第六章「信号守アリサ」
村の入口に、痩せた老人が立っていた。
手に握った杖は、彼自身の体より、よほどしっかりしているように見えた。
「アリサや。そっちの男は」
「村長様。この御方は、リツ様。鉄路の、使徒様です」
村長の眉が、一瞬だけ上がった。
そして、すぐに下がった。
「アリサや。冗談はよさんか」
「冗談ではございません」
「飢えた村に、神様は来ん。来るのは、税の取り立てか、戦か、病気だけだ」
村長の声は、疲れていた。
怒鳴る気力もないほど、疲れていた。
俺は、村長の前に進み出た。
深く頭を下げる。
「初めまして。高坂律と申します」
「……」
「先ほどから話を聞きました。村が飢えているとのこと。失礼ですが、村の食料倉庫を、見せていただけませんか」
「倉庫を見て、どうする」
「中の管理を、改善できるかもしれません」
村長は、しばらく俺を見ていた。
俺はその視線を、そらさずに受け止めた。
長い沈黙のあと、村長は、ふっと息を吐いて、首を傾けた。
「来い」
倉庫は、村の中央にあった。
石造りの、四角い、低い建物。
中は、薄暗かった。
床に、麻袋がいくつか、無造作に積まれている。
壁際には、塩の樽。隅に、干した肉が吊るされている。
その全部が、ばらばらに置かれている。
どれが新しいか、どれが古いかも、判別がつかない。
俺は、しばらく中を見回した。
そして、頭の中で、業務上の手順を呼び出した。
倉庫管理。
先入れ先出し。期限管理。ロット分け。
俺はそれを、運転士になる前に、車両基地の備品管理を任されていた時期に、毎日やっていた。
「村長」
「なんだ」
「この穀物の麻袋は、いつ届いたものか、わかりますか」
「さあ……」
「分けてみます。古いものから手前に、新しいものを奥に」
「そんなことをして、何になる」
「古いものから先に食べないと、奥のものが腐ってしまう。腐るまえに使えれば、それだけで食料は増えます」
村長は、最初、半信半疑だった。
でも、俺が黙々と、麻袋を並べ替え始めると、彼も諦めたように、横に立って見ていた。
俺は、麻袋ひとつひとつに、軽く手を当てた。
湿り具合、虫食いの有無、匂い。
明らかに古いものは、すぐにわかった。
米のような穀物。麦のような穀物。種類も、二、三種類ある。
俺はそれを、種類ごと、状態ごとに、四つの山に分けた。
「最優先で消費する山。次に消費する山。保管する山。捨てる山」
声に出して、指で差した。
「優先消費、よし」
「次消費、よし」
「保管、よし」
「廃棄、よし」
その瞬間、倉庫の床に積まれた麻袋の上を、薄い銀色の光が、すっと走った。
俺自身、何が起きたかわからなかった。
でも、隣にいた村長が、息を呑むのが聞こえた。
「な、なんだ、この光は」
「鑑定の御業、です」
アリサが、震える声で言った。
「リツ様の御所作で、それぞれの食料の、残された質と量が、可視化されているのです」
俺は、自分の手を見た。
光は、もう消えていた。
でも、俺の目には、それぞれの麻袋の、残存量と、推定保管期限が、なぜかはっきりと見えるようになっていた。
いや、見えるというより、わかる。
手を当てれば、わかる。
俺は、四つの山を、もう一度確認した。
優先消費の山。これは三日以内に食べきらないと、虫がつく。
次消費の山。これは一週間ほど保つ。
保管の山。これは、適切に管理すれば、二か月持つ。
廃棄の山。これは、もうダメだ。
その全部が、俺の頭の中で、ダイヤグラムのように整然と並んでいた。
「村長」
「お、おう」
「この村の人口は、何人ですか」
「百二十三人」
「うち、子供と老人は」
「子供が三十五人。老人が、二十二人」
「子供と老人を、優先で。彼らから食べさせてください」
「だが、働き手の方が、力仕事をしている」
「働き手の方が、二、三日くらいなら、空腹を耐えられる。子供と老人は耐えられない。そこで死人が出れば、結果として村全体の生産性が落ちる」
村長は、目を見開いていた。
「リツ様、それは……」
「在庫管理と、リソース配分の、基本的な考え方です」
俺は淡々と続けた。
「現状、この倉庫の食料を最大限に活用すれば、村は最低でも一か月、保ちます。
ただし、ばらばらに置いて、古いものから腐らせていけば、二週間でゼロです。
差は、二倍以上。これは、管理の差です」
村長は、しばらく俺を見て、それから、深く息を吐いた。
「八百年、信号守の家系が、御方を待っていたのは……」
彼は、言葉を切った。
「こういうことだったのか」
俺は、何も答えなかった。
ただ、最後の麻袋を、所定の山に積み直した。
「廃棄、よし」
最後の指差喚呼。
倉庫の床を、再び薄い銀の光が、すっと走り抜けた。
外に出ると、村人たちが集まっていた。
俺がアリサと共に村に入ったところを見た者が、噂を広めたらしい。
大人も、子供も、痩せた頬で、こちらを見ていた。
俺は、群衆の前に出るのが、得意ではない。
いつもなら、何も言わずに、その場を立ち去る。
でも今は、立ち去れない。
立ち去れば、虫を拾っていたあの子供たちが、また地面を漁ることになる。
「皆さん」
俺は、声を張った。
「倉庫の食料の整理が終わりました。今夜から、子供と老人を優先して、配給します」
ざわめき。
一人の母親が、震える声で言った。
「で、でも、働き手は……」
「働き手の方が、丈夫です。子供と老人を、まず生かしてください。それが、結果として、村を生かします」
俺はそれだけ言って、頭を下げた。
ざわめきが、ふっと静まった。
そして、村人の中の一人、白髪の女が、ぽつりと言った。
「鉄路の使徒、様だ」
その一言が、漣のように、広がった。
「使徒様だ」
「本当に、来てくださったのか」
「八百年……八百年だ」
「アリサが、毎朝、唱えていた、あの祝詞の意味が……」
誰かが、地面に膝をついた。
二人目が、続いた。
三人目、四人目。
あっという間に、村のほとんど全員が、土の上に膝をついていた。
俺は、それを止めようとした。
止められなかった。
俺の指の動き一つで、八百年の祈りが、形を取った。
俺は、何も特別なことはしていない。
ただ、毎朝の点呼と、倉庫の在庫管理を、いつも通りやっただけだ。
でも、いつも通りが、ここでは奇跡だった。
アリサが、俺の隣に立って、小さな声で言った。
「リツ様。お疲れではありませんか」
「いや」
「では、我が家へ。お住まいを、ご用意いたします」
「ありがとう」
俺はもう一度、村全体を見回した。
膝をついた村人たち。
その奥に、虫を拾っていた子供二人が、ぽかんと俺を見上げていた。
俺はその子供たちに向かって、軽く手を上げた。
子供たちが、おそるおそる、手を振り返した。
よかった、と俺は思った。
あの子たちは、今夜は、虫より旨いものが食える。
たぶん、それだけが、俺がこの世界で、最初にやった仕事の意味だった。
アリサに連れられて、信号守の家へ向かった。
石と木で組まれた、慎ましやかな家屋。
扉を開けると、土間の正面に、古びた木の祭壇があった。
祭壇の上には、錆びた鉄道の部品が、丁寧に並べられている。
継目板。連結器の破片。レールの切れ端。
どれも、八百年前のものだろう。
その全部が、毎日磨かれていた。
艶の出ない部分にも、布で擦った跡が、規則正しく残っていた。
俺は、その祭壇を、長く見つめた。
「アリサ。これは……」
「はい。我が家の祠です。代々、ここで祝詞を唱えてまいりました」
「八百年」
「八百年、です」
俺は、無言で頭を下げた。
深く、深く、頭を下げた。
誰に向かって、と問われれば、答えに困る。
たぶん、俺は、彼女の祖先たちに頭を下げていた。
俺と同じように、誰にも気づかれない仕事を、毎日続けてきた人々に。
顔を上げると、アリサが、目を丸くしていた。
「リツ様。なぜ、お頭を下げられるのです」
「君のご先祖様に。八百年、よく続けてくれた、と」
「リツ様……」
彼女は、また泣きそうな顔になった。
「八百年の中で、先祖たちにそう言葉をかけてくださった御方は、リツ様が、初めてです」
その夜、俺はアリサの家の隅で、毛布に包まって眠った。
干し草の匂いが、鼻の奥に届いた。
遠くで、村人たちが配給を受けている、低い話し声が聞こえた。
子供の笑い声が、その合間に混じる。
俺は、目を閉じる前に、もう一度、声に出した。
「次の閉塞、進行よし」
それは、誰にも聞かせるためでもない、自分のための祝詞だった。
窓の外で、信号機の方角に、青い光が、薄く灯ったような気がした。
俺は確かめなかった。
明日からは、もっと忙しくなる、という予感だけが、確かにあった。




