第八章「辺境伯と運転曲線」
夜明け前、俺たちは出発した。
ガロンと盗賊改めの十二人。アリサ。それから俺。
アリサの村は、小さな手を振って、俺たちを見送った。
子供たちが、虫ではなく、配給の麦の粥を食って、俺の名を呼んでいた。
「リツ様、ありがとう」
「使徒様、また来てね」
俺は手を上げて、応えた。
言葉を返そうとしたが、喉が詰まった。
俺は黙ったまま、馬の背に身を預けた。
馬は、ガロンが用意してくれた。
俺は、馬に乗ったことが、前世で一度もない。
最初は、ぐらぐらと不安定だったが、ガロンが俺の馬の手綱を取って、慎重に歩かせてくれた。
「リツ様、馬は、人を映します」
「映す?」
「乗り手が落ち着いていれば、馬も落ち着く。乗り手が焦れば、馬も焦る。電車と、似ているのではありませんか」
「……ああ」
俺は微笑した。
なぜか、その例えで、俺は馬に乗ることに慣れることができた。
三日、馬を歩かせた。
森を抜け、丘を越え、川を渡った。
俺は途中、ガロンに、地形と街道の関係を、しつこく聞いた。
どこに山があり、どこに川があり、どこに谷がある。
どこで馬車が立ち往生し、どこで荷物が積み替えられる。
俺はそれを、運転士手帳に書き留めていった。
手帳は、前世から持ち越したものが、なぜか胸ポケットにそのまま残っていた。
四日目の夕方、ガレリア辺境伯領の外壁が、視界に入った。
石造りの城壁。半分が、黒く焦げている。
城壁の前で、見張り兵が、槍を構えた。
「何者か!」
「ガロンだ!第三衛兵団、生存者!」
兵士の槍が、ぴたりと止まった。
「ガロン……!?生きていたのか!」
「リツ様の御加護で、戻ることができた。閣下に、お目通りを願いたい」
通された城は、半ば廃墟だった。
石積みの柱は崩れ、壁には、黒い焼け跡が斑模様に残っている。
ろうそくの明かりが、奥の広間で、ゆらゆらと揺れていた。
奥の椅子に座っていたのは、痩せた中年の男だった。
黒い髭を蓄え、肩には継ぎ接ぎの外套をまとっている。
目は、深く窪んでいる。
数日、まともに眠っていない目だ。
「ガレリア辺境伯、ヴェルナー」
男は、自ら名乗った。
「お前が、噂の鉄路の使徒、か」
「噂、ですか」
「レイル村から、伝令鳥が飛んできた。盗賊を、声ひとつで縛りつけたと」
俺は頭を下げた。
「高坂律と申します。ただの運転士です」
「ただの運転士……」
ヴェルナーは、ふっと、皮肉そうに口角を上げた。
「ただの運転士に、私の領を救ってもらおうとは。困ったものだ」
俺は黙って、彼の前に進み出た。
懐から、運転士手帳を取り出した。
手帳の中ほどに、俺はこの三日間で書き留めた地形と街道のメモを、整理し直していた。
「閣下。失礼ながら、領内の地図を、見せていただけませんか」
「地図?」
「街道、河川、山岳、それから集落の位置を、把握したいのです」
ヴェルナーは、しばらく俺を見ていた。
それから、肩越しに、家臣に何か命じた。
数分後、広間の中央のテーブルに、巨大な羊皮紙の地図が広げられた。
俺はその地図を、しばらく無言で眺めた。
脳裏で、地図の上に、運転曲線を引いていく。
縦軸に時間、横軸に距離。
領北の閉塞地点から、領南の港湾までの、最短経路。
勾配と曲率を考慮した、馬車の速度プロファイル。
集落と集落の間の、所要時間。
俺はテーブルの脇のインク壺に羽ペンを浸し、地図の余白に、図表を引き始めた。
線が、すっと走る。
ひとつの斜線が、もうひとつの斜線と交差する。
ヴェルナーの目が、その線を追う。
「これは……何だ」
「ダイヤグラムです」
「ダイヤ?」
「人と荷物の動きを、時間と空間で、表現するための図表です。これがあれば、いつ、どこに、どれだけのものを、いくらで動かせるか、一目でわかります」
俺はそれを、淡々と説明した。
ペン先が紙を滑る音。
ろうそくの油が、ぱちっ、と一度はぜた。
ヴェルナーは、地図を見ていた。
彼の指が、震えていた。
誰にも見られないほど、わずかに、しかし確かに、震えていた。
「閣下」
彼の家臣の一人が、声をかけた。
ヴェルナーは答えなかった。
ただ、地図を見ていた。
それから、ゆっくりと、俺の方に向き直った。
そして、立ち上がった。
「失礼する」
彼は、俺の前で、深く膝をついた。
家臣たちが、いっせいに息を呑んだ。
辺境伯が、客人に膝をつくのは、この国の作法に存在しない動作だった。
「リツ殿。我が領の運行統括を、お願いしたい。
いや、頼む。あなたが、必要だ」
ヴェルナーの声は、低く、しかし、はっきりしていた。
俺は、しばらく、何も言えなかった。
俺はただ、地図に運転曲線を引いただけだ。
業界用語で言えば、ダイヤ作成の初歩。
日本の鉄道運転士なら、誰でも、いずれは触れる仕事の一部。
それを、ただ書き写しただけだ。
「閣下、頭をお上げください」
俺は、慌てて言った。
「俺は、ただ、平常運転をしているだけで」
ヴェルナーは、頭を上げなかった。
「リツ殿。我らは半年、停止していた。あなたは三分で、進路を示した。
平常運転とは、本来、こういうことなのだな」
俺は、答えられなかった。
ろうそくの炎が、地図の上で、わずかに揺れた。
その揺れる影の中で、俺は、自分のやってきた十三年が、初めて、世界の文脈と触れたのを感じていた。
ヴェルナーは、ようやく顔を上げ、立ち上がった。
その目に、わずかに、光が戻っていた。
「リツ殿。あなたの作戦に、領のすべてを賭ける」
「閣下、ひとつだけ、お願いがあります」
「何なりと」
「俺を、使徒と呼ぶのは、やめてください。俺は、運転士です。それで、十分です」
ヴェルナーは、しばらく俺を見ていた。
それから、深く頷いた。
「では、リツ殿、と」
「それでお願いします」
その夜、俺は城の一室をあてがわれ、寝具を与えられた。
扉の外には、なぜか衛兵が二人、立った。
「警護のためでございます」
とアリサが教えてくれたが、俺は警護というよりは、もう「逃げないため」の見張りに近い気がした。
貴族にとって、運行統括という存在は、それくらい重要なものらしい。
俺は寝具の上に座り、運転士手帳を開いた。
領内の地図を、頭の中で再構築する。
北の閉塞地点。南の港湾。中継点となるはずの集落。
運ぶべき物資──塩、穀物、薬、武器。
運ぶべき人──兵士、難民、職人。
手帳の白紙に、俺はゆっくりと、第一案のダイヤを書き始めた。
夜半、ろうそくの芯が短くなり、油が燃え尽きそうになるころ、俺はようやくペンを置いた。
書き終えた図面は、八枚に及んだ。
俺はそれを、最初から最後まで、もう一度、声に出して読み上げた。
「第一便、午刻発、南区集落、所要二刻、停車四半刻」
「第二便、午後三刻発、東街道、迂回経路、所要三刻」
誰も聞いていない。
でも俺は、声に出すことで、ダイヤの矛盾を、自分の耳で確認した。
矛盾が見つかれば、その場で修正した。
線を一本引き直すたびに、別の線が動く。
その全部が、明日からの領の生死を、組み立てていく。
夜が更けて、俺は手帳を閉じた。
窓の外で、月が、城壁の崩れた部分から覗いていた。
月明かりの下に、半ば焼け落ちた領の影が、ぼんやりと広がっていた。
俺は、その影に、一礼した。
明日から、ここに、線路を敷く。
俺はそう決めた。
寝ようとした、その瞬間。
扉が、軽くノックされた。
アリサだった。
「リツ様、お休みのところ、申し訳ございません」
「どうした」
「先ほど、城の使いから、伝言が」
彼女は、ろうそくの灯りを手に、しばらくためらった。
「閣下が、明朝、王都へ伝令を出すそうです。
使徒様、いえ、リツ様の御名と、御業を、王都の宮廷に報告する、と」
俺は、ため息をついた。
「アリサ。俺は、目立つのが、好きじゃない」
「存じております」
「だが、もう、止められないだろうな」
「はい」
彼女は、ろうそくを、俺の枕元の燭台に立てた。
「お休みになる前に、お顔を、もう一度、拝見したいと思いまして」
「どうしてだ」
「八百年、誰もが、空想していた御方が、いま、目の前にいる、という事実を、もう一度、確かめたかったのです」
「俺は、ただの運転士だよ」
「リツ様」
「うん」
「ただの、というのは、世界でいちばん、難しいお役目です」
俺は、何も答えなかった。
代わりに、もう一度、声に出した。
「次の閉塞、進行よし」
ろうそくの炎が、一瞬、強く揺れた。
扉が静かに閉まり、アリサの足音が、遠くなっていった。




