第五章「目覚めたら線路の上」
少女が膝をついたまま、しばらく動かなかった。
俺はとりあえず、彼女のそばに歩み寄って、しゃがみ、視線の高さを合わせた。
「立てるか」
「は、はい……」
「君の名前は?」
「アリサ・フォン・レイル、と申します」
「俺は、高坂律。たかさか、りつ、だ」
「タカサ……カリツ、様」
「いや、姓と名がある。タカサカが姓で、リツが名前だ」
「リツ様」
彼女はその名を、口の中で何度か転がした。
「ここはどこだ」
「ここは、レイル村の北、古代鉄路遺構の入口でございます」
「鉄路遺構」
「八百年前まで、世界を貫いていた、神々の乗り物の通り道です」
彼女は、敬虔な表情で、錆びた線路を指した。
俺はその線路を、あらためて見た。
軌間は、やや広い。
日本の在来線より広く、新幹線より少し狭い、というところだろうか。
枕木の間隔は、目測で六十センチ前後。
継目板は、形こそ古いが、原理は俺の知っているものと同じだ。
俺は線路に膝をつき、レールに手を当てた。
冷たい。
手のひらに、わずかな振動が伝わる。
風で揺れているのか、それとも、地中で何かが動いているのか。
俺はそれを「微振動、要観測」と頭の中にメモした。
アリサが、俺の所作をじっと見ていた。
「あの、リツ様」
「なんだ」
「先ほどの、両手の動き、あれは何という御業ですか」
「……ただの確認だよ」
「確認、ですか」
「目で見て、指で差して、口で唱えて、耳で聞く。そうすれば、ミスが減る」
「四重示現詠唱」
アリサが、はっと息を呑んだ。
「失われた高位魔術、四重示現詠唱と、寸分違わぬ、御所作です」
俺は、自分の指先を見つめた。
これが魔術。
ただの安全確認が、魔術。
そう言われても、頭がうまく追いつかない。
俺は再び立ち上がり、周囲をぐるりと見回した。
「アリサ。とりあえず、状況を聞かせてくれ。俺は、ここがどこかも、何の世界かも、まだわかっていない」
「は、はい」
「俺の前世は、別の世界の運転士だった。電車を運転していた。たぶん、君の言う神々の乗り物に、近いものを動かしていた」
「電車」
「運転士」
「鉄路の、使徒」
彼女はもう一度、震える声で繰り返した。
「俺はそんな大層なものじゃない。ただの一作業者だ。毎日、決められた時間に、決められた線路を走らせるだけの、ただの会社員だ」
「リツ様」
「なんだ」
「我が一族は、八百年、その『毎日、決められた時間に、決められた線路を走らせる』お役目を、お待ちしていました」
「……」
「鉄路の使徒とは、世界の流れを定刻に保つ存在のことなのです」
俺は黙った。
言葉が出なかった。
アリサは、地面に膝をついたまま、手のひらに錆びた金属の破片を握り、それを胸に押し当てた。
「わたくしの祖先は、八百年前、最後の神々の乗り物が動きを止めたとき、鉄路を守る信号守の役目を授かりました。
八百年、ただ毎日、線路を見回り、信号機の前で祝詞を唱える。それだけのお役目を」
「祝詞」
「閉塞、進行よし」
「次駅停車、ご安全に」
「列車防護、発報無し」
彼女が、つかえながら、その言葉を口にした。
俺は、息を止めた。
それは、俺が毎日、業務で、何百回、何千回と唱えてきた言葉だった。
異世界に来て、異世界の少女の口から、それが聞こえてくる。
偶然、ではあり得ない。
「アリサ」
「はい」
「君の祖先は、その意味を、知っていたか」
「いえ。代々、口伝で受け継いだだけです。意味を知っている者は、もう誰もおりません。
ただ、毎日、毎日、唱えるのが、わたくしたちの務めでした。
誰にも気づかれず、ただ、唱える。それが、信号守の役目でした」
俺はもう一度、息を止めた。
誰にも気づかれず、ただ、毎日、繰り返す。
それは──俺が、十三年やってきたことと、同じだ。
「立てるか」
俺はアリサの腕を取って、立たせた。
彼女の腕は細く、触れた指の下で骨の感触が直接伝わるほどだった。
「俺は、ひとまず、君の村まで歩こう。状況を整理したい。それからどうするかを、考える」
「は、はい」
歩き出すと、信号機の青い光が、またゆっくりと消えていった。
俺はその光を一度、振り返って見た。
錆と苔に覆われた、古い、忘れられた信号機。
でも、灯る。
俺の声で、灯る。
森の中の小道を、アリサが先導してくれる。
獣道に近い細い道だが、彼女は迷わない。
時々、立ち止まって、後ろの俺を確認する。
俺がついてきていることを、何度も確かめるように。
歩きながら、俺は頭の中で整理した。
俺は死んだ。貨物列車に跳ねられた。
その後、目を覚ましたら、剣と魔法のファンタジー世界らしき場所にいた。
俺の業務上の習慣が、この世界では失われた古代魔術と一致している。
俺の前世の毎日が、この世界では「鉄路の使徒」と呼ばれている。
……整理しても、現実感はない。
でも、現実だ。
砕石を踏む靴の感触。
森の冷たい空気。
アリサの息遣い。
全部が、現実だ。
ふと、俺は自分の手のひらをもう一度見た。
関節のしわ。掌のすり傷。爪の根元の小さな黒ずみ。
全部、前世の俺の手のままだった。
異世界に来たのに、俺の体は、俺のままで来ていた。
それが、不思議と、俺を落ち着かせた。
俺は俺のまま、ここにいる。
それなら、できることがあるはずだ。
自分にできることを数えるのは、運転士の朝の点呼と同じだ。
「アリサ」
「はい」
「君の村は、いま、どんな状況だ?」
俺は、できるだけ実務的な質問をした。
現実感を取り戻すには、実務の話が一番早い。
「村は……飢えております」
「飢え?」
「北の街道が、閉塞王と呼ばれる御方の魔法で、封鎖されているのです。
塩も、穀物も、届きません。
もう、何ヶ月にもなります」
「閉塞王」
「鉄路の言葉で『閉塞』、すなわち『封鎖』を司る、暗黒の御方です」
俺は、また足を止めた。
閉塞。
俺の業界では、その言葉は、別の意味を持つ。
「アリサ。閉塞という言葉を、君はどう理解している」
「土地を封じ、流れを止める呪い、と」
「違うな」
俺は、低い声で言った。
「閉塞は、止めるための仕組みじゃない。安全に、走らせるための仕組みだ」
森の中に、俺の声だけが、しんと残った。
アリサは、目を見開いていた。
彼女の頬を、一筋の涙が、ゆっくりと伝った。
「八百年、誰も、その違いを言える者は、おりませんでした」
俺はまた、歩き出した。
歩きながら、自分の言葉が、自分の中で、奇妙に重く響いていた。
閉塞は、止めるための仕組みじゃない。
その認識が、これからこの世界で、どれだけの意味を持つことになるのか。
俺はまだ、知らなかった。
森を抜ける手前で、アリサがぴたりと足を止めた。
「リツ様、ここからは、村が見えます」
彼女が腕を持ち上げ、木立の隙間を指した。
俺は前に出て、覗き込んだ。
眼下にあったのは、想像していたよりずっと小さな集落だった。
石積みの低い壁。藁葺きの屋根。畑のうねり。
そのすべてに、薄い灰色がかかっている。
飢えの色だった。
畑の作物は、半分が萎れている。
子供が二人、道端でしゃがみ込み、何かを地面から拾っていた。
石ころでも食べるつもりかと、一瞬、俺はぞっとした。
よく見れば、それは虫だった。
虫を探していたのだ。
俺はその光景を、長く見ていられなかった。
目を細め、視線を村全体に広げる。
村の中央に、わずかに大きな建物がひとつ。
そのまわりに、痩せた男たちが集まっていた。
倉庫らしい、と俺は当たりをつけた。
「アリサ」
「はい」
「村の食料倉庫は、あの中央の建物か」
「はい、よくおわかりに」
「中の管理は、どうなっている」
「管理、ですか?」
「在庫の出し入れの記録、保管期間、ロット番号」
「そ、そのようなものは、特には」
彼女は、申し訳なさそうに首を振った。
俺は、深く息を吐いた。
飢えている。
でも、村に食料は、まだ少しはあるはずだ。
その少しを、どう使うかで、生死が分かれる場面が必ずある。
そういう場面で、現代の倉庫管理は、たぶん役に立つ。
俺は前に進み、村に向かって、坂道を降り始めた。
アリサが、慌てて後を追ってくる。
「リツ様、お、お待ちを」
「待たない」
俺は短く言った。
「腹が減っている人間に、待てとは言えないよ」
その声は、自分でも少し驚くほど、はっきりしていた。
誰かを助けたい。
その感情を、十三年ぶりに、俺は自分に許そうとしていた。




