第四章「ホームの幼児」
始発から数えて六駅目。住宅街の中の、小さな駅。
俺はいつも通り、停止位置目標に列車を停めた。
ドアが開く。降りる客は二人。乗る客は一人。
その瞬間だった。
ホームの中ほどから、母親の悲鳴が聞こえた。
「あっ、待って!」
俺の視界の左下、ホームの黄色い線の手前。
昨日、夢で声を聞いたあの男の子が、母親の手を振りほどいて、走り出していた。
線路に向かって。
ホームの端で、男の子の小さな足が、黄色い線を踏み越える。
体が、前に倒れる。
線路に落ちた。
その音は、聞こえなかった。
子供の体は軽すぎて、線路に落ちる音を立てない。
でも俺の耳には、はっきりと、それが聞こえた気がした。
ドン、と何かが胸を突き上げる。
息ができない。
次の瞬間、向かい側の線路で、対向の急行列車のヘッドライトが見えた。
白く、強く、夜明け前の薄暗い線路を切り裂くように、近づいてくる。
到達まで、十秒。
いや、八秒。
俺は、何も考えなかった。
考えていたら、間に合わなかった。
俺は運転席のドアを開け、ホームに飛び降り、男の子のいる線路の方へ駆けた。
マニュアル違反だ。
助役にあれほど叩き込まれた、運転席を離れるなという掟を、俺は破った。
でも、走っていた。
線路に飛び降りる。
砕石が、靴の裏で音を立てる。
男の子は、線路の真ん中に、四つん這いになって泣いていた。
俺は彼を抱え上げ、ホームの下の退避空間に押し込んだ。
壁に背中を強く打ちつける。
息が一瞬止まる。
男の子を、自分の体で覆う。
顔を、自分の胸に押し込む。
子供の体は、思ったより軽かった。
風船を抱えているような、頼りない柔らかさ。
頭の上を、急行列車が通過していく。
風圧。轟音。鉄の重量が、空気を割って通り過ぎる音。
俺の制服の裾が、巨大な手で引っ張られるように、ばたばたと暴れる。
男の子は、俺の胸の中で泣いていた。
声は、列車の轟音にかき消されて、聞こえなかった。
列車が通り過ぎた。
俺はゆっくりと顔を上げた。
ホームの上から、母親が叫んでいる。
「子供!子供を!」
駅員も走ってくる。
俺は男の子を、駅員の手に渡した。
子供は、生きている。
怪我もしていない。
俺はその小さな顔を、最後にもう一度だけ見た。
大きな目。涙でぐしゃぐしゃの頬。鼻水。
生きている顔だ。
よかった、と俺は思った。
心の底から、思った。
その思いは、今までに感じたことのない種類の感情だった。
誰かを助けて嬉しい、という感覚を、俺は十三年間、自分に許してこなかった。
俺は誰も助けない。誰も傷つけない。
その中立の場所に、俺は自分を置き続けてきた。
でも今、目の前の小さな命が無事だったことに、俺は確かに、嬉しいと感じていた。
その感情は、長く眠っていた何かが、不器用に背伸びをするような、奇妙な暖かさを伴っていた。
その瞬間、俺は背後の気配に気づいた。
俺がいま立っているのは、自分の運転していた電車の、車両のすぐ脇。
退避空間から線路に出ようとしたとき、俺の足元に、何か違和感があった。
顔を上げる。
隣の線路に、もう一本、貨物列車が走り込んでくるのが見えた。
今度は、俺と男の子のいた側だ。
ダイヤを思い出す。
始発の時間帯、この駅は対向と並行で、回送と貨物の入れ替えが頻繁にある。
俺はそれを知っていた。
知っていたのに、男の子に意識が向きすぎていた。
俺は退避しようとして、足を踏み出した。
砕石が、靴底を滑らせた。
体が、線路の中央に流れる。
貨物列車の、警笛が鳴った。
ぶ、と低く太い、警告の音。
俺は咄嗟に、ホームの方へ転がろうとした。
間に合わなかった。
衝撃。
体が宙に浮いた。
不思議と、痛みはなかった。
ただ、世界が、ゆっくりと回っているのが見えた。
ホームの蛍光灯。空。線路。母親の顔。駅員の顔。男の子の顔。
全部が、スローモーションで、俺の視界を流れていく。
ああ、これが死ぬということか、と俺は思った。
意識が遠くなる。
遠くなる前に、俺の頭に浮かんだのは、奇妙なことに、業務上の決まり文句だった。
次の閉塞、進行よし。
毎日、毎日、何百回、何千回と、唱えてきた、その言葉。
俺の人生の、最後の言葉が、それだった。
目を閉じる前に、最後に見えたのは、男の子の顔。
無事だった。
よかった、と俺は思った。
俺の人生は、四時五十二分から始まり、定時で終わった。
────
暗闇。
音もない。
時間の流れも、わからない。
俺はただ、何もない場所に、漂っている。
ふと、声が聞こえた気がした。
「使徒様……」
女の声だった。若い。震えている。
「使徒様、目を覚ましてください」
俺は意識を引き上げようとした。
まぶたが、重い。
でも、開く。
最初に見えたのは、空だった。
でも、それは、俺の知っている空ではなかった。
空が、青すぎた。
光が、強すぎた。
雲の形が、奇妙に立体的だった。
俺は仰向けに寝ていた。
背中の下に、何か硬いものが当たっている。
手で触ると、ざらついた金属の感触。
起き上がる。
体は、痛くない。
貨物列車に跳ねられた感覚は、嘘のように消えていた。
俺が寝ていたのは、線路の上だった。
ただし、俺の知っている線路ではない。
二本のレールが、苔と蔦に覆われて、森の中をどこかへ向かって伸びている。
枕木は、半分以上が朽ちかけている。
近くに、信号機らしきものが、ぽつりと立っていた。
錆びている。
明らかに、使われていない。
俺は周囲を見回した。
森。
高い木々。
見たことのない種類の鳥が、頭の上を横切っていく。
空気は冷たく、湿っている。
遠くで、何か獣の鳴き声が聞こえた。
俺は反射的に、懐から懐中時計を取り出した。
動いている。
針は、午前六時十一分を指している。
「現在時刻、午前六時十一分」
俺は声に出した。
その声に、自分でも驚いた。
なぜ、こんな状況で、業務上の声が出るのか。
でも、俺の体は、もう習慣で動いていた。
時計を、もう一度確認する。
「時計、整正よし」
声に出して、指で時計を差した。
その瞬間。
森の中、錆びた信号機が、わずかに、青く灯った。
俺は息を呑んだ。
錆だらけの、明らかに電気も通っていない信号機が、薄く、青く、光っている。
なぜ。
背後で、草を踏む音がした。
俺は振り返った。
森の隙間から、若い少女が、こちらを見ていた。
息を切らしている。
目に、涙が浮かんでいる。
「ま、まさか……」
彼女は、両手で口を覆った。
「ま、まさか、本物の、鉄路の使徒、様……」
俺は何も答えられなかった。
ただ、俺の足元で、信号機の青い光が、揺らいでいた。
風が、森の梢を鳴らした。
遠くで、何かの鳥が、聞いたことのない節回しで鳴いた。
俺は手のひらに目を落とした。
線路に押し倒されたはずの俺の体に、傷ひとつない。
爪も割れていない。
貨物列車に跳ねられた瞬間の、宙に浮いた感覚だけが、頭の奥に薄く残っている。
夢ではなさそうだ。
夢の中なら、こんなにくっきり、葉の一枚一枚が見えるはずがない。
少女が、おそるおそる、俺の方へ近づいてきた。
亜麻色の髪を後ろで一つに束ね、麻の生地でできた素朴な服を着ている。
スカートの裾には泥が跳ねていて、足元は革の編み上げ靴だった。
胸に、銀色の小さな金具を下げている。
よく見ると、それは、車両の連結器を模した形をしていた。
彼女は、距離を二歩ほど残して立ち止まり、深く頭を下げた。
「お、お声を、もう一度、聞かせていただけますか」
「声?」
「先ほど、お唱えになった、御言葉を」
「御言葉……」
俺は混乱しながら、いま自分が何を言ったかを思い出した。
時計、整正よし。
ただの業務独白だ。
それ以外、俺は何も言っていない。
「あれ、ですか」
「は、はい」
「……時計、整正よし、と」
もう一度、声に出した。
懐中時計を指で差し、復唱の所作を、習慣のままにやった。
信号機の青い光が、また少し、強くなった。
少女が、両手を口に当てたまま、その場にすとんと膝をついた。
膝が枕木にぶつかる、鈍い音がした。
「八百年……」
彼女は、震える声で言った。
「八百年、お待ちしていました」
俺は、何も言えなかった。
風の音と、彼女のすすり泣く声と、信号機のかすかな唸りだけが、森の中に響いていた。




