「宗教を名乗るには早い。まずは人を救い、家を救い、町を救う。信仰は看板ではなく、実績の後からついてくるものです」
豊受が続ける。
「子供食堂、共同購入、農村支援、災害備蓄、地域医療。腹と暮らしを支える場を作りましょう」
「次に教育」
少彦名が言う。
「理科、数学、歴史、金融、情報。国民が騙されんようにする」
「そして産業」
建御名方が言う。
「現場を鍛える。安売りで技術を殺させん」
「やがて財団へ」
事代主が言う。
「さらに宗教法人へ」
豊受が続ける。
「農業法人へ」
宗像三女神が言う。
「海運と商社へ」
建御名方が言う。
「防災と警備へ」
そして大国主が、最後に告げた。
「政界へ」
神々の世界に、雷鳴のような沈黙が落ちた。
それは、人が最も汚れた場所と呼ぶ場所。
だが同時に、制度を変える場所でもある。
金の流れを変える場所。
国の優先順位を決める場所。
逃げてはならない。
嫌っているだけでは、国は救えない。
「来るぞ」
建御名方が空を睨んだ。
時の川の向こうに、黒い影が見えた。
深層評議会。
国境を持たぬ欲望の群れ。
彼らはまだ、大国主たちの介入を知らない。
だが、時間の揺らぎには必ず気づく。
やがて妨害が来る。
金融危機。
買収。
情報工作。
スキャンダル。
暗殺。
外圧。
戦争の火種。
宗教弾圧。
選挙妨害。
全部来る。
だが、大国主は笑った。
「どんと来い」
その一言で、神々は時の川へ身を投げた。
◇
昭和五十五年、一月。
東京。
冬の空気は乾いていた。
病院の窓の外では、車の排気が白く揺れている。
まだ街には携帯電話もなく、インターネットもない。
人々は新聞を読み、テレビを見て、駅の伝言板に文字を書き、喫茶店で待ち合わせをした。
日本はまだ若かった。
疲れてはいたが、倒れてはいなかった。
未来を疑う者は少なかった。
その日、都内の小さな産婦人科で、一人の男児が生まれた。
父は町工場の技術者。
母は信用金庫に勤めていた女性。
どちらも特別な家柄ではない。
政治家の家でも、財閥の家でもない。
だが大国主は、この家を選んだ。
技術と金。
現場と帳簿。
日本の背骨に、最初から触れられる家だった。
「元気な男の子ですよ」
産声が響く。
母は涙を浮かべた。
父は不器用に笑い、何度も頭を下げた。
看護師が赤子を抱き上げる。
その赤子は、泣いていた。
赤子として、正しく泣いていた。
だが次の瞬間。
その目が開いた。
黒く、深く、静かな目だった。
赤子の目ではない。
国を見た神の目だった。
大国主神は、人の世に降りた。
名は、大国誠。
後に日本を揺るがす男。
宗教家と呼ばれ、政治家と呼ばれ、革命家と呼ばれ、怪物と呼ばれ、救世主と呼ばれる男。
だが今はまだ、ただの赤子である。
母の腕に抱かれながら、誠は小さく息を吸った。
そして、世界を見た。
病院の壁の中を流れる古い配管。
看護師の腰痛。
父の工場が三年後に受ける不当な値下げ圧力。
母が勤める信用金庫の融資先。
近所の商店街の後継者不足。
十年後に膨らむ泡。
十五年後に崩れる神話。
二十年後に始まる諦め。
三十年後に定着する停滞。
五十年後に訪れる、静かな滅び。
全部見えた。
記憶はある。
神眼もある。
縁も見える。
ただ、身体だけが赤子だった。
誠は思った。
――まずは、父の工場を潰させない。
それが最初の一手だった。
国家再建。
互助会の立ち上げ。
教育財団。
宗教法人。
政界進出。
国際金融との対決。
大国との駆け引き。
そんな巨大な未来も、最初の一手はいつだって小さい。
一つの町工場。
一つの家庭。
一つの融資。
一つの縁。
国造りとは、そういうものだ。
誠は母の胸に抱かれ、赤子らしく泣いた。
その泣き声を聞いた父が、目を細める。
「強そうな声だなあ」
母が笑った。
「この子、将来すごい子になるかもね」
誠は内心で答えた。
なる。
この国を、もう一度造る。
窓の外で、昭和五十五年の東京が光っていた。
まだ誰も知らない。
この日、日本の滅亡予定表に、神の赤字修正が入ったことを。
そして、神々が人間として生まれ直したことを。
さらに同じ夜。
別の病院で、小さな男児が生まれた。
少彦名神の御魂を宿す子だった。
別の町で、少女が生まれた。
宗像三女神の一柱、その御魂を宿す子だった。
信州では、拳を握ったまま泣く男児が生まれた。
建御名方神の御魂を宿す子だった。
東京湾近くでは、眠る前から人の嘘を聞き分ける赤子が生まれた。
事代主神の御魂を宿す子だった。
神々は、盤上に降りた。
さあ。
失われた三十年を、始まる前に叩き潰そう。




